第30話

 空が教室に入ったのはその日もやっと午後になってからのことだった。

 ワトソンの祖父、というより学院理事長の威光には絶大なものがあるらしく、まだ通常の受付時間前だったにもかかわらず空は全く待たされることなく診察室に通された。

 結果問題なしだったのだが、念のためということで午前中をベッドで過ごし、さらに念には念で再度診察を受けて、ようやく無罪放免となったのだ。


「空、心配したよ、もう平気なの!?」

 もう昼休みが終わる直前でほとんどの子が席に着いている中で、空の姿を見るや洋子は即座に椅子を蹴って駆け寄った。

 いつも付けている赤いゴムの髪留めがない。そのせいか少し大人っぽい感じがする。


「ちょっと転んだだけだから大丈夫。なんともないよ」

 洋子は真偽を見抜こうとするようにじっと空の顔を見つめ、やがて納得がいったらしく安堵の息をついた。


「よかったー。だけどもう勝手に一人で出歩いたりしたら駄目だからね。いつもあたしの傍にいること」

 洋子がびしっと決め顔を作る。


「さすがにそこまでいくとうざいわね」

 一瞬で引き攣った。マネキンのようにぎこちない動きで洋子は教卓の方に首を向け、それからのろりと時間を掛けて空の方に戻ってきた。


「そんなことないよね、ね、空?」

「もちろ……」

「逢田さんはいいかもしれないけど、周りの人間にとっては迷惑なの。少しは状況を弁えてほしいわ。世界はあなた達二人の周りを回ってるわけじゃないんだからね」


「はい……すいませんでした、先生」

 洋子は悄々と自分の席に戻った。

「逢田さんも座って」

「はい」

 空はランドセルを机の上に置くと、中から教科書やら筆記用具やらを取り出して一通りの準備を済ませた。


「先生」

 おもむろに面を向ける。

「質問は授業が始まってから受け付けます」

 刈谷の先受けを空は無視した。


「洋子ちゃんはわたしのことを気遣ってくれました。それはとても嬉しいことで、他人の心ない言葉で貶められたりはしません。誰かを大切に思ったり思ってもらったりすることは、嫌ったりうるさがったりすることよりもずっと素敵なことだと思います」


 教室内に沈黙が落ちかかる。大半がどう反応すればいいのか分らないといった空気の中で、刈谷は何事もなかったかのように言った。


「委員長、号令。授業を始めます」

「は、はいっ、きょーつけぇっ!!」

 洋子の掛け声は今までで一番大きくて、そして少しだけ湿っぽかった。




「空、帰ろっ」

 誰が聞いても一発で分るぐらい洋子の声は弾んでいた。まるで明日から夏休みで、そのうえ楽しい予定がいっぱいに詰まっているというみたいだった。


「ごめん洋子ちゃん、ちょっとだけ待って」

 空はまだ仕度が済んでいない。だが空だけが特別にのろいというのではなく、まだ半分以上の子はランドセルに荷物を詰めている最中だ。


「早く早く」

 洋子が空の肩を揺さぶる。もはや急かしているのだか邪魔をしているのだか分らない。洋子のせいで手が滑り、筆入れが床に落ちる。座ったままでは届かない位置まで滑って行った。


「いいよ、あたしが拾う」

 洋子が空から離れて取りに向かう。だが一足遅かった。


「逢田さん、これ」

 空の筆入れを拾った先坂が近付く。洋子のことは完全無視で、しかし空だけを見ているというにしては伏し目がちだ。


「それとちょっと話がしたいんだけど……その、朝のこととか」

「朝のことって何よ」

 洋子がすかさず反応する。

 しかし先坂は空しか相手にしないと決めているようだ。


「都合悪い?」

 乞うようにして尋ねる。空に断る理由はない。

「大丈夫だよ。教室でいいの?」

 先坂は首を振った。


「できれば二人きりになれる所がいい」

「そんなの駄目」

 洋子が却下する。


「どういう魂胆か知らないけど、空には指一本触れさせないんだから。ひょっとして今朝空が怪我したっていうのもあんたのせいなんじゃないの?」

 本当に疑がっているというより単なる言い掛かりに近かった。しかし先坂は痛い所を突かれたように黙り込む。洋子はますますいきりたった。


「ちょっと、本当にそうだったの? もう絶対放っておけないわ。何があったのか洗い浚い白状してもらうからね」

「あなたには関係ないことよ」

 先坂は一蹴しようとしたが、それで引く洋子ではない。


「関係ありありよ。だって空はあたしが守るって決めてるんだから。空もそれを望んでる。あんただって空が刈谷先生に言ったこと聞いたでしょ」

「自惚れるのも大概にしたら」

 先坂はついに限度を超えたらしかった。洋子に正面から言い返す。空は既に置き去り状態だ。


「そもそもあなたがしっかりしていないせいで逢田さんがとばっちりを受けたんじゃない。それで自分の非を反省するどころか庇ってもらっていい気になってるなんて、見てるこっちが恥ずかしくなってくるわ」


 洋子の目が吊り上がった。

「誰がいい気になってるって?」

「私の目の前にいるあなた、姫木洋子さんよ」

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