第29話

「これだって学校の指定服なんだから問題ないはずです。それとも制服で走れって言うんですか?」

「誤解しないでくれたまえ。きみを責めてるわけじゃない」

 敵意のないことを示すように、画面の中でホームズが小さな両手を広げた。


「そもそもぼくに生徒の規律を云々する資格はないからね。ただ毎日着ているにしてはショートパンツがまだ真新しいのが少し気になっただけだ。サイズも大きめのようだし、今後の成長を見越して購入したばかりといったところかな」


 先坂は素早く上衣のシャツの裾を引っ張り下ろして短パンを隠した。伸びちゃわないかな、と空はつまらない心配をした。


「そんなのあなたに何の関係があるんですか。じろじろ見たりして気持ち悪い。やっぱり変質者なんだわ。病院に行くなんていうのも嘘で、本当は空さんを自分の小屋に連れ込むつもりなんでしょう。空さん早く降りて! こんな人の言うこと聞いたら駄目!」

 先坂は後部座席に身を入れると力ずくで空を引きずり下ろしにかかった。


「待ってくれ、今のはホームズが言ったことで僕は何も」

「抉られたいんですか? そんな頭の悪い言い訳が通るわけないでしょう」

「仕方ないな。ワトソン、ここはいったん引き上げて空くんには後でまた改めて」

「始ちゃん待って、お願いだから服引っ張らないで」

 混沌とし始めた場を、ただの一言が制圧する。


「何を騒いでいる」

 壮年の男性だった。沈黙した面々を順繰りに見やってから、ゆっくりと近付いて来る。紺色のチノパンに白のポロシャツというカジュアルな装いにもかかわらず、直ぐに伸びた背筋と鋭い眼光とが、正装した侍さながらの威厳を醸し出していた。


 男性の半白の髪が湿っていることに空は気付いた。ゲストハウスの浴室を使っていたのはどうやらこの人物だったらしい。

 転入生じゃなかったのか。少し残念だった。


尊悟そんご、なぜ俺のカートを勝手に使っている」

 男性はワトソンを尊悟と呼んだ。

「カートに子供を乗せているのはどういう理由だ。それも私服とは。まさか貴様」

 炎のように苛烈な気配が吹き上がる。


「我が校の児童を誑かし、学院の外に連れ出そうという魂胆ではあるまいな」

 もしその通りならば素っ首刎ね跳ばしてくれる。そう続いたとしても誰も違和感を持たなかったに違いない。


「ご、誤解です、お祖父さま!」

 ワトソンは蒼白になっていた。

「僕はこの子を病院に連れて行こうとしていただけです! 頭を打ったようなので、念の為にと」


「なんだと?」

 鬼でも怯みそうな視線で睨む。ワトソンの祖父だとしたら普通に考えてとっくに六十歳は超えているはずだが、孫の軽く千倍ぐらいの覇気を有しているらしい。


「だったらぐずぐずするな、不肖者めが」

 成人男性として決して小さい方ではないワトソンの体を、カートの運転席からゴム鞠みたいに放り出した。


「俺が行く。その方が話が早い。それでどういう状況だったのだ? 言われる前に説明せんか、馬鹿者」

「顎を突き上げられて後ろに引っ繰り返ったんだよ。けれど頭の方は大したことはない。うまく受け身を取ったようだね」


 地面に転がり役立たず状態のワトソンに代わり、その胸に抱かれたホームズが答える。男性はホームズへは苦々しげな一瞥をくれただけだ。


「今の話の通りか?」

「あの、でも私、そんなつもりじゃなくて」

 訊かれた先坂は脅えたように後退りした。


「本当に逢田さんに怪我をさせるつもりなんてなかったんです、信じてください、理事長先生!」

「つまり事実なのだな?」

「……はい」


 消え入りそうな声で先坂は認めた。今にも泣き出しそうなほど萎縮しきっている。

 この人、理事長先生だったんだ。金槌で叩いても跳ね返しそうながっしりした肩を後部座席から眺めながら空は思った。ということはワトソンは理事長の孫ということになる。


「君の担任は刈谷先生だったな」

 理事長は先坂のことを知っていた。見えない石に押さえつけられたみたいに先坂は下を向いた。


「追って沙汰はする。尊悟、後の始末はつけておけ」

 まるで切腹でも申し付けているような口調で告げた。

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