第11話

「……ちゃん、……子ちゃん」

 洋子はぼんやりと薄目を開けた。

「洋子ちゃん、お願い……」

 自分の体を揺すっている相手が誰なのかはスモールランプの弱い明かりの中でもすぐに分った。


「美緒……おしっこ?」

「うん。ごめんなさい」

「いいよ」


 ぽんっと美緒の頭に手を乗せる。いつものことだ。三日に一度ぐらいはこうして夜中に起こされる。

 だが身を起こした洋子は微妙な違和感を覚えた。目の前を塞がれているような、窮屈な気分だ。なんだろう? 少し考えて、分った。天井が低い。いや逆だ。自分が昨日までより高い位置に寝ているのだ。


「空は?」

 美緒に囁く。

「知らない。たぶん寝てる」


 美緒は答えた。今夜から上の段で寝ることを伝えるのを忘れていたが、下を覗くことなしに直接こちらに来たらしい。だが洋子は驚かない。美緒はとても聡い子だ。その分ちょっと神経質なところがあるけれど。


「今降りるから。静かにね」

「うん」


 あえて注意するまでもなかったが、美緒は素直に返事をすると音を立てずに梯子を降りた。たぶん空は熟睡しているだろうから、そう簡単に目を覚ましたりはしないはず。そう思いはしたものの、洋子もできるだけそっとベッドを抜け出した。

 少しだけ中の様子を見てみようと下の段のカーテンに手を掛ける。


「ん……お兄ちゃん」

 慌てて引っ込めた。すぐに寝言だと気付き、洋子の口元は緩んだ。どうやら空にはお兄さんがいるらしい。心の中でメモを取る。明日の朝起きたら早速どんな夢を見ていたのか訊いてやろう。


「行こうか」

 美緒と手を繋いで部屋を出る。

 洋子もついでに用を足し、手を洗ったところでハンカチを忘れたことに気付いた。すぐに美緒が自分のハンカチを差し出す。


「ありがと、美緒」

 遠慮せずに借りる。これもいつものことだ。夜中のトイレで美緒がハンカチを忘れたことは一度もない。


 トイレの電気を消す。非常灯が点いているだけで廊下はかなり暗い。同じ一階とはいえ、洋子達の部屋からはほぼ建物の端と端ほど離れている。美緒ぐらいの歳の子が一人で来られなくても無理はない。


 ゴム底のサンダルはほとんど足音を立てない。寮の内も外も静まり返っている。もし今どこかの部屋のドアが開いたりしたら、他の子の姿に安心するより急な物音に驚いてしまうに違いない。

 だが結局そういうことはなかった。洋子と空の部屋の一つ手前、111号室のドアを開ける。


「え?」

 途端、洋子は声を上げた。美緒がすかさず背中に張り付く。

 だが別にたいしたことではない。少し驚いただけだ。


「奈美、どうかした?」

 奈美が二つの部屋を繋ぐドアの辺りに立っていた。こんなのは洋子の知る限り初めてだ。いったん眠ってしまえば奈美はまず朝まで目を覚まさない。


 美緒がほっとしたように洋子の陰から進み出た。怖がりなりに奈美に対してはしっかり保護義務を感じているらしい。奈美の傍らに歩み寄る。


「みおちゃん、はかせがいるよ」

 奈美は意味不明なことを言った。いや表面上の意味なら明白だ。しかし状況からすればおかしい。こんな時間に、いや何時であろうと、ワトソンがここにいるわけがない。少し舌っ足らずだが普段の奈美ははっきり喋る。なのに今は妙にぼんやりした口調だった。きっと悪い夢でも見たのだろう。


「ほら奈美、寝るよ」

 美緒が奈美の腕に手を掛けた。そして何気なくドアの向こうに目をやって、びくりと身を竦めた。


「……ちょっと、まさか」

 美緒の不穏な反応に洋子の警戒心が高まる。本当にワトソンがいるのか。

 だとすれば空のことを狙って?


 今さらながら不審に思う。ワトソンはいったいどうして空にパンツを渡そうとしていたのだろう。いくら変態とはいえ脈絡もなくそんなことをするとは考えづらい。

 つまりワトソンは空がノーパンだと知っていた?


 偶然スカートの中が見えたのか。それならいい。いやよくはないが、まだましだ。

 そうではなく、空がパンツをなくしたことを最初から把握していたのだとしたら。

 俄然として一つの疑惑が浮かび上がる。ワトソンこそ空の下着を盗んだ犯人なのではないか。


「ワトソン、いるの?」

 美緒と奈美を下がらせて部屋の中を覗く。ベッドの下の段のカーテンが海藻みたいに揺らめいていた。風に煽られているみたいだったが、そんなはずはない。寝る前に窓は閉めた。それにもし開いていたとしても、窓のカーテンはそよとも動いていない。


 何かとてもおかしなことが起こっている。洋子は回れ右したくなった。だが友達の操の危機かもしれないのだ、びびってる場合じゃない!


「空?」

 部屋に一歩踏み入れる。途端、ひときわ激しくカーテンがめくれ上がった。その向こうに寝ているのはもちろん空だ。疲れて熟睡しているとは到底思えないほど苦しげに表情が歪んでいる。


「……あ、んっ」

 吐息とも呻きともつかない声が半開きの口から洩れる。布団は足先までめくれていて、パジャマはボタンが全て外れて前がはだけていた。洋子に比べればずいぶんふっくらした胸があらわになっている。ズボンは膝の辺りに、そして下着は股の付け根近くまでずり下がっていた。

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