第8話
「逢田さんって子供の相手するの上手だね。奈美が駄々こねたりするとあたしだとつい怒鳴ったりしちゃうんだけど」
勉強机の椅子を引っ張っり出してきて座る。空はベッドに腰を掛けた。
「で、最初の話に戻るけど」
「最初の話……インフレーション理論とか?」
「誰が物価の話なんかしてるの。パンツのことだってば」
「今はいてるのは五百円ぐらいだったと思う」
「だから値段とかじゃなくて! どうして今日の昼間、逢田さんがパンツはいてなかったのかって話! まさかいっつもそうなの? いつもじゃないにしても、その日の気分ではいたりはかなかったりするとか」
「今日はたまたまだよ」
空だって好きでノーパンでいたわけではない。
「だってなかったから」
「何が」
「パンツが」
まるで難しい哲学の問題に頭を悩ませているみたいに洋子は眉間に皺を寄せた。
「ごめん、ちょっとあなたが何を言っているのか分らない……」
だが別に難しい話ではなかった。
「朝ね、シャワーを浴びた時に」
「替えがなかったってこと? それで古いのをもう一回はくのが嫌だったんだ。気持ちは分るけど、でも汚れ物よりノーパンの方がましっていう発想は人として女の子としてかなりどうかと思うわ」
洋子は呆れた顔をした。だが事実はそうではない。
「違うの。替えもなかったけど、それまではいてた方もなかったの」
「……どうして。洗濯機に入れちゃったとか?」
「お風呂から出たらパンツだけなくなってたの。服とか他の下着はあったのに」
「何それ」
洋子の眉間の皺が深みを増した。トランプぐらい挟めそうだ。
「それってどこの話? 外のホテル?」
「えっとね、ここのゲストハウスっていうところ」
「あそこって生徒でも泊まれたんだ。知らなかった」
基本的には学外からの客の便に供するための宿泊施設である。複数存在しているが、空が利用したのは初等科の校舎に一番近くて収容人員の少ない建物だった。
「当然部屋には鍵掛けてあったんだよね」
「掛けてなかったはずだけど」
「そうだよね……って掛けてなかったの!? どうして?」
「だってもし用のある人が部屋に入れなかったら困るよね」
「よからぬ用だったりしたらどうするのよ。逢田さんさ、ああ、もうめんどくさいから空でいい?」
「うん、空がいい」
「じゃあ空、こんなことあたしも言いたくないけど、それって盗まれたってことじゃないの?」
「でも誰がそんなことするんだろう」
「それはやっぱりワトソンみたいな変態が……」
洋子は急に寒気を覚えたように身を震わせた。
「あたし今すっごく怖いことに気付いちゃった」
「どんなこと?」
「空、ワトソンの小屋に連れ込まれてたじゃない」
「うん。連れて行ってもらった」
「あの時もノーパンだったってことよね」
「そうだよ」
空はあっさりと答えた。洋子は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「あんた自分がどれだけ危ない状況だったか本当に分ってないの? もう六年生なんだよ? 奈美みたいな小っちゃい子供じゃないんだからさ。ほんと、もしあたしが行かなかったらどんなことになってたやら」
「どんなことになってたの?」
「そ、それはだから、ああいう感じに」
洋子は急にしどろもどろになる。
「博士のうちに行った時も洋子ちゃんはっきり教えてくれなかった」
「あたしは、空がワトソンに何かされるんじゃないかって心配で」
「何かって何?」
「何かっていうのは、つまり、女の子の一番大切なものを、無理やりに」
「えっちなこと?」
「空」
じろりと睨む。
「分っててあたしのことからかってたわけ? いい度胸してるじゃない。言っとくけど、あたしは先坂さんみたいなつんつんしてるだけのへたれじゃないからね。土建屋の娘舐めてると痛い目見るよ」
洋子は両手で空の首を絞めてくる。全然本気の力ではなかったので苦しくはなかったが、一応申し開きはしておくことにする。
「違うよ、本当に今気付いたの。洋子ちゃんの心配って、もしかしたらそういうことなのかなって」
洋子はいったん手を緩めたが、すぐに激しく揺さぶりを加えてくる。
「嘘よ。じゃあ空は全然そんな心配しなかったってわけ?」
「そうだよ、だって、わっ!」
「あだっ」
洋子に揺さぶられた反動で空のおでこが洋子のおでこと思い切り鉢合わせた。ボーリングの球を落としたみたいな重い音がした。
「洋子ちゃん、大丈夫?」
額をさすりながら、しゃがみ込んでしまった洋子に尋ねる。
「……うう、まじでくらっと来た」
青息吐息といった風情で立ち上がった洋子は、ベッドの空の隣にぽすんと腰を落とした。マットレスがわずかに沈む。
「理由を聞かせてよ」
身を傾けて空に体重を乗せてくる。
「どうして空は平気でいられたの? まさかワトソンにならされてもいいと思ったからなんてわけないし」
「それは分らないけど」
「いや分るでしょ、分りなさいよ。だってワトソンだよ? ロリコンのオタクの変態だよ? あんなのに裸見られたり触られたりしちゃうなんて、想像するだけできもいじゃない」
「でもわたしそういう想像したことないし」
「それじゃまるであたしはあるみたいじゃない」
「ないの?」
「あるわけないでしょ」
洋子は鳥肌立ったように自分の腕をさすった。
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