第5話

 そら達が教室に戻ると既に帰りの挨拶は終わっていた。確かに普通ならとっくに放課後という時間だろう。遅くなったのは空が悪いのだから、待っていてもらえなかったからといって文句を言えた義理ではない。というか空は教室がほとんどもぬけのからとなっていたことを全く気にしていなかった。


「どういうことですか先生。逢田あいださんがかわいそうじゃないですか。何考えてるんですか。それとも何も考えてないんですか?」

 だから洋子ようこが担任教師の刈谷かりやさきに喰ってかかるのを見ても、それが自分のことという感じがしなかった。


「はいはい、先生が悪かったわよ。配慮が足りませんでした」

 刈谷はいかにもおざなりな調子で謝罪する。教え子に面罵されたのが不愉快というより、単にまともに取り合うのが面倒といった風情である。

 その態度がますます洋子をヒートアップさせた。教師用のスチール机に両手をばんと叩きつける。


「全っ然、反省してないですよね。みんながいなくなった後の教室を見て逢田さんがどんな気持ちになったと思うんですか? 転入してきたばっかりだっていうのに一番大変なゴミ捨てに行ってくれて、だけど慣れないせいで道に迷って、おまけにワトソンみたいな変態にまで絡まれて、ものすごく心細い思いをしたんです。それでやっとの思いで教室に戻ってきたら、みんなにねぎらってもらうどころかもう下校してるとかあり得ないです。これってもう立派ないじめですよ!」


 洋子の言葉に空はひそかに驚いた。いじめられていたなんてちっとも気付かなかった。


「何言ってるのよ。こんな時間になるまで戻って来ない方がどうかしているんだわ」

 洋子に反論したのは副学級委員長の先坂さきさかはじめだ。黒く艶やかな髪を後ろで纏め、キリンの首みたいに背筋をぴんと伸ばしている。垂れ気味の目を無理矢理のように吊り上げて、先坂は空を睨んだ。


「だいたいあなた、私と刈谷先生をこれだけ待たせておいて遅れてすいませんの一言もないってどういうことなの? 礼儀や常識というものがないの?」

「誰も一緒に残ってなんて頼んでないけど」

「もともと自分がゴミ捨て当番だったくせに」

 刈谷教諭がひとりごちるように、そして洋子ははっきりと当人に聞かせるべく突っ込んだ。


「あなた達には言ってないわよ!」

 先坂は二人纏めて怒鳴りつけ、それからはっとしたように刈谷にだけ頭を下げる。

「すいません先生、失礼しました。ですけど私には学級委員としてクラスの秩序を乱した生徒に注意する義務がありますから」


「えっらそうに。あんたに他の子をどうこうする権利なんてないわよ」

「洋子ちゃん」

 空は控えめに洋子のブラウスの袖を摘んだ。

「わたしが話すから。ちょっとだけ待ってて。ね?」


「分った。遠慮しないでびしっと言ってやっていいんだからね。逢田さんにはあたしが付いてるから」

 ファイト、というように洋子は小さくガッツポーズをして後ろに下がる。代わって空は半歩前に進み出た。


「何よ。私は間違ったことなんて一つも言ってないわよ」

 背の高い空に負けまいとするように、先坂は顎を反らせる。だがつま先立っているせいで体が小刻みに震えているのが玉に瑕だ。空は深々と身を折った。


「始ちゃん、刈谷先生、遅くなってすいませんでした。これからは気を付けますのでどうか許してください」

「あ……」


「はい、気を付けてね。もともと謝るようなことでもないけど」

 刈谷はさらりと応じた。

「先坂さんももういいわね」


「は、はい、その、えーと……誰が始ちゃんよっ」

 ボールがキャッチャーミットに納まってからバットを振るみたいなタイミングで先坂は怒った。

「あれ、違った?」


「合ってるわよ。先坂さんの下の名前は始だもん」

 首を傾げた空に、洋子が答える。

「ねえ始さん?」

「だから下の名前で呼ぶなっていうの。吊るすわよ」

 野伏せりに囲まれた落ち武者さながらに先坂の目が据わる。


「先坂さん、乱暴は駄目よ。姫木さんも分ってて言わないように」

「……はい」

「はい、すいません」


「始ちゃんって、もしかして自分の名前があんまり好きじゃないの?」

 空が尋ねると、先坂の身から仄暗いオーラのようなものが立ち昇った。

「当り前でしょう……絞めるわよ」


「どうして?」

「ふざけてるの? ハジメなんてどう考えても男の人の名前じゃない。冗談じゃないわ。もし次に呼んだら削るからね」


「そうなんだ。残念」

 空は肩を落とした。

「素敵なお名前だと思うんだけど」


「……本当に?」

「うん」

「あ、そう、ふうん……でも私は嫌いだから」


「じゃあ普段は呼ばないようにするね」

「だから普段とかじゃなくてっ」

 先坂は声を荒げ掛け、だがすぐにため息をついた。

「もういいわ。ちょっと話が通じないみたいだし」

 毒気を抜かれたみたいに面を逸らした。


「くだらない話は終わったわね。じゃあもうみんな下校しなさい。逢田さんはお疲れ様」

 刈谷が場を締めにかかる。

「寮の部屋は姫木さんと一緒だから。荷物ももう届いてるはずよ」

 空へ告げた後、洋子へと顔を向ける。


「姫木さん、連れて行ってあげて。案内とかもお願いね」

「分りました。任せてください」

 体のいい丸投げだったが、洋子は嬉しそうに請け合った。


「逢田さん、改めてよろしくね。分らないこととか困ったこととかあったらいつでも言ってくれていいから」

「ありがとう洋子ちゃん。こっちこそよろしくお願いします」

 挨拶を交わす二人を横目に、先坂が不服そうに異議を唱える。


「おかしくないですかそれ? どうして姫木さんと同室なんですか?」

「空いてたからよ。それに何かと都合がいいし」


「でもルームメイトは違う学年にするっていう決まりがあるのに。逢田さんばかり特別扱いするのは不公平です。そもそも転入できたのからして普通じゃないのに。いくら逢田さんの伯母さんが……」

 先坂は言い淀んだ。ちらりと空を見て、だが結局口を噤む。刈谷はもちろん先坂の屈託など気にしなかった。


「どういう事情であれもう決まったことです。それに私が決めたことでもないわ。文句があるなら事務方か理事会に言ってちょうだい。じゃあ昇降口が閉まらないうちに早く教室から出ること。いいわね」

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