第4話

「ほら逢田さん」

 洋子が腕を引いて急かす。

「じゃあワトソン博士、これ」

 傍に来たワトソンに空がタブレットを返すと、ワトソンは反対側の手を差し出した。


「これは約束の品だ。使ってくれ」

 渡されたのはきちんと三つ折にされた布地だった。ミントグリーンとライトグレーのストライプ。さらさらとした手触りが気持ちいい。広げてみる。パンツだ。もちろん女の子ものの。


「な、な……」

 隣で洋子がわなわなと震え出す。

「サイズはそれで合っていると思う。気に入ってもらえるといいんだが」

「可愛いですね。わたしこういうの好きです。本当に貰っちゃっていいんですか?」


「絶っ対、駄目っ」

 火でも噴きそうな面持ちで洋子が横から口を挟んだ。

「逢田さん、渡して」


「これ?」

 空が縞パンを差し出すと、洋子はまるで汚い物でも触るみたいに親指と人差指の爪先で摘み上げた。だがそれも一瞬のことで、すぐさま部屋の中に放り入れる。


「あ」

 空は驚いたが、それは前振りに過ぎなかった。

 洋子は腰を屈めてサンダルを拾った。焦茶色の男性向けの品だ。ワトソンの持ち物だろう。


「この……」

 掴んだサンダルを頭上高くに振りかぶる。

「ど変態……」

 膝を上げ、腰を捻りながら腕を引いた。危険を察知したらしいワトソンが急いで部屋の奥へと後退していく。だが遅かった。


「がーーっ!!」

 洋子の体が思い切り前にのめり、手先から弾丸みたいにサンダルが飛び出して、一直線にワトソンの顔面へとぶち当たった。

 素晴らしくいい音がした。すごく痛そう、と同情するよりもいっそ清々しささえ覚えてしまう。


「帰るわよ」

 後ろの襟首を掴まれる。体は空の方が大きいから、頑張れば踏み止まれただろうが、洋子の迫力が許さなかった。


 ワトソンのことはいくらか気になったものの、しょせんは女子小学生の力で投げつけられたサンダルである。怪我というほどのこともないだろう。

 ワトソンの住処を離れ、池を廻り込み、木立を抜けて、やがて小道のところまで戻る。


 それまで引きずるようにして運んでいたゴミ箱を洋子は叩きつけんばかりの勢いで地面に置いた。ずっと掴みっぱなしだった空の襟もようやく離す。ゴミ箱と空を両方引っ張って歩くのは洋子には結構な重労働だったはずだ。


「逢田さん、ちょっとそこに座って」

 腕組みをした洋子が顎を振る。

「はい」

 空は地べたの上に正座した。


「違うから、そこのベンチに!」

 洋子は慌てて空を立たせ、スカートに付いた砂埃を払うと、改めて小道の脇のベンチへ座らせた。

 洋子は空の前に立って再び腕組みをする。しかし今度はさっきほどの迫力はなかった。切り出し方に迷っているといった風情だ。


「……逢田さん、あなた自分が何したか分ってるの?」

 やがて一つ息をついてから洋子は言った。責める色は薄いが、それで空の落ち度が帳消しになるわけではない。非を認めて謝罪する。


「ごめんね。もうお掃除の時間終わっちゃってるよね。それなのにいつまでも教室にゴミ箱がなかったらみんな困るよね」

 洋子は苛立たしげに首を振った。


「ゴミ箱なんかどうだっていいんだってば。もしかしたら先坂さんが後で何か言ってくるかもしれないけど、無視していいから。それより」

「うん」


「どうしてあの変態と一緒にいたの?」

「ワトソン博士のこと?」

「はかせって」

 鼻で笑う。


「あれがそんな大層な身分のわけないじゃない。もしかしたら副業で用務員の仕事してる大学の先生とかもどこかにはいるかもしれないけど、あれは絶対に違う。ちっちゃい子供が『ぼくなんとかマンだー』って遊んでるみたいなものなんだから」


「じゃあどうして白衣着てるんだろ」

「だからごっこなの。博士だから白衣って発想が幼稚過ぎでしょ。それで話を戻すけど、いったいなんだってワトソンの小屋なんかにいたの」


「道に迷って、池のところに座ってたら声を掛けてくれたの。困り事を解決してくれるからって」

「ワトソンが言ったんだ。それでのこのこついていったと」


「言ったのはホームズちゃんの方だけど」

「同じことよ」

 洋子は撥ねつけるように言った。


「とにかくあれにはできるだけ近寄らないようにすること。一人であれの家にまで行くなんて自殺行為だから。その年で人生台無しにされたくなんかないでしょ」

「えっと、具体的にはどうなるの?」


「具体的って……」

 洋子は口ごもった。窺うように空を見る。

「逢田さん、もしかしてわざとやってるんじゃ……なさそうね」

 空が首を傾げると、洋子は肩を落とした。


「いいわ。あんまりよくないけど、とりあえず教室に戻ろう。続きはまた後で」

「でも洋子ちゃん疲れてるみたい。少し休んでいった方がよくない?」

「あはは……体はいたって健康だから」

 心配してくれてありがと、と洋子は空の肩を叩いた。

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