第2話
最初に水が跳ねる音を耳にしてから池はもうずっと静かなままだ。少し寂しい。手を伸ばして指先を浸してみる。冷たくて気持ちいい。そしてとても綺麗に澄んでいる。水浴びをしたらきっと素敵だろう。
空は襟元のリボンの結び目を解いて、ブラウスのボタンに手を掛けた。上から三つめまで外したところで指が止まる。吹き抜ける風が意外と涼しい。体を拭くタオルはない。水から上がった後、自然に乾くまで待っていたら寒くて風邪を引いてしまうかもしれない。ただでさえここのところよく眠れなかったり気分がもやもやしたりする日が続いているのだ。やっぱりやめておこう。再びボタンを留め直してリボンを結ぶ。
気付けば日が翳ってきている。本格的に暗くなるまでにはまだ暫くあるだろう。しかしこのまま座っていたところで埒は明かない。
「困ったな」
さっきに比べれば切実そうに呟く。だが別に誰かに聞かせて助けを求めようとしたわけではなかった。だいたい聞いてもらおうにも周りには誰も人が――。
さくり。草を踏む音がした。空の座る後ろの方から。
「やあ、お困りのようだね」
びっくりした。
かといえば実は意外とそうでもなかった。
空はゆっくりと振り向いた。
声から想像された通りの端麗な容姿の持ち主だった。服装は少し変わっている。千鳥格子模様の茶色いジャケットにチョッキ、白いシャツに黒のリボンタイを締めている。黒いズボンは膝丈で、チェック柄の紺色のハイソックスに焦茶色の革靴。頭にはハンチングを被って、口にはパイプを咥えている。だが火は点いていないらしく煙は上がっていない。
「こんにちは、ええと」
空はある一つの名前を思い浮かべた。世界中の人が知っている有名な物語の主人公。果たして。
「ぼくはホームズだ。探偵をしている」
やっぱり。空は心に頷いた。オリジナルとは違う部分もあるみたいだが、雰囲気はよく出ている。
ホームズは空が納得したのを見て取ったらしい。我が意を得たりというように砂色の瞳を細めると、言った。
「もしよかったらホームズちゃんと呼んでくれたまえ」
りん、と鈴が鳴るような響き。
「あの、どうして」
どうしよう。訊いてもいいのかな。自分と同じくらいか、欧州系は大人びて見えるから一つ二つ年下かと思える少女を前に、空はためらう。
すごく可愛いということを別にしても、これまでに出会ったことのないタイプの女の子だった。空も変わっていると言われることがあるけれど、ホームズに比べれば普通だと思う。
しかしホームズは空の疑問を違ったふうに解釈したらしい。
「どうしてきみが困っていると分ったのか、かい? なに、ごく単純なことさ。ワトソン、きみから答えてやりたまえ」
ホームズが促した相手は、白衣を着た青年である。
「僕がかい? 勘弁してくれよ、ホームズ。どうして僕が答えを知っているんだい」
二十代半ばぐらいだろうか。背が高く、体付きもがっしりしている。芝居がかった口調のわりには、表情がいまひとつ乏しい。
「なぜなら実際にきみは知っているからさ。推理に必要な情報は全て揃っている。あとは組み立てるだけだ。きみ、空くんだったね」
「はい」
返事をした後で空は疑問に思った。わたし名前言ったっけ?
「空くんはさっき『困ったな』と呟いた。それも独り言でだ。人は普通独り言で嘘はつかないものだよ。従って空くんは真実困っているということになる。どうだいワトソン、これがぼくが空くんが困っていると結論した理由だ」
モノリスみたいに平板な調子でワトソンは笑い出した。
「なんだ、そんな簡単なことだったのか」
「分ってみればなんだって簡単に思えるものさ」
さくり。草を踏む音が近付く。数はさっきと同じ、一人の分だけだ。
「とにかくそんなところに座り込んでいても仕方がない。どこか怪我をしているわけではないね? よろしい。ではついてくるといい。こちらのワトソン博士がきみの困り事を解決するのに手を貸してくれるよ」
「あ、はい」
空はスカートの裾を押えながら立ち上がった。軽くお尻を払う。枯葉が一枚指に引っ掛かって地面に落ちる。
「ワトソン、彼女をぼく達の住まいに案内してやりたまえ」
「承知した」
ワトソンの歩調は緩やかだが歩幅が大きい。空は少し急ぎ足になって白衣の背中を追い掛ける。
どうせ案内してくれるなら初等科の校舎の方がいいのにな。空は思った。だがワトソンはどんどん池を廻り込んでいき、ちょうど半周ほどしたところで、空がここまで来るのに通ったのと似たような樹々の切れ目を進んだ。たぶん空の行きたい方はこっちではない気がする。迷っている間に方向感覚はすっかり怪しくなっていたものの、さすがに真反対ということはないだろう。
だが他に当てがあるわけでもない。色々と風変わりな人達ではあるが、悪意は感じられない。きちんと事情を話せば最終的には空にいいようにしてくれると思う。
「着いたよ、ここだ」
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