わたしのパンツを取らないで
しかも・かくの
第1話
水音が聞こえた。
なんだろう、魚かな?
「くしゅん」
湿気にくすぐられたせいか、くしゃみが出る。少しばかりお行儀悪く、空はずずっと鼻を啜り上げた。幸いなことに、かどうかは微妙だが、不品行を咎める人は周りにいない。
というか誰もいない。
すごいな。学校の中なのに。
まるで人里離れた森の中にいるみたいだった。前の学校もわりと静かな所だったが、街の喧騒と無縁ということはなかったし、何よりずっと狭かった。
それでも都心近郊としては十分以上の敷地があっただろう。よその学校のことは知らないが、少なくとも空はクラスメイトから広さに関する不満を聞いた覚えはなかった。
この学院が規格外なのだ。敷地を歩いて一周すればそれだけで日が暮れていしまいそうなほどだ。だがそれで実際に何か困ることがあるのかといえば。
「どうしよう、困ったな」
空はまさに現在進行形で困っていた。しかしその内容に反して、口調は至ってのんびりしている。
「っしょ」
真新しい制服が汚れることも気にせず、池の畔に腰を落とす。赤いタータンチェックのスカートは可愛いけれど丈が短い(といっても膝小僧が覗くぐらいだが)。朝からなのでだいぶ慣れてはきたものの、こうして姿勢を変えたり強い風に吹かれたりするとやはり少し心許ない。
そろそろ教室に戻らないと。空は思った。だがいかんせん道が分らない。
まさか校内で迷子になるとは想像もしていなかった。とはいえ本物の森の中で遭難したわけでもないのだ。いざとなったら適当に歩いて行けばきっとなんとかなるだろう。
「
無事に帰り着けるかどうかよりもそちらの方が気掛かりだった。戻りも一緒にという申し出を「大丈夫だから」と断ったのは空である。
「そう? ごめんね、転校してきたばっかりなのにこんな仕事押し付けちゃって」
学級委員長の
「わたしだって今日からクラスの一員なんだから。決められた仕事をするのは当然だよ」
「決められたっていうか、
二人でゴミ箱を抱え上げ、中身を焼却炉へと落とし込む。金属製のゴミ箱はそこそこ重く、焼却口は位置が高い。空なら一人でもできそうだが、洋子だけなら大変だろう。低学年の子だったら三人掛かりかもしれない。
校舎からここまでずいぶんと歩いて来た。たぶん十分は掛かっただろう。空だけでは辿り着けなかったかもしれないが、ここまでの道順は覚えている。帰りはその通りに引き返せばいいだけだ。難しいことはない。
「もうわたし一人で平気だから。つき合ってくれてありがとう」
「じゃあ悪いけどあたし先に行くね。また後で」
「うん」
洋子は小走りになって戻っていった。もともと別の用事があったのに、はるばるこんな所まで付き合ってくれたのだ。
「よいしょっと」
空はゴミ箱を持つとおもむろに歩き出した。
ほどなく、行きには気付かなかった別れ道にぶつかる。校舎へ戻るにはこのまま真っ直ぐだ。とりあえず曲がってみる。少しして再び別れ道。うーん、こっちかな。また別れ道だ。さっきは右にしたから今度は左にしよう……といったことをたぶん六回繰り返した。この時点で既に独力での帰還は甚だ困難な状況となっていたのだが。
「あ、猫だ」
それが決め手となった。
道端の日陰に、真っ白い猫が丸くなって寝そべっていた。空が近付くと、ぴくりと耳を立てて顔を上げた。目が合う。ニャウ、と鳴く。学院に棲みついているのか、首輪こそ着けていなかったものの、人には馴れているようだ。
それでも一応の警戒心は持っているらしい。
あともう少しで撫でられそうというところで、白猫は立ち上がった。それでも急いで逃げ出したりはしない。
まるで貴族さながらに優雅に歩き始める。見知らない人間に気安く触られるのはご免だが、慌てるほどのことでもないといった態だ。
たぶん、舐められている。だが空はそんなことでは怒らない。
「どこに行くの?」
後に続くと、白猫は一瞬足を止めて振り返った。ウニャア。どこだっていいじゃない。そう言ったのかは分らない。道を外れて敷地の奥へと進み入る。
草の生えた土の上を歩くのは気持ちよかった。やがて、人間風情について来られることにうんざりしたのか、白猫は突然走り出した。あっという間に引き離される。頑張って追い掛けようかと一瞬だけ思ったが、大きなゴミ箱を小脇に抱えて全力疾走するのはきつそうだ。
ゴミ箱で思い出す。空は気ままな散歩の途中というわけではないのだ。さすがに戻らないとまずいだろう。けれど。
「ここ、どこだろ?」
周囲に顔を向けてみても、初等科の校舎はおろか、どんな建物の影さえ見当たらない。
代わりに池があった。大きさは25メートルプールの半分ぐらい。周りには厚く樹々が繁り、だがちょうど空のいる場所から、人ひとりが通れるぐらいの切れ目が覗いている。空はごく自然に池の方へと足を向けた。
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