第5話父上と誰も秘境とは思っていない秘境

※犬の話はさほどない


 父上はスポーツのほかにも大好きなことがあった。海釣りだ。

 私が小中高生だったあたりは、特に激務のストレスを紛らわすように土日を釣りに捧げ尽くした。パチンコ以外の娯楽で一人ぼっちになるのが大嫌いな父上は、釣りにも必ずお供をともなっていた。主なお供は私だった。弟は逃げよった。


 わが家の車は傷だらけだった。荒れた地域で車を塀やシャッターで守らないとこうなるのだというお手本のような姿だった。〇だの×だのーだの、酷い時には「かかってこいや」というった日本語まで刻み付けられる始末だった。なのでここでは、我が家の愛車のことをかかってこいや号と呼ぶ。


 土曜日。激務を終えた父上の朝は早い。

 前日には二時に帰ってきていたはずなのに、五時には起きて、


「起きろ! 綺麗な朝日を見ながら秘境に釣りに行くぞ!」


 と、私の部屋にやってくる。

 私は眠いのだが、綺麗な朝日も綺麗な海でする釣りも好きだったので、ノロノロ起きて彼について行った。朝食は大体コンビニのパンだ。

 ガサガサとコンビニパンの封をあけてパンをかじる。

 かかってこいや号が海沿いの高速道路を延々と走る。

 のぼりたての朝日は不思議な宝石のようなオレンジ色で、不思議なことに肉眼で見てもそんなにまぶしくはない。

 この貴重な状態の太陽を観ることが出来るのはほんの十数分で、太陽はすぐにいつもの肉眼直視不可のまぶしいアレに変わってしまうのだが。

 車は何十分も何時間も走りつづける。

 父上と私が当時「秘境」と呼んでいた釣り場は、朝五時からかかってこいや号をカッ飛ばしても三時間かかる場所にあった。

 県外に出るわけではない。

 ただ、やたら海沿いの細い道を通りまくるので時間がかかるのだ。高速を降りて、細い道を走り、軒先にタコが吊るされている漁師町っぽいさびれた町を幾つも超えた先に、「秘境」はあった。


 南国ほどではないが白っぽい砂浜。

 透明度の高い海。

 海辺ながらに草が生い茂り、なぜかブラウン管のテレビが打ち捨てられていた。そんな場所で、我々はいつも釣りをした。他の場所も試したが、「秘境」が一番良かった。恐ろしく綺麗なのに他に誰もいない。たまに漁師の船が遠くに見える程度。


 リゾートホテルがコピーにしがちな「なにもしない贅沢」を味わえる場所がそこにあった。

 ……実を言うと、ここではロクな魚が釣れない。だから人がいないのだ。

 圧倒的に釣れるのがフグ。運がよければ小さなキスや小さなカレイも。私も父上も綺麗な朝日や綺麗な海が見たかっただけなので問題はなかった。


 映画館は嫌いな父上だが、釣りの静寂は好きだったらしい。

 コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、


「フグだ」「またフグだ」「遠くでキスが跳ねてるぞ!アイツ俺たちを馬鹿にしているんだ!!」


 と、それなりに海釣りを楽しんだ後、我々はまたかかってこいや号で三時間の帰路につく。


 釣りではロクに魚がとれないので、父上は帰りに駅前の魚市場に寄ることを好んでいた。

 そこで魚を嵩増かさましするのだ。

 魚市場はまるでクーロンズ・ゲート -九龍風水傳-のエビむきやの少年がいたあたりのような雰囲気があって、正直清潔な感じはしない。

 だが魚が非常に安かったので、我々は「宝物の市場」と呼んでいた。


 ある土曜日の夕方、父上が魚市場で山盛りのカニを見つけた。

「これはいいぞ」と彼は言う。薄暗い市場の中、カニの甲羅が市場の弱々しい電球の光を反射して光っている。


「これをお吸い物にするんだ。そうすると旅館みたいな高級感のあるお吸い物になりそうな気がする」


 父上にそう言われると、私もそんな気がしてきて二人して、意気揚々と格安の山盛りのカニを買ってしまうのだった。


 そうしてかかってこいや号を家の壁スレスレに横付けにして、父上が釣ったキスやカレイそっちのけで大急ぎで作ったお吸い物は……。……。……なんか、思っていたのと違った。

 母親が「蟹が蟹っぽい……」と訳が分からないことを言っていたが、まさしく彼女の言うとおりだった。カニがかなりカニの見た目をしており、お吸い物が海のように見えてくるのだ。弟もかなり嫌そうな顔をしている。


 私たち家族は一体何を間違えてしまったのかもわからないまま、お吸い物とその他もろもろの晩ご飯を食べた。

 今でもあのお吸い物を特に何の脈絡もなく思い出す。

 あれは……アクアリウムだった。アクアリウムタイプのお吸い物。最近アクアリウムをやりたくて仕方ないので特に頻繁に思い出す。アクアリウムは見る分には最高だが、食べ物の見た目としては最悪だ。

 海の仲間たちが持っている食欲がわかない部分を前面に押し出している。


 というわけで、アクアリウムのお吸い物は完全な失敗作だった。父上の思い付きの敗北である。

 しかし、父上が釣りついでに土日に作る料理は異様においしいことが多かった。それもそのはず、彼は調味料をデパ地下で買うのだ。デパ地下の調味料を使ってるならどんな材料でも大体美味しくなるに決まってる。

 あんまりしっかり覚えていないが、デパ地下で買ったブイヤベースの素を使って作るブイヤベースは絶品だった。材料はもちろん、例の宝物の市場で買った怪しげな魚やエビ類だ。釣りで運よく連れたキスや鯛なんかが入る時もある。


 そういうグルメに舌鼓を打っていると、父上は大体デザートが食べたくなって、犬をスウェットの中にしまって近所のコンビニに出かけようとする。


「ああっ!」


 と、父上が悲鳴を上げる。


「俺が七千円で買った中古自転車が盗まれている!」


 半分壊れてて鍵もかかっていなかったやつだ。この家は海辺の街に建っているので治安が悪いのだ。

 車は傷だらけだし、釣りでは魚が釣れないし、公園で遊ぶと高確率で持ち物が盗まれるし、父上とオカンの夫婦喧嘩は聞くに堪えないし、夜中には暴走族がブオンブオン走り回っていてうるさくて眠れやしない。

 それでもそれを「普通だ」と思って生きていたし、実際普通で、なんなら我々は恵まれた部類の家族でさえあった。


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