第4話人生二度目の映画館に挑んだ父上

※ 面白かったなあと振り返る気持ちで書き始めたのですが、ふたを開けてみると妙に物悲しい文章になってしまいました。物悲しい文章を読む気分じゃない人は飛ばして下さい。次回以降はチャムチャムチャンの話を集中的に書いていこうと思っています。




 父上はじっと立ち止まることが苦手にがてだ。

 家族で買い物に行く時に、その性質が顕著けんちょにあらわれる。

 スーパーや百貨店地下などの人の多い空間で、彼は忽然こつぜんと姿を消してしまう。

 人の波をかき分けるようにして周囲を見回すと、人で出来た壁の向こうに、彼の頭だけが素早く移動しているのが見えるのだ。

 父上の頭と母親が完全に離れ離れにならないようにするのは子どもたちの仕事だった。

 父上のそばにいようとすればずっと走っていなければならないし、母親は足を患っているので早く動くことが出来ない。

 そこで我々きょうだいは、大体父上と母親の真ん中らへんに点在して、常に両者の位置を確認し、父上が戻ってきた時の合流をスムーズにしようとしていた。


 父上はもの凄い速度で店内の巡視じゅんしを行い、おいしそうな肉や、目先の変わったお菓子など、彼的に「よい」と思ったものを山ほどかかえて戻ってくる。

 そんなことをやっているのでもちろんエンゲル係数けいすうはエラいことになっているが、彼を止められるものはこの家にはいなかった。

 自分の信念で子ども二人を大学へやる男は、自分が買いたい美味しいものをあきらめることだって絶対にしないのだ。


 ……大人になってもそんな感じの父上だったが、幼少期の落ち着きのなさもものすごかったらしい。


「暴れすぎて手が付けられない俺に手を焼いたおふくろは、俺を寺に入れて座禅ざぜん滝行たきぎょうをやらせたり、水泳をやらせたり華道かどうをやらせたり、それはもう必死だったんだ」


 と、父上は回顧かいこしている。


 華道!? 父上に!?!?!?


 ……と、話を聞いた当時の私は目をいたが、それだけ母親 (私にとっての祖母)は必死だったのだろう。

 祖母はあまりに必死過ぎて、地域で一番大きな新興宗教に入ってしまった。

 彼女がそこで得た人脈のお陰で、父上は適切なスポーツ系の習い事に出会い、適切な担任教師に恵まれ、いい高校からいい大学へ行く王道人生ルートへと返り咲いた。

 その一方で、彼の母親は永遠に新興宗教の沼から戻ってこられなくなってしまった。

 父上は、子どもの頃の自分が母親を戻れない沼に突き落としてしまったという罪悪感をずっと抱えて生きている。

 ……のだが、この辺の悲しい話は今回の本題ではない。


 映画館である。


 父上は映画好きのドラマ好きだが、彼と映画館に行ったことは一度もない。母親とはよく行くのだが。

 家族で映画を観る時は、大体ビデオやDVDを借りて、みんなで家の中で見る。


 私が一人暮らしを始め、たまに帰省した時も、父上は家の中で横になって、エンドレスで相棒かスラムダンクを視聴しちょうしていた。

 私が評判の映画をツタヤで借りて持ち込むと、ちゃんと全部一緒に見て普通に感想をべていたものだ。


 なので、私は父上のことを「映画好きだ」と思っていた。

 映画館に一緒に行った記憶などないのに、なんとなく映画館も大丈夫だろうと思い込んでいたのだ。


 だから、つい先日に映画版スラムダンクが上映されたとき、私は何も考えずに父上を誘ってしまった。

 私の夫はスポーツと名のつくものすべてが大嫌いだし、友人にもスラムダンク好きが一人もいない。

 そのうえ映画を見た人の多くが「一人で観るよりも、誰かと感想を共有したい作品だ」と言っていたのである。

 スラムダンクを映画館で観るなら誰かを誘いたいと思ったし、相手は父上しかいなかった。


 父上はスラムダンクが大好きなので、私の申し出は二つ返事で了承された。驚くほどの速度で映画鑑賞の日程が決まる。


 そして、当日。

 父上は待ち合わせ時間の三十分前に現場に現れた。

 私も父上の血を引いているので、待ち合わせの三十分前には現場に入っていた。

 三十分前に落ち合ってしまった落ち着きのない我々は、やることもないので立ったまま雑談タイムに入る。

 そんな雑談タイムのさなか、父上はニコニコしながらとんでもないことを言い出した。


「俺、実は映画館苦手なんだ」


 ──その自己申告、せめて昨日に聞きたかった!


 私は心の中で悲鳴を上げた。

 座禅も滝行も華道も彼をじっとさせることができなかったわけである。

 じっとすることが苦手なのは知っていたが、まさか映画館を遠ざけるレベルだったとは……。


 いや、しかし、と私は考え直す。

 父上は立派な大人だ。

 立派に会社を勤め上げ、子どもを二人大学へやったのである。

 子どもを二人大学へやった大人は、二時間くらい暗所でじっとすることも楽勝なのではないか……?

 という私の甘っちょろい考えは、父上の次の言葉によって一蹴いっしゅうされた。


「映画館に行くのは人生で二度目になる。一度目は失敗して途中で出たんだ」


 人生で二度目!? 一度目は失敗!?!?

 意味が分からない。

 映画館で一体何に失敗するというのだろうか。

 混乱しながらよくよく話を聞いてみると、父上は「なんとなくじっとしているのがイヤになって途中で帰ってしまった」という意味のことを言っていた。

 おおむね三十五歳ごろの思い出らしい。


 ── 三十五歳……なんということだろう。

 三十五歳といえば、大学の一時間半の授業や社内研修なども乗り越えているいい大人だ。それでも耐えられなかったというのか。

 映画館に入ったのだから、一応興味のある映画だっただろうに……。


 私はあぜんとしてしまったが、よくよく思い返してみれば、記憶の中の父上は、家で映画を見ている時に結構動いていたのだった。

 ご飯を食べたりおやつを食べたり、横になったり縦になったり、なんとなく犬をもてあそんだりと、完全に自由自在のふるまいぶりだ。

 幼少期から中年になるまでスポーツで動き回り、仕事をバリバリこなし、定年後は若者も音を上げる運動系の仕事に従事している規格外体力保持者たる彼にとって、二時間以上も動けない状態にされる映画館という場所はかなりつらいものだったのだろう。


 私はこの時点でもう映画を中止にして帰りたかった。

 だが、父上は乗り気だし、約束は約束なので映画館に行くしかない。

 父上は終始ニコニコしていたが、その体は常になんとなく動いていたので私は警戒態勢に入った。


 指定の座席に座ると、まもなく周囲が暗くなる。

 映画好きにとってはおなじみの、広告タイムの始まりだ。

 この時点でも父上は結構動いていたので、私の神経は限界まではりつめていた。


(何かあったら即座に彼を連れてここを出よう……)


 気持ちはもう三歳の幼児を連れている時と大差ない。

 広告の内容は流行りのゾンビモノ、温泉映画、青春音楽演奏映画、猫型ロボット、美少女戦隊……といったラインナップで父上の興味範囲である相棒にはかすりもしなかった。

 父上はずっと左右に揺れたりスマホを見ようとするそぶりをみせたりする。

 興味のない物の鑑賞を強いられた父上の様子があまりに不穏すぎて、美少女戦隊の広告が二度流された時には「もうおしまいだ、やっぱり帰ろう!」と目をかたく閉じてしまったくらいだ。


 祈るような気持ちで広告が終わる瞬間を待っていると、本編がようやく始まった。

 事前情報を全く入れずに映画を見たのだが、どうやら地上波では放送されなかった、漫画版終盤の試合の話らしい。

 映画本編がはじまったことで、父上の不穏な動きが少なくなる。

 少し安心した。

 ……だが、油断はできない。登場人物の回想シーンに入るたびに、なんとなく父上が動いているのだ。変なことをしでかさないといいのだが……。

 といった感じに、私の意識は映画に集中する方向に半分、もう半分は常に父上を見張る方向にとられていた。


 映画の内容は割愛かつあいするが、凄く良かった。

 あとやはり、何人かのスラダン好きで一緒に観たほうがいいと思う。

 感想を言い合うのがとても楽しい映画だ。

 文句のつけようのない名作だった。


 映画はスルスルと進み、父上はほとんど動かなくなる。

 安心した。


(よかった、楽しめたみたいだ)


 私がそう思っている間に映画はラスト数分のクライマックスに入り、


(流石にここまで来たら大丈夫だろう)


 と、私がスクリーンに意識を集中させ始めた、その時だった。


 父上が、スマホの電源を入れた。


(……何? 仕事の大事な話……?)


 何が起こったのか分からなかった私が呆然ぼうぜんとしていると、なんと彼は……ヤフーニュースを見始めた。

 映画はラスト数分の、試合の勝敗が決まる物凄く熱いクライマックスのさなかである。この映画を観ている9割の人が一番観たかったであろうシーンの最中なのだ。


 よりによって今!? ヤフーニュースを!?


 と、私は我に返り、驚き慌てながら父上の光輝くスマホ画面をにぎりしめ、父上をにらみ上げた。


 父上は「神経質で困ったヤツだな~」とでも言いたげな苦笑をみせてスマホの電源を切ったが、私は断じて間違っていない。

 この文章を読んでいる十人中九人くらいには賛同して貰えることだとも思う。


 父上のスマホをにぎりしめて父上を牽制けんせいしているうちに、ラスト数分の本当に最高なクライマックスシーンが終わってしまった。

 私が映画に集中できなかったのはこの際どうでもいいが、多分後ろの席の人もちょっと驚いたと思う。後ろの人には本当に申し訳ないことをした。


 スタッフロールが流れ始めた時点で父上のソワソワぶりが抑えきれなくなったので、私は「これ以上は無理だ」と判断し、父上をうながし、席を立った。

 スタッフロールの後にオマケがあるのかどうか確認したかったのだが、仕方ない。


 暗い映画館から明るい廊下へ出て行く父上の足取りはかろやかだ。めちゃくちゃ早い。


 父上の背中を追いかけながら、私は小学生時代に二週間だけ預かった、あの大きな大きなゴールデンレトリーバーのことを思い出していた。

 大型犬であるゴールデンレトリーバーの力は、人間などおよびもつかないほど強い。

 そんなゴールデンレトリーバーをコントロールすることのできる数少ない人間が父上だった。

 力の化身たる父上を押さえることのできる人間は、この世にいったい何人いるのだろう?





 我々は映画館を出た。


(色んな意味で緊張しっぱなしの二時間半だった……)


 と、私は空を見上げる。気持ちよく晴れている青空だった。

 私はようやくマトモに呼吸が出来るようになった気がして、警戒態勢を解除する。


 父上はようやく外に出られた解放感からか、物凄い勢いで様々なことを喋り始めた。

 貴重な数分のクライマックスでスマホを開いてどうでもいいニュースを見始めたくらいだから、映画はつまらなかったのだろう……と、私が思っていたら、なんと父上は映画を大絶賛しはじめたではないか。


「うーん、やっぱりスラダンはいいな! 漫画で予習しておいてよかった!」


 ネットでも賛否が分かれている最後の最後のオチ以外は、父上は何もかも気に入ったらしい……クライマックス部分含めて。


(じゃあなんであんな大事なシーンでスマホひらいてどうでもいいニュースをみたんだッ!!)


 と私は思ったが、父上が「年を取るとどうしても集中力と腰がネ……」とつぶやいたので、言いかけた文句は喉の奥に転がり落ちてしまった。

 会社を定年まで勤めあげた父上は、もう立派な高齢者である。

 いくら体力お化けの規格外人類とはいえ、目や腰、集中力は確実に衰えているのだ……そう思うと少し寂しくなる。

「なんで」と問い詰めるのも酷なように思えてきた。

 それでもやはり「映画館は苦手だ」と事前申告してほしかった。

 実家でみんなで観たってよかったのだ。

 ただ、彼が「自分の子どもと映画館に行く最初で最後の機会だ」と思ったのかもしれないと考えると、そういうことも言いづらかった。


 立ち止まることを何よりも苦手として、人々を置いてけぼりにして、常に走るように生きている彼は、座ることが体力的に厳しい前期高齢者となって、はじめてじっと座りつづける趣味に触れることが出来たのかもしれない。

「楽しかった」と言いつつも「体が持たないな」としきりに口にしていた父上の様子からして、多分彼はもう二度と映画館に行くことはないだろう。

 家で観る方が楽なのだから。


 そんなこんなで父上の人生二度目の映画館は、ギリギリ成功裏に終わった。


 青く抜けるような空の下、強いビル風に吹かれる父上は、映画館にいた時とは打って変わって生き生きとした様子で映画の感想を語り始める。

 漫画、アニメ、映画版、全ての情報を突き合わせて色々と真面目に語りながらも、彼は目にもとまらぬ速さでデパートの地下に駆け込んでいった。

 そこからはもういつもの父上だ。

 一体何が買いたいのかよく分からないし多分本人にも分かってないのだろうが、とにかく色々と見て回ってコメントしたいのだ。

 子ども二人の教育費に重課金した定年後の父上に、デパ地下で思うままのものを買うお金などもはや無い。無いのにやたらと見たがるのだから、バブル前夜に青春を過ごした高齢者の気持ちはよく分からない。


 私は必死に父上の背中を追いかけながら、途中で合流する予定の母親に映画が終わった旨の連絡を入れる。

 母親は神経質で寂しがりやな祖母の介護中なので、映画館に行けるほどの自由時間はない。それでも喫茶店で少し喋りたいようで、もう家を出て、映画館近くまで来ているようだった。

 私はいつかのように人混みの中で見失いそうになる父上の頭をおいかけながら、母親に集合場所についてのメッセージを送る。

 どこまでも走っていく父上を母親の元まで届けるのは、今も昔も我々子ども達の仕事だった。

 私ももういい大人なのだが、父上と母親をなんとか会わせようとしている時には自分が小学生時代に戻ったような気持ちになってしまう。


 そんなことを考えながら走り続けていると、先ほどまでの落ち着きのない父上と映画館に関するこまごまとしたことなど、すぐに頭から消えてしまうのだった。

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