第3話罠にはめられた父上
子どもを持つ多くの親にとって、
それと同時に、めちゃめちゃ疲れる一大行事でもあるだろう。
移動時間がかかればかかるほど子どもは
その上、夫婦それぞれの出身地が
電車だろうが飛行機だろうが車だろうが、お金はかかる。
人間を無料で運搬する方法なんてない。
ということで、父上は夏休みや年末年始の帰省の時に、西日本から東京まで高速道路で走り抜けるという荒技をしばしば実行した。
それが一番安かったからだ。
移動時間は最短でも9時間……。
朝5時に家を出て、夜12時に帰ってくるような激務の
体力お化けの父上だからこそなしえたことだろう。
夏休みには容赦ない日差しに車の窓越しに何時間もあぶられたり、冬にはダウンを着込んでコーンポタージュの缶を抱いてサービスエリアで数時間眠ったりしながら、父上は頑張っていた。
偉大で尊敬すべき我が父上は西日本出身、母は生粋の東京っ子だ。
二人とも帰省への意識は高く、
ウチには早い時期から小型犬のチャムチャムチャンもいたので、帰省の難易度は高かったことだろう。
少し話がズレてしまうが、一度だけ、チャムチャムチャンをペット用ケージに入れて新幹線での移動を試みたことがあった。新幹線なら車で9時間かかる道のりも4時間程度ですむ。だから、犬への負担が軽いと思ったのだ。
……しかし、予想外のことが起きた。
犬がハァハァ息をしてしまう音がかなりうるさかったのだ。
犬は汗をかかない代わりに体温調節のために舌を出してハァハァ息をする……ということを知っている人は多いと思う。
アレは、アニメの中に出てくる変態がわざと出すハァハァ音にかなり近い。
ハァハァ音が何時間も響き渡る新幹線の車内……同乗していた皆さんには大変申し訳ないことをした。
まさか犬がハァハァ息をする音があんなにうるさいものだったとは、新幹線に乗るまではつゆほども思わなかったのだ。
静かな新幹線の中に、何時間も異常な音を響かせてしまって申し訳ない、車内に犬恐怖症を人がいたらどうしよう……と、世間の目を常に気にする母と私は気が気ではなかったことを覚えている。
だが、犬はハァハァすることを絶対にやめることはできない。生きるためにはハァハァしなければならない。
人間が必死になだめようがすかそうが、ハァハァすることだけは絶対にやめることができない。
あまつさえ、チャムチャムチャンは車内で一度だけ「ワン!」と吠えてしまったのだ。特に理由もなく。何の前触れもなく。
犬恐怖症の人申し訳ない……! と、心の中で、車内のいるかいないかも分からない犬恐怖症の人に全力で謝りながら、我々母娘はチーズ、水、オモチャなどを用意して、時には犬用ケージを
あんな思いはもう二度とごめんだ。
車移動の話に戻る。
9時間ぶっ通しの車運転は流石の父上にもしんどい仕事なので、ちょいちょいサービスエリアで仮眠をとったり、特に意味もなく大阪や京都で高速を降りてプチ観光をしたりなどした。
ちなみに父上は高いビルがなく碁盤の目の様に道路が張り巡らされている京都の地形を苦手としており、京都では何度も何時間も迷子になったことがある。
それでも、家族用の車の中ならチャムチャムチャンのハァハァ音も気にならない。
その上、チャムチャムチャンは大のドライブ好きで、車の中ではとてもいい子にしてくれていた。
車の中で、私は携帯ゲーム機で遊んだり漫画を読んだりして時間を潰していた。
……そう、私はオタクだったのである。
ある年の私は、聖剣伝説3にハマっていた。
あっという間にクリアして、「この男キャラとこの女キャラのその後を描いた話はないんかーッ!!」と、インターネットの海を血眼になって探し回っていた。
私が二次創作文化を知るきっかけになったのは聖剣伝説3だ。
当時はpixivなどという便利なサービスは影も形もなく、個人ホームページを回って作品を楽しむスタイルが主流だった。
そして、その個人ホームページを通じて、コミケというイベントの存在を知ったのである。
そのコミケというイベントに、お気に入りの男キャラと女キャラのその後を描いた漫画本が何冊も出るのだという。聖剣伝説3のファンサイトには「うちもコミケに出ます!」という告知がいくつも掲載されていた。
(これは、絶対に行かなければならない!)
紀伊國屋書店で手に入れたタウンページくらい分厚いコミケのカタログを熟読しながら、私はかたく決意した。
自分は西日本住みで東京へ行くお金はないが、タイミングよく、東京への帰省中にコミケが開催されている。
これは
なんとしても同人誌とやらを手に入れねばならない。
そう思った私はまず母に相談した。当時バリバリのキッズだった私にとって、いきなり東京単独行動はハードルが高すぎたからだ。
東京で子どもが一人で歩くと恐喝されたり、人さらいにつかまって内臓を売りさばかれると当時の私は本気で思っていた。親にそう言われていたからだ。だから親の許可&同行は絶対に必要だ。
オタクに理解のある……というか、映画とドラマと古い少女漫画オタクである母は、カタログを興味なさげにパラパラとよむと、私が成人向けコーナーに行くつもりがないことを確認して、「……まぁ、この程度ならいいでしょう」と同行してくれることになった。
次は父上の許可を取らねばならない。
というのも、コミケ会場への移動は車を使わねば難しそうだという事前情報を得ていたからだ。初心者が電車移動などしようものなら、移動だけで一日が潰れかねないのだという。
となれば、車で行くのが確実だろう。
我が家で車を運転できる人間ば父上ただ
……ということで、帰省前のとある休日。
「相談があるんだけど」
私は勇気を出して父上に切り出した。
父上はいつものお気に入りのスウェットを着て、PCに最初から入っているゲーム・ソリティアに夢中になっていた。
「年末に、東京の海辺で、本がたくさん売られるイベントがあって、お母さんと一緒に行ってきたいんだけど、車を出して貰ってもいいかな……」
私はかなり遠回しな表現で、父上にコミケに行きたい旨を伝えた。
というのも、父上は大のオタク恐怖症だからだ。自分だってスラダンや銀英伝をエンドレスで観ているくせに、自分はオタクじゃないと思い込んでいる。
アニメイト帰りのバンダナを巻いたオタク集団なんか見た日には「怖い!」「お前はああなるんじゃないぞ!」しか言わなくなってしまうような人だった。
運動部うまれの運動部育ち、爽やかなスポーツマンコミュニティを愛する父上にとって、自分の子どもがオタクになるなんてことは悪夢そのものであり、私としても自分がオタクであるということは極力伏せておきたい事実であった。
「ふーん、本? いいよ」
娘がオタクの祭典に行く気であるなどということは全く思いもよらぬようで、父上はソリティアをする手を緩めることなくあっさりと許可をくれた。
私は心の中でガッツポーズをとった。
子どもらしい後先を考えぬ無謀さで、私はオタク恐怖症の父をコミケ会場まで連れ出す約束を取り付けることに成功したのだ。
──……そして、年末。
激務を終えた父上はいつもどおりの帰省・年越しシーケンスに入り、イケてる洋楽を録音したカセットや、沢山のおやつを車に持ち込んで、我々家族を車に乗せて東京へ向かった。父上なりの優しさで、車での帰省は夕方にはじまり、朝には東京につくという形にしてくれることが多かった。
東京の帰省先のおうちは狭いので、当時は新宿の東京厚生年金会館に泊っていた。比較的安かったのと、
東京への帰省に成功して、東京厚生年金会館の和室の布団でゴロゴロしている父上をしり目に、私は慎重な手つきでお小遣いをカバンや靴の中に分散させたり、母親がトイレに行ってる隙にカツアゲに遭遇してしまった時に大声を出す自分をシュミレートしてコミケに行く日に備えていた。
そして、コミケ当日。
父上は何も知らぬ様子で車を出してくれた。
「東京なら父さんに任せろ! 俺は京都の地形の前には無力だが、東京には強いんだッ!」
という父上の心強い言葉とともに、車は発進した。
東京の地形に強いという言葉に偽りはないらしく、「東京ビッグサイト」という言葉だけでそこまで直行してくれた。
……が、当たり前だが、目的地に向かうにつれてオタクの姿が多くなる。
いやもう人々の持っている紙袋が「オタクそのもの」なので、道行く人がほぼ全員オタクだと分かってしまう状態になっていった。
「うん? これは……?」
と、父上は周囲の様子がおかしいことに気付いたが、車を停めるわけにはいかない。
父上は「オタクだ……」「何? 怖い……」という単語を何度も連呼していたが、車はちゃんと運転してくれたので、目的地にも無事到着した。
東京ビッグサイトである。
「──これは、オタクのイベントじゃないか!!」
と、父上が叫んだ時にはもうコミケ会場の真ん前だった。
父上はさぞ心外だったことだろう。
子どもが「たくさん本が売られているイベントに行きたい」というから連れて行ってやったら、そこはオタクの祭典会場だったのだから。
「スリハイ、待ちなさい。これは良くないイベントだ、こんなのは嫌だ!」
と、父上は何度も我々を制止したが、母上はさっさと車を降り、私も父上に礼を言ってさっそうと車を降りた。
このような経緯で、父上は私に騙されてコミケ会場までの足にされ、私はキッズながらに聖剣伝説3の同人誌の山(※ ちゃんと全年齢向けのやつです)を手にすることに成功したのである。
幸い恐喝にも人さらいにも会うことはなかった。
母上は本よりもコスプレイヤーたちに興味を持ち、それなりにコミケを祭りとして楽しんでいたようが、企業ブースでごっつい風邪をうつされたので「二度と行かない」とコメントしている。
コミケへ行くための足にされ、終わりのお迎えまでさせられた父上は終始無念そうだった。だが、私を叱ったり会場へ行くことを無理やり止めたりすることはなかった。感謝している。
……それにしても、今にしてこうやって思いかえしてみると、親としての強権を発動させることの多い父上にしてはこれはかなり珍しいことだ。
やはりコミケの袋を持ったオタクの大群は怖かったのだろうか。
圧倒されてパニックになってしまったのかもしれない。
というのも彼はオタクを見ると必ず「怖い」と言うのである。
「気持ち悪い」ではなく「怖い」と言うのだ。
オタク差別という問題も世の中にはあるが、この世にオタクフォビアというものがあるならそれはそれで恐怖症を持っている人に対して配慮すべき案件だろう。どんな世界でも適度な棲み分けとお互い様精神を持つことは大切だ。
……などということをつらつら思い返してみると、同人誌を沢山手に入れた子ども時代の喜びよりも、「激務の合間の大変な帰省作業を終えた直後に、だまし討ちのような手段を使って怖い場所に父上を連れ出してしまって申し訳なかったナア」という、大人としての謝罪の気持ちの方が強く強く湧き上がってくるのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます