6. 赤馬と黒猪
赤馬は森に捨てられていた。親が誰だか知らない、どころか親というものすら知らない。鳥たちがよってたかって彼を育て上げた。捨て置けばよかったものを鳥たちはなぜそうしたのかわからなかった。彼が十歳になったときに鳥たちは言った。
「君はもうこの森にはいられないよ」「今巣立たなければいけないんだ」「一生をここで過ごすことはできないから」「外に出ていろんなことを学びなさい」「森の中で手に入れない部分を埋めてくるんだ」「そうしなければ生きてはいけないよ」「人は人の間で暮らさなければならない」「それがどのような距離感によるかは人それぞれだけど」「僕たちには教えられないことがあるんだ」
少年は立ち上がると空高く上る太陽に向かって歩き出した。一羽の鳥がすらりと飛んできて彼の頭にクロウツギの枝を一本挿していった。それは彼にとても似合っていてそうしてまた彼が森の所属であることを示していた。彼がお礼の言葉をさえずると鳥たちは一斉に彼から離れていった。それは悲しいことだったが彼はそれが受け入れなければならないものだと理解していた。
彼は手に触れたものをむしってそれを食べては歩きつづけた。三日三晩歩きつづけたところで木々が薄くなってきたことに彼は気づいた。森を抜ければ道があってその道なりに歩いていけば村があった。彼はその場所ではじめて人間というものに遭遇することになる。
一言で言えば赤馬は異形である。もとより骨太の体にしっかりと肉と脂がのっている。そこいらの百姓10人分はゆうにあろうという体格で村の柵なんぞ意にも介さない。ずんがずんがと畑に踏み入るとそのままむしゃむしゃと作物を食べてしまった。
困ったのは村人たちの方で手に手に農具を持って彼を取り囲んだものの手出しができない。髪は伸ばし放題のぼさぼさで体は何も身に着けず汗と泥と葉とが表面を覆っている。一歩でも近づけばその目がぎょろりと睨んできて臆病なものはそれだけですっかりまいってしまう。
血気盛んな若者たちが数人とびかかっていったもののあっさり片手で掴んで投げ飛ばされる。老人たちは相談を重ねた結果、村のたくわえの一部を彼に捧げて許しを請うことにした。あれは人の形をしているものの人とは違って言わば災厄に近いものだから敬して遠ざけるが適当と判断したのである。
その判断は当たっていて赤馬は捧げられた食物を一切平らげると満足して村を出ていった。そうして道々の村々で祭り上げられては遠ざけられて赤馬は7つ目の村にたどり着いたのだけれど、その村はそれまでの村とは様子が違っていた。
彼が手をつける前に柵はすでに崩れており畑もまた荒れ果てている。ずんがずんがと我が物顔で村の中を突き進むも人っ子一人現れてこない。それでも赤馬は足の向くままに突き進んでいくと村で一番大きな屋敷があってその中ではやせ衰えた人々が頭を突き合わせてああでもないこうでもないとうなっていた。
極限に追い詰められた人々にとって薄汚れた大男の姿は、聖なる神か邪悪な怪物かその区別はつかなくとも、とにかく何か人知の及ばぬ巨大なものと見えた。あるいはそれは死に近づき研ぎ澄まされた精神が異常なものを正確に感知したとも言えるかもしれない。赤馬を前にして村の人間らは示し合わせるでもなく一斉にひれふした。
「波列洞から大猪さまが出なすった」「並みいる木々を全部食い荒らしてしもうた」「そのうえわしらの作物も根こそぎ奪っていきよった」「木の根を食うて暮らしておるが大猪さまはまだお怒りじゃ」「日が暮れると村にやってきて荒らしまわるんじゃ」「昨日はついに三坐のとこの息子が食われよった」「このままじゃあわしらは生きていけん」「村を捨てるしかなくなってしまう」「どうか旅のお方、わしらを助けてくだされ」「どうかどうか」
不意に赤馬は自身が行くべき場所やるべきことを理解する。人は一生のうちにそうした天啓を得ることがあるものだ。もちろんそれを得ずに死ぬものもあるしそれはどちらが優れている劣っている幸せだ不幸せだといったような話ではない。比較することに意味のない類である。とにかく赤馬は進むべき方角へとずんずんずんと足を踏み出していった。
踏み出していった先には荒野が広がっていて、遥か遠くから巨大な岩がずどんと転がっているのが見えた。それは大人100人がぐるりと周りを囲んでも囲いきれないほどの大きさで、さすがの赤馬にだってどうにもならない代物のようだった。けれども赤馬は歩みを止めない。一歩一歩それへと近づいていく。
するとどうであろう、その一歩一歩大地を踏みしめるごとに赤馬の体は大きく大きく膨らんでいったではないか。それは中身のない膨張でなしにぎっしりと中身の詰まった成長であった。みるみるうちに巨大な黒岩に匹敵するほどにまでなったその時、赤馬の燃えさかる瞳は暗緑色をした目とかちあった。黒岩はのっそりと大儀そうに起き上がる。四足の獣と大男は真正面からにらみあった。
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