第44話 ねむ
『今日オレ、別のとこで寝るから! 俺のベッド使ってな』
そうメモ用紙に書き、オレ、レオは、めうが部屋に戻ってくる前に部屋から脱走した。
やばい、まずい、今出くわしたら気まずい!!
時刻は午後8時を過ぎたくらいだ。
外はすっかり真っ暗だが、これ以上家にいるのは気まずすぎるので、めうが寝るまで散歩に出ることにする。
「にしろ、裸見せるなんて……最悪やん……」
めうは確実に、全裸のオレを見てドン引きしただろう。もう前みたいに話しかけてくれへんかも……最悪や!!
悶々とネガティブ思考に振り回されていると、気づけば人気のない公園まで来てしまっていた。
「どこやここ……あ」
あたりを見回したとき、その公園に見覚えがあることに気づく。
この公園はーーーねむとオレの、出発点。
「懐かしっ……」
思わず口に出しながらも、オレは数年前を思い返していた。
★
オレとねむは、5歳の頃に出会った。
関西からここに引っ越してきたとき、ねむの印象は強烈だった。
「わっ、新しいひとだ! よろしくねー!」
「あ……ぅ……」
無邪気にきらきらと輝いた瞳。それに、胸のあたりまで伸びた黒髪。はつらつとした口調。そして、とにかくかわいかった。
当時人見知りが激しかったオレは、そんなねむにたじたじだったのを思い出す。
ねむは、オレにとって姉のような存在だった。よく、当時飼っていたもずくというトイプードルと三人で遊んだのを思い出す。
でも、いつからか。
そんなのはわからないけど、気づけばオレは、ねむのことが異性として好きになっていた。
「そうだ、あだ名つけてあげるね! れおっち……れおれお……ん! れおれお! れおれおにしよっ!」
れおれお。
ある日、そう呼ばれたときのときめきは忘れられない。
友達も少なく、引っ込み思案だったオレに、初めてつけられたあだ名。
その時どれだけオレが嬉しかったか、ねむはきっと知らないだろうけど。
ーーーしかし、事件が起きたのは、小学校を卒業し、中学に上がった春のことだった。
長年闘病中だったねむの父親が、他界した。
もともと、体が悪くて、病院通いをしていたねむの父親だった。
「あんね、ねむ、パパにこれもらったのー! いいでしょっ」「ぱぱがね!」「ぱぱが!」
昔から、ねむからは父親の話を度々聞かされていた。パパっ子だったねむは、人一倍父親が大好きだった。
あまりの父親への溺愛ぶりに、レオ自身ねむの父親を恋の敵扱いしていたくらいだ。
そんな大好きな父親が、ねむの元を離れ、いなくなった。
それは、当時十二歳だったねむに、どれだけの衝撃を与えたか。
結果、ねむの性格は一転した。
レオが話しかけても、暗い瞳で一瞥されるだけ。笑顔は絶え、やがてにこりともしなくなった。
しかし、そんなねむの心を追い詰めるように、さらに悲劇は起こる。
辛い時期、唯一心の支えになっていたねむの飼い犬、もずく。そんなもずくが、父親の死の数週間後、後を追うようにして天国に旅立ったのだ。
相次いだ、身近な大好きな人たちの死。
ーーーねむの心は、壊れてしまった。
そんなねむを前にしても、オレはひたすらに無力だった。
ねむの腰まで伸びた黒髪が栗色に染まっても、あざや傷がが増えても、馬鹿なオレはねむの本当の気持ちに一つも気づけなかった。
あんなに笑顔で満ちていたねむの顔が、日に日に暗くなっているのを見て。
「ねむ、ねむが好きって言ってた茶髪にしてみたで! ……どう?」
「…………」
「ねむ、ピアス開けたん? かわいいやん!」
「…………」
なんとか明るく話しかけても、ねむからは無反応が返ってくる。そりゃそうだった。オレはどこまでも、馬鹿だったのだから。
「ごめんね、ねむ、相当ショックだったみたいで……」
泣きながらねむの母親に謝られてしまった時、中一だったレオも、どうしようもなく泣きたくなった。
でも、泣くのは違うと、ぐっと堪える。一番つらいのは、ねむだ。オレが泣いたって、救いにも何にもならない。
カウンセリングを経て、今はねむと距離を置くことが最善という考えで、それから約三年、ねむと会話を交わすことはさっぱりなかった。
ーーーそして、中三の夏。
人気のない公園。丁度今、レオが立っている公園でのこと。
何やら大きな声が聞こえて、塾帰りだったオレは公園をふと覗き込み、はっと目を見張った。
ねむが、ねむがいた。
大柄の男に囲まれ、栗色の髪を乱して一人で構えるねむが。
「この前はうちの仲間がお世話になったんだってなァ」
「女だからって容赦しねぇぞ」
「大体ガキの分際でトップっていうのが鼻につくんだよ。死ねや」
「仲間が不在のお前はただのガキ。社会の厳しさを知るべきだ、もう立ち上がれなくしてやれ」
「仲間がいないほうが、都合がいい。傷つくのは、ろくでなしだけでいいんだから」
「アァ?今なんて…………」
瞬間、音もなく、ねむが宙を舞う。華奢な足がぶんっと振られ、同時に数人の男が吹っ飛んだ。
が、相手は巨大で屈強な上に、十人ほどの男が小柄なねむを囲んでいる。
ねむが、そういった集団に所属していることは、それとなく周りから聞かされていた。
「ねむちゃんは、ちょっと危ないグループと関わってるみたいなの。でも、これは私達カウンセラーが対処していくから安心してね。レオくんは巻き込まれちゃ危ないから、心配なのはわかるけど関わったら駄目よ」
オレはカウンセラーの言葉を信じて、全く干渉してなかった。だから、ねむが戦う姿は初めて目にした。
「ねむ……!?」
「ーーー!!!!」
男に吹っ飛ばされ、地面に組み伏せられたねむと目が合う。
その瞳は、何年経っても紛れもなく、ねむのものだった。
「ぁ…………」
その瞳は、二年前と変わらず、拒絶の薄い膜が張られていた。
でも、その奥に、哀しみが、救いを求める光が見えた気がして。
「お、おりゃあああああっ!?!?」
「は?」
「このガキが……ぐっ!?!」
「なんだ……がはっ!??」
ただの体当たり、それがオレにできた唯一のあがきだ。
足が勝手に進む、止まらない。
そのままやみくもに突っ込んでいくと、岩のような男たちが、不意打ちと勢いに耐えられず、派手に尻もちをついた。
「お!? オレ、意外とこの道向いてるんちゃう? ……なあ、どう思う、ねむ?」
「ーーーここから、離れて!」
鋭い、でも今にも泣きそうな声。
その時、ようやくレオは、本当の意味でねむと向き合えた気がした。
長い髪を乱しながらも、急な乱入者を殺さんとばかりにレオに殴りかかってくる男を、ねむは片手で蹲らせる。
オレを庇おうと駆け寄ってくる、ねむがひたすらに愛しい。その瞳が、震えるほど懐かしい。
「ぁ」
光の、感情の抜け落ちたねむではない。明確に、レオを救おうと必死な意思がねむの目に灯っていた。
その時、我慢していた涙が、溢れた。
「ーーーなんや、簡単なことやったんやな」
二年間、オレはねむと会話することを避け続けてきた。それがねむを救える道だと言われて、それをただひたむきに信じて。
でも、違ったのだ。
ねむと同じ目線で、一緒に戦う。これが、ねむの本心に近づく方法。
それに気づけたから、レオはもう、最強だった。
「よしっ、やったるで! オレに任せときっ!」
「!?! 危ないっ」
再び体当たりをかます。
一時だが空手を嗜んでいたことがあり、それが幸と出て、俺は男たちに無我夢中で飛びかかった。
殴られる。殴り返す。腕をひねられる。急所を蹴る。蹴られる。殴られる。捻られる。絞められる。潰れる。
「はぁ…はぁっ…………」
どれくらい、経っただろうか。
足が限界を迎え、立っていられなくなる。
体が痛い。全身が火傷した時のようにずきずきと痛む。繊維は潰れ、骨が軋む。
地面に大の字に倒れ、荒い息をつきながらもふとあたりを見回すと、気づけばそこら中に男が倒れていた。
「や、やったんか……オレ……やっぱ才能あるんちゃう?」
「……九割八分はねむが倒した。第一、レオはもうぼろぼろ」
「うっ……もしかしてオレ、ただの邪魔者やった?」
「…………」
事情を深くは聞かず、ただ明るい声を出す努力をする。
と、ふと言葉が途切れ、ねむの方を見た。そして息を呑む。
ねむは、泣いていた。
「え?! ね、ねむ、ちょ!?」
「……ぅっ……うぁ……っ」
丸まった小さな背中。
たった一人で孤独と悲しみに抗ってきた、小さくて脆い女の子が、そこにいた。
「ねむ」
だからオレも、何者でもなく、ただの幼馴染として、泣き止むまでねむの横に寄り添っていた。
★
「……高校、一緒にいかへん?」
何十分が経過しただろうか。
泣き止んだねむの方を見て、思い切って提案すると、はっ、と呆けたねむの吐息が聞こえた。
突然オレは何言ってるんや、と自分を叱咤したくなる。が、それより先に口が勝手に動いていた。
「俺の目指してる高校、こっからすぐ近くにあるから、登校楽やし。偏差値も……頭の良いねむならいける、保証する」
「……びっくりした。てっきり、恨み言の一つや二つ、ぶつけられると思った。それに、なんで」
「んなことするか! ……ねむとまた昔みたいに登校したいし、一緒に馬鹿やって笑いたい。だ、大事な幼馴染やし……昔みたいに笑ってるとこが見たいしっ」
後半、恥ずかしくなりそっぽを向いてまくしたてる。
ねむはしばらく、ぽかんと固まっていた。
が、やがて、小さく息を吐き出す。
「昔みたいに、ね。こんなに汚れたねむでも、まだレオは、大事な幼馴染って言ってくれるんだ」
息を詰めてねむの方を見る。
ねむは薄い笑みを浮かべていた。自嘲するような、何もかもを諦めた、そんな顔。
「ねむ、とある暴力団の団長になったばっかで、こんなのもう抜けられない。暴力団ってね、傷だらけになるまで殴り合いするの。病院送りにした人数なんて、もう数え切れないらい。……こんな体も心も汚れたねむなんて、もう無理だよ。ママにだって、もう何年も口聞いてないし、レオにだって……。義務教育放棄したねむになんて、もう何も取り返しがつかない」
「そんなん関係ない! 今から取り戻せばええやん!」
「簡単に言うね。無理だよ。ねむは、もう」
「無理やない!! 俺が保証したる!! なんでもする、いつでも助けるから」
「っ! なんでそんなに、こんなねむのこと!!!」
俺はねむが言い切る前に、ねむに手を伸ばす。
そして力のかぎり、ねむを抱きしめた。急な抱擁にびくっ、とねむの体が跳ねる。
「……それは」
ーーーきみのことが、好きやから。
そんな照れくさい言葉は結局口から出ることなく、代わりにオレは、ねむの小さくて冷たい体をひたすらに抱きしめた。
伝われ、伝われ、そう念じながら。
「…………」
ねむの力では簡単にレオをぶっ飛ばし、セクハラまがいの行動の報復として、半殺しにでもなんとでもできただろう。
でも、ねむはそうはしなかった。
抱き合ったまま、一瞬、もしくは何時間も経った気がした。
「……今、数学はなにやってるの」
抱き合ったまま、ねむが小さな声で聞いて来たとき、全ての痛みを忘れて安堵したのを覚えている。
「な、なんやったっけ、あれ……四平方の定理、やったっけ」
「ばかレオ。三平方の定理でしょ」
「まじ!? なんや、ねむのほうが勉強できるやん!?」
オレの嘆きに、あはっ、と可愛らしい笑い声を上げるねむ。
まるで、傷ついて茎の折れた花が蕾をつけたような、そんな奇跡のような美しさに、オレは思わず言葉を失う。
そんな蕾は、今、目の前でゆっくりと、ゆっくりと、立ち直ろうとしている。
「あーあ……もう。レオ……れおれお。明日から、勉強、教えてよ」
「!!!!! まっ、任せとき!!!」
「もっとも、ねむが教える側になっちゃうかもだけど?」
「は、はぁ?! そんな無様はさらさへんっ!」
「四平方の定理とか言ってたれおれおが言うんだ?」
「ぐっ…………」
ねむが、オレの手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。そのまま歩き出すねむに、オレも慌てて隣に並んだ。
ーーー約三年ぶりに二人で歩く帰宅路は、ほんのりリコリスの香りがした。
「あーあ、れおれおのせいなんだから。ねむをまともな人間にするお手伝い、絶対してもらうんだからね……責任取ってよね?」
「ああ、もちろんや。いや、まあオレにできることがあるんやったら、やけど」
実際、オレの力なんて微々たるものだ。ねむの期待にどれだけ添えるか、怪しすぎる。
「………」
ねむはその後何も言わずに、俯いていた。
家の目の前に立ったとき、「ねぇ」と小さな声が耳に届いた。
「ねむのこと、助けてくれたとき。言いそびれたけど。れおれおは、邪魔なんかじゃ……なかったから」
ねむは決してこちらを振り返らない。
「十の内、たった二分の力でも……ねむは、れおれおに、救われたから」
「…………!」
「〜〜〜〜っ! そ、それだけ!!」
オレの唖然とした顔を察したのか、ねむはそれ以上続けることなく、当然振り返ることもなく、足早に家に駆け込んでいった。
『ーーーママ。た、ただいま』
『ねむ……っ?! お、おかえり……おかえり……!!』
そんな会話を聞き届け、オレは紅潮した頬を緩ませ、すぐ隣の家、つまりオレの家に駆け込んだ。
ーーーそれからどうなったのかは、今のねむを見たら明らかだろう。
元気で、無邪気なねむ。
自分ですべてを背負おうとした、強いけど脆いねむ。
そして、人と関わろうと前を向き続けているかっこいいねむ。
一度は折れかけた花は、今や太陽の光を十分に浴びて、綺麗な花を咲かせている。
どれも、全部、オレは横で見てきた。
そして、言えることはただ一つ。
ーーーねむが、大好きだということ。
★
「ーーー」
一方その頃、レオの部屋で。
ごし、ごしごしとミニテーブルを雑巾で拭く人影があった。
雑巾で擦られ今にも消えかかっているのは、何年も前にクレヨンで描かれたであろう、数々のいびつなハートだ。
やがて全てのハートが消えた頃、その人影は満足気に息をつき、そしてポケットから口紅を取り出した。
人影は口紅を最大まで出したあと、ぐりぐりと、もともとハートが描かれていた場所を上書きするように、ハートをかきこむ。
腕には相当な力が込められているのか、やがて柔らかい口紅が真ん中でぐにゃりと折れてしまう。
人影はそれに気づいてないとでもいうように、愛おしげにハートを、何度も指でなぞった。
ぐりぐり、ぐりぐりと。
「レオさんは……わたしの、もの、なんだよ……???」
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