第44話 ねむ


『今日オレ、別のとこで寝るから! 俺のベッド使ってな』




そうメモ用紙に書き、オレ、レオは、めうが部屋に戻ってくる前に部屋から脱走した。


やばい、まずい、今出くわしたら気まずい!!



時刻は午後8時を過ぎたくらいだ。


外はすっかり真っ暗だが、これ以上家にいるのは気まずすぎるので、めうが寝るまで散歩に出ることにする。



「にしろ、裸見せるなんて……最悪やん……」



めうは確実に、全裸のオレを見てドン引きしただろう。もう前みたいに話しかけてくれへんかも……最悪や!!


悶々とネガティブ思考に振り回されていると、気づけば人気のない公園まで来てしまっていた。



「どこやここ……あ」



あたりを見回したとき、その公園に見覚えがあることに気づく。


この公園はーーーねむとオレの、出発点。



「懐かしっ……」



思わず口に出しながらも、オレは数年前を思い返していた。









オレとねむは、5歳の頃に出会った。


関西からここに引っ越してきたとき、ねむの印象は強烈だった。



「わっ、新しいひとだ! よろしくねー!」


「あ……ぅ……」



無邪気にきらきらと輝いた瞳。それに、胸のあたりまで伸びた黒髪。はつらつとした口調。そして、とにかくかわいかった。


当時人見知りが激しかったオレは、そんなねむにたじたじだったのを思い出す。



ねむは、オレにとって姉のような存在だった。よく、当時飼っていたもずくというトイプードルと三人で遊んだのを思い出す。



でも、いつからか。

そんなのはわからないけど、気づけばオレは、ねむのことが異性として好きになっていた。



「そうだ、あだ名つけてあげるね! れおっち……れおれお……ん! れおれお! れおれおにしよっ!」



れおれお。

ある日、そう呼ばれたときのときめきは忘れられない。



友達も少なく、引っ込み思案だったオレに、初めてつけられたあだ名。


その時どれだけオレが嬉しかったか、ねむはきっと知らないだろうけど。





ーーーしかし、事件が起きたのは、小学校を卒業し、中学に上がった春のことだった。




長年闘病中だったねむの父親が、他界した。



もともと、体が悪くて、病院通いをしていたねむの父親だった。



「あんね、ねむ、パパにこれもらったのー! いいでしょっ」「ぱぱがね!」「ぱぱが!」



昔から、ねむからは父親の話を度々聞かされていた。パパっ子だったねむは、人一倍父親が大好きだった。

あまりの父親への溺愛ぶりに、レオ自身ねむの父親を恋の敵扱いしていたくらいだ。



そんな大好きな父親が、ねむの元を離れ、いなくなった。

それは、当時十二歳だったねむに、どれだけの衝撃を与えたか。



結果、ねむの性格は一転した。



レオが話しかけても、暗い瞳で一瞥されるだけ。笑顔は絶え、やがてにこりともしなくなった。



しかし、そんなねむの心を追い詰めるように、さらに悲劇は起こる。




辛い時期、唯一心の支えになっていたねむの飼い犬、もずく。そんなもずくが、父親の死の数週間後、後を追うようにして天国に旅立ったのだ。



相次いだ、身近な大好きな人たちの死。




ーーーねむの心は、壊れてしまった。






そんなねむを前にしても、オレはひたすらに無力だった。



ねむの腰まで伸びた黒髪が栗色に染まっても、あざや傷がが増えても、馬鹿なオレはねむの本当の気持ちに一つも気づけなかった。


あんなに笑顔で満ちていたねむの顔が、日に日に暗くなっているのを見て。



「ねむ、ねむが好きって言ってた茶髪にしてみたで! ……どう?」


「…………」


「ねむ、ピアス開けたん? かわいいやん!」


「…………」



なんとか明るく話しかけても、ねむからは無反応が返ってくる。そりゃそうだった。オレはどこまでも、馬鹿だったのだから。



「ごめんね、ねむ、相当ショックだったみたいで……」



泣きながらねむの母親に謝られてしまった時、中一だったレオも、どうしようもなく泣きたくなった。


でも、泣くのは違うと、ぐっと堪える。一番つらいのは、ねむだ。オレが泣いたって、救いにも何にもならない。



カウンセリングを経て、今はねむと距離を置くことが最善という考えで、それから約三年、ねむと会話を交わすことはさっぱりなかった。




ーーーそして、中三の夏。




人気のない公園。丁度今、レオが立っている公園でのこと。


何やら大きな声が聞こえて、塾帰りだったオレは公園をふと覗き込み、はっと目を見張った。



ねむが、ねむがいた。


大柄の男に囲まれ、栗色の髪を乱して一人で構えるねむが。



「この前はうちの仲間がお世話になったんだってなァ」

「女だからって容赦しねぇぞ」

「大体ガキの分際でトップっていうのが鼻につくんだよ。死ねや」

「仲間が不在のお前はただのガキ。社会の厳しさを知るべきだ、もう立ち上がれなくしてやれ」



「仲間がいないほうが、都合がいい。傷つくのは、ろくでなしだけでいいんだから」


「アァ?今なんて…………」



瞬間、音もなく、ねむが宙を舞う。華奢な足がぶんっと振られ、同時に数人の男が吹っ飛んだ。

が、相手は巨大で屈強な上に、十人ほどの男が小柄なねむを囲んでいる。



ねむが、そういった集団に所属していることは、それとなく周りから聞かされていた。


「ねむちゃんは、ちょっと危ないグループと関わってるみたいなの。でも、これは私達カウンセラーが対処していくから安心してね。レオくんは巻き込まれちゃ危ないから、心配なのはわかるけど関わったら駄目よ」


オレはカウンセラーの言葉を信じて、全く干渉してなかった。だから、ねむが戦う姿は初めて目にした。


「ねむ……!?」


「ーーー!!!!」



男に吹っ飛ばされ、地面に組み伏せられたねむと目が合う。


その瞳は、何年経っても紛れもなく、ねむのものだった。



「ぁ…………」



その瞳は、二年前と変わらず、拒絶の薄い膜が張られていた。


でも、その奥に、哀しみが、救いを求める光が見えた気がして。



「お、おりゃあああああっ!?!?」



「は?」

「このガキが……ぐっ!?!」

「なんだ……がはっ!??」



ただの体当たり、それがオレにできた唯一のあがきだ。


足が勝手に進む、止まらない。


そのままやみくもに突っ込んでいくと、岩のような男たちが、不意打ちと勢いに耐えられず、派手に尻もちをついた。



「お!? オレ、意外とこの道向いてるんちゃう? ……なあ、どう思う、ねむ?」


「ーーーここから、離れて!」



鋭い、でも今にも泣きそうな声。


その時、ようやくレオは、本当の意味でねむと向き合えた気がした。



長い髪を乱しながらも、急な乱入者を殺さんとばかりにレオに殴りかかってくる男を、ねむは片手で蹲らせる。


オレを庇おうと駆け寄ってくる、ねむがひたすらに愛しい。その瞳が、震えるほど懐かしい。



「ぁ」



光の、感情の抜け落ちたねむではない。明確に、レオを救おうと必死な意思がねむの目に灯っていた。


その時、我慢していた涙が、溢れた。



「ーーーなんや、簡単なことやったんやな」



二年間、オレはねむと会話することを避け続けてきた。それがねむを救える道だと言われて、それをただひたむきに信じて。


でも、違ったのだ。



ねむと同じ目線で、一緒に戦う。これが、ねむの本心に近づく方法。


それに気づけたから、レオはもう、最強だった。



「よしっ、やったるで! オレに任せときっ!」


「!?! 危ないっ」



再び体当たりをかます。

一時だが空手を嗜んでいたことがあり、それが幸と出て、俺は男たちに無我夢中で飛びかかった。


殴られる。殴り返す。腕をひねられる。急所を蹴る。蹴られる。殴られる。捻られる。絞められる。潰れる。



「はぁ…はぁっ…………」



どれくらい、経っただろうか。


足が限界を迎え、立っていられなくなる。


体が痛い。全身が火傷した時のようにずきずきと痛む。繊維は潰れ、骨が軋む。




地面に大の字に倒れ、荒い息をつきながらもふとあたりを見回すと、気づけばそこら中に男が倒れていた。



「や、やったんか……オレ……やっぱ才能あるんちゃう?」


「……九割八分はねむが倒した。第一、レオはもうぼろぼろ」


「うっ……もしかしてオレ、ただの邪魔者やった?」


「…………」



事情を深くは聞かず、ただ明るい声を出す努力をする。



と、ふと言葉が途切れ、ねむの方を見た。そして息を呑む。



ねむは、泣いていた。



「え?! ね、ねむ、ちょ!?」


「……ぅっ……うぁ……っ」



丸まった小さな背中。

たった一人で孤独と悲しみに抗ってきた、小さくて脆い女の子が、そこにいた。



「ねむ」



だからオレも、何者でもなく、ただの幼馴染として、泣き止むまでねむの横に寄り添っていた。









「……高校、一緒にいかへん?」



何十分が経過しただろうか。


泣き止んだねむの方を見て、思い切って提案すると、はっ、と呆けたねむの吐息が聞こえた。


突然オレは何言ってるんや、と自分を叱咤したくなる。が、それより先に口が勝手に動いていた。



「俺の目指してる高校、こっからすぐ近くにあるから、登校楽やし。偏差値も……頭の良いねむならいける、保証する」


「……びっくりした。てっきり、恨み言の一つや二つ、ぶつけられると思った。それに、なんで」


「んなことするか! ……ねむとまた昔みたいに登校したいし、一緒に馬鹿やって笑いたい。だ、大事な幼馴染やし……昔みたいに笑ってるとこが見たいしっ」



後半、恥ずかしくなりそっぽを向いてまくしたてる。



ねむはしばらく、ぽかんと固まっていた。


が、やがて、小さく息を吐き出す。



「昔みたいに、ね。こんなに汚れたねむでも、まだレオは、大事な幼馴染って言ってくれるんだ」



息を詰めてねむの方を見る。

ねむは薄い笑みを浮かべていた。自嘲するような、何もかもを諦めた、そんな顔。



「ねむ、とある暴力団の団長になったばっかで、こんなのもう抜けられない。暴力団ってね、傷だらけになるまで殴り合いするの。病院送りにした人数なんて、もう数え切れないらい。……こんな体も心も汚れたねむなんて、もう無理だよ。ママにだって、もう何年も口聞いてないし、レオにだって……。義務教育放棄したねむになんて、もう何も取り返しがつかない」


「そんなん関係ない! 今から取り戻せばええやん!」


「簡単に言うね。無理だよ。ねむは、もう」


「無理やない!! 俺が保証したる!! なんでもする、いつでも助けるから」




「っ! なんでそんなに、こんなねむのこと!!!」


 


俺はねむが言い切る前に、ねむに手を伸ばす。


そして力のかぎり、ねむを抱きしめた。急な抱擁にびくっ、とねむの体が跳ねる。



「……それは」



ーーーきみのことが、好きやから。



そんな照れくさい言葉は結局口から出ることなく、代わりにオレは、ねむの小さくて冷たい体をひたすらに抱きしめた。


伝われ、伝われ、そう念じながら。



「…………」



ねむの力では簡単にレオをぶっ飛ばし、セクハラまがいの行動の報復として、半殺しにでもなんとでもできただろう。


でも、ねむはそうはしなかった。



抱き合ったまま、一瞬、もしくは何時間も経った気がした。



「……今、数学はなにやってるの」



抱き合ったまま、ねむが小さな声で聞いて来たとき、全ての痛みを忘れて安堵したのを覚えている。



「な、なんやったっけ、あれ……四平方の定理、やったっけ」


「ばかレオ。三平方の定理でしょ」


「まじ!? なんや、ねむのほうが勉強できるやん!?」



オレの嘆きに、あはっ、と可愛らしい笑い声を上げるねむ。



まるで、傷ついて茎の折れた花が蕾をつけたような、そんな奇跡のような美しさに、オレは思わず言葉を失う。


そんな蕾は、今、目の前でゆっくりと、ゆっくりと、立ち直ろうとしている。




「あーあ……もう。レオ……れおれお。明日から、勉強、教えてよ」


「!!!!! まっ、任せとき!!!」


「もっとも、ねむが教える側になっちゃうかもだけど?」


「は、はぁ?! そんな無様はさらさへんっ!」


「四平方の定理とか言ってたれおれおが言うんだ?」


「ぐっ…………」



ねむが、オレの手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。そのまま歩き出すねむに、オレも慌てて隣に並んだ。



ーーー約三年ぶりに二人で歩く帰宅路は、ほんのりリコリスの香りがした。




「あーあ、れおれおのせいなんだから。ねむをまともな人間にするお手伝い、絶対してもらうんだからね……責任取ってよね?」


「ああ、もちろんや。いや、まあオレにできることがあるんやったら、やけど」



実際、オレの力なんて微々たるものだ。ねむの期待にどれだけ添えるか、怪しすぎる。



「………」



ねむはその後何も言わずに、俯いていた。


家の目の前に立ったとき、「ねぇ」と小さな声が耳に届いた。



「ねむのこと、助けてくれたとき。言いそびれたけど。れおれおは、邪魔なんかじゃ……なかったから」



ねむは決してこちらを振り返らない。



「十の内、たった二分の力でも……ねむは、れおれおに、救われたから」


「…………!」


「〜〜〜〜っ! そ、それだけ!!」



オレの唖然とした顔を察したのか、ねむはそれ以上続けることなく、当然振り返ることもなく、足早に家に駆け込んでいった。



『ーーーママ。た、ただいま』

『ねむ……っ?! お、おかえり……おかえり……!!』



そんな会話を聞き届け、オレは紅潮した頬を緩ませ、すぐ隣の家、つまりオレの家に駆け込んだ。





ーーーそれからどうなったのかは、今のねむを見たら明らかだろう。



元気で、無邪気なねむ。

自分ですべてを背負おうとした、強いけど脆いねむ。

そして、人と関わろうと前を向き続けているかっこいいねむ。


一度は折れかけた花は、今や太陽の光を十分に浴びて、綺麗な花を咲かせている。



どれも、全部、オレは横で見てきた。


そして、言えることはただ一つ。


 



ーーーねむが、大好きだということ。











「ーーー」



一方その頃、レオの部屋で。


ごし、ごしごしとミニテーブルを雑巾で拭く人影があった。



雑巾で擦られ今にも消えかかっているのは、何年も前にクレヨンで描かれたであろう、数々のいびつなハートだ。


やがて全てのハートが消えた頃、その人影は満足気に息をつき、そしてポケットから口紅を取り出した。



人影は口紅を最大まで出したあと、ぐりぐりと、もともとハートが描かれていた場所を上書きするように、ハートをかきこむ。



腕には相当な力が込められているのか、やがて柔らかい口紅が真ん中でぐにゃりと折れてしまう。


人影はそれに気づいてないとでもいうように、愛おしげにハートを、何度も指でなぞった。


ぐりぐり、ぐりぐりと。







「レオさんは……わたしの、もの、なんだよ……???」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る