第9話 世紀の大記録
一週間後——
涼子は千葉タウンスタジアムにいた。
対埼京ランサーズ三連戦のラストカードである。
今日の予告先発は前回、完全試合を達成した桜木陽気投手だ。
プロ野球史上、16人目の快挙であるばかりか、13連続奪三振の日本新記録、一試合19個の奪三振タイ記録と異例の記録ずくめのゲームとなった。
そのとき、涼子は観戦記事を他の記者にまかせて、埼京ランサーズの代打の切札、倉坂明に直撃取材を敢行していた。
大記録に立ち会えなかったことは残念ではあるが、悔いはない。倉坂の口からフジヤマカーブ、いや、高鳥本人に関する有意義な情報を得ている。核心に迫ってきているとの実感が涼子にはあった。
だが、世間の関心は桜木陽気に集中しているようだ。居並ぶカメラの砲列の前にさらされ、桜木自身も若干、戸惑い気味にピッチング練習をつづけている。
涼子は首をめぐらすと、高鳥の姿を探した。試合前の公開練習には参加しているはずだ。
いた。高鳥は黙々と外野フェンスの辺りを走っている。
涼子はすかさず駆け寄り、伴走者のごとく肩を並べて走る。
「あれから、いろいろと探ってみました」
「そのようだな。原島からメールがきたよ」
そうか、かつてのチームメイトとはまだ、つながりはあるらしい。
「で、なにかわかったのか?」
高鳥は涼子にあわせてペースを緩めるようなことはしない。涼子は次第に息があがってきた。
「倉坂選手もいってました。高鳥は、ひとにはみえないものがみえているのかもしれないと。わたしもそう思います」
「フッ……」
意外なことに高鳥は口の端に笑みを浮かべた。”笑わない男”として有名なプレイヤーが感情らしきものをのぞかせている。
「さすがはレコードストッパーだ。この試合、やつはまた、仕事をするかもしれない」
「し…仕事って? まさか……」
涼子は必死にくらいつくも高鳥との距離は開いてゆく。なんとかペースをあげて追いつき彼の背中に質問のつづきをぶつける。
「じゃ…じゃあ、この試合、桜木投手は前回のような試合展開でノーヒットピッチングをつづけて……」
「最後に大記録を砕かれるかもしれない」
2試合連続の完全試合達成は海の向こうのメジャーでも記録がない。これをやり遂げれば、空前絶後の大記録として野球史に刻まれるであろう。
だが……
それをレコードストッパーの倉坂が阻止するというのだ。まさに見逃せない一戦になるといえる。
「ま…待ってください」
ついに涼子は音をあげた。足がふらついてもう走れない。
「5回の裏が終わったらトレーナー室にこい。おまえが知りたいことを教えてやる」
そう背中で告げて高鳥は走り去った。そのままベンチ裏へと消えてゆく。
「そ…そんな……いま、教えてくださーい!」
喘ぐように叫ぶと涼子はひっくり返ってしまった。
スカートがめくれあがる。
桜木に向けられていたカメラの一部が涼子に的を変えた。シャッターチャンスとばかりにフラッシュが焚かれる。
「あーあ、記者さんが選手より目立っちゃまずいでしょ」
声がして手が差し伸べられた。
めくりあがったスカートを慌てて直し、その手をつかむ。
体を起こしてくれたのは倉坂だった。
「す…すみません。あと、この前はどうも」
涼子はぺこりと頭を下げた。
「いや、まとめてお礼をいわれても……」
ひとの良さそうな笑みを浮かべて、こめかみの辺りを指でかいている。その仕草は、とてもひとの夢を打ち砕く非情のレコードストッパーにはみえない。
「高鳥投手がいってました。倉坂選手は仕事をするかもしれない…と」
「となれば、大仕事ですよね。もちろん、そのつもりですよ」
自信をのぞかせて倉坂もベンチ裏へと引き揚げてゆく。
涼子は、ピッチング練習を切りあげて、正捕手の若槻泰二郎となにやら打ち合わせをしている桜木の背中をみた。
近づいて聞き耳を立てなくてもわかる。
『この試合も狙ってゆくぞ!』と彼らは互いを鼓舞している。
世紀の大記録達成に向けていま、筋書きのないドラマの幕が明けようとしていた。
第10話につづく
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