第2話 野心と良識
目が覚めた。
涼子は全裸でシーツにくるまっていた。
窓からは朝の光が差している。
ザーー。
浴室からシャワーを使う音が聞こえる。
高鳥だ。
シャワーの音が途絶えてしばらくすると、バスローブに身をつつんだ高鳥がでてきた。
「ケダモノッ!!」
涼子は罵声を投げつけた。枕とともに。
「そこは、『おはようございます』だろ」
心にも体にも痛痒を感じず高鳥がいう。
「なんでこんなことを……訴えます!」
「やればいいさ。その替わり、あんたが欲しかったものは手に入らなくなる」
「あたしが欲しかった…もの?」
「あんた、編集部にいわれて魔球の秘密を探りにきたんだろ。訴えれば、なにもおれから引き出せなくなるぞ」
「だからって……」
「野心と良識、あんたはどっちを大事にする?」
「ッ?!」
涼子は一瞬、問われた意味がわからない。
「おれから魔球の秘密を聞きだせば、あんたは大スクープを手に入れることになる。うまくいけばチンケな出版社なんかやめてスポーツジャーナリストとして独立することも可能だ。さあ、どうする?」
エサを差し出してきた。思いのほか、狡猾な男だ。
「本当に秘密なんかあるんですか?」
そういわれれば気になってしまう。ただの山なりの超スローカーブ、バッターが打てないのはタイミングがつかめないからだと単純に思っていた。
だけど、相手は高校野球の選手ではない。チームにはデータを駆使した専用の解析班もいる。球の軌道はわかっているのだから、何度も打ち損じることはないはずだ。
やはり、なにか秘密が隠されていると考えた方が自然だ。
「…………」
「……良識を優先させても望むものは手に入らないぜ」
「…………秘密を」
涼子は震える声でいった。
「秘密を教えてください」
「そうこなくちゃな。球団にはおれの方からいっておく。密着取材はOKだ」
「え? いまここで教えてくれるんじゃないんですか?!」
「甘えるな。おれはそこまでお人好しじゃない」
知りたいなら、自分の目と足でつかみとれということか。
「わかりました。でも覚悟してください。あたしは全部書きます。なにもかも」
『なにもかも』というところを特に強調していった。高鳥の表情は変わらない。
「好きにすればいい」
そういうと高鳥は涼子が見ている前で着替えをはじめた。これからホテルのジムで汗を流すようだ。
昨年まで高鳥文吾はセットアッパーだった。試合を立て直す中継ぎエースとして大車輪の活躍だった。
それが今年からクローザーに転向した。
涼子は札幌ドームの記者席で早く9回裏がやってこないか待ち望んでいた。
今日も先発の桜木陽気投手が快調に飛ばしていて北海打線を2点に抑えている。このままいけばベンチは桜木に完投させて、控えの高鳥らを温存させる方策をとることも考えられる。
「桜木の完投ですかねえ」
隣でネット裏カメラマンの丸山がいった。名前のとおり丸っこくて鈍重そうな肥満体の男だ。ぱっと見は冴えないがカメラの腕は確かである。シャッターチャンスを逃すことはない。
「丸山さんはどう思います?」
涼子は丸山に訊いてみた。カメラマンの目をとおして見たフジヤマカーブの真相が知りたい。
「フジヤマカーブ…ですか? なにかありそうな気はしますね」
「なにかって…なにが?」
「そんなの知りませんよ。それを暴こうと思って他社さんたちも必死になってると聞いてます」
やっぱりそうなんだ…と声にださずつぶやいてみる。おそらく取材申し込みは殺到しているだろう。そんななか、東亜スポーツの神尾涼子だけが長期の密着取材を高鳥本人から許可された。他社から猜疑の目を向けられることは間違いない。
苦労して魔球の秘密を暴いたところで、女の武器を使ったからだと陰口をたたかれることは覚悟しておかなければならない。こちらは被害者といっていい立場だが結果は同じ事だ。
——野心と良識、あんたはどっちを大事にする?
いや、こうなったら断然野心だ。涼子の夢はスポーツジャーナリストとして独り立ちすることだ。
涼子は学生時代、競泳選手としてオリンピックを目指していた。だけど、ライバルたちに次々と破れ、その夢をあきらめざるを得なかった。
涼子ならわかる。栄光につつまれたものたちの歓喜や挫折したものたちの無念も。
それを書きたくて記者になる道を選んだのだ。
「おや。出てくるようですよ」
9回裏。そのまま桜木投手の続投かと思いきや、ベンチは高鳥に代えてきた。
『ピッチャー桜木に代りまして背番号40高鳥』
場内アナウンスが告げられるやドーム全体が歓喜に震えた。
やはり場内に詰めかけた観客たちは高鳥の魔球を見にきたのだ。
ゲームの展開は7回裏に北海が追い付いて2-2の同点。
8回表に長短打を駆使して千葉が再び3-2と突き放す。
9回裏に高鳥をもってきたのは桜木の限界を感じ取ってのベンチの判断かと思われる。
高鳥が小気味いいピッチングでたちまちツーアウトと北海打線を追い込んだ。これまで一度もフジヤマカーブを投げていない。
フッジヤマ!
フッジヤマ!
フッジヤマ!!
はからずも場内からフジヤマコールが沸き起こる。
高鳥は北海の三人目のバッターをツーボールツーストライクにまで追い込んでいた。
「こりゃ、投げますよ!」
丸山がカメラを構える。
そのときだ、高鳥が記者席の涼子をちらりとみた。
どくん。
なぜか心臓が高鳴る。
なぜ、あたしを見たのか?
これは、よくみておけというサインか?
高鳥が第5球を投げた。
フジヤマカーブだ。
客席でどよめきが沸き起こる。
ボールは鳥のように高く舞いあがり、やがて山の斜面のような軌道を描いてバッターのストライクゾーンに滑り込んでくる。
「ッ?!」
涼子は違和感を覚えた。いままでは気づかなかった違和感だ。
「ストラックバッターアウッ!!」
バッターは空しく空振りしてゲームセットとなった。千葉マリナーズの勝利だ。
マリナーズ側の観客席が沸いている。千葉県出身の丸山も職業意識を忘れて大喜びだ。
「あれ? どうしたんです? そんな難しい顔して」
丸山が涼子に振り向いていった。
涼子はしばらく考え込むと丸山を見つめた。
「か…神尾さん?」
涼子が絞り出すような声で丸山に訊いた。
「ねえ、いまボールが止まらなかった?」
第3話につづく
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