第9話 遭難者






「そのぉ、僕を描くって何を描くんですか?」


 率直な質問。彼女が僕を描くと言ったその言葉は、頭の中で宙を舞う。

 僕を描く。それがどういう意味なのかはっきりしないことに、聞かずにはいられなかった。


「私、小説とか書いてるの」


「ショウセツ?」


「そうよ、小説」


 小説?小説って本とかのあれか。


「小説書いてるんですか!?という事は小説家ですか!?」


 僕は抑えられない感情を鉄砲玉の様に彼女に飛ばした。


「…汚い」


「…え?」


「唾」

 

 彼女は顔についたであろう僕の唾をコートの裾で仕方なく拭った。鉄砲玉の様に飛んでいたのは僕の感情だけではなかったようだ。


「ご、ごめんなさい!あ、あ、あ、ティ、ティッシュ持ってきます!」


 僕は慌てふためき、一目散に車へと走った。運転席のドアを勢いよく開け、コンソールボックスに入っているポケットティッシュを取り出す。ポケットティッシュを取り出した際、中に入っていた小銭が飛び散ったが気にも留めなかった。


「はぁはぁ、これ、使ってください」


 急いで彼女の元に戻り、広告付きのポケットティッシュを手渡した。急ぎと焦りで呼吸が乱れる。一日分の呼吸量を午前中の内に消費してしまうくらい白い息を繰り返し出す。

 彼女は僕から受け取ったティッシュで顔を拭き、拭った袖元も拭いている。

 すると一瞬、彼女の目つきが変わった。


「あなた昨日とは全然違うのね」


「え?何がですか?」


 昨日との違い?いったいなんだ?


「昨日なんてこの世の終わりの様な顔してたけど、今日はなんだか違う。正確には、海から戻った後から違う気がする」


「そ、それを言われるとぉ」


 当たり前と言えば当たり前だ。自ら命を絶とうとしてる人間が元気なわけない。そして今に至っては少しだが前を向いている。立ち直っている訳ではないのかもしれないが、地の底から手を伸ばしている。


「若い女の子と会話できて舞い上がった?」


「い、いやぁそんなこと」


 彼女は顔色一つ変えずに揶揄からかってきた。表情は変わらないがおそらく心の底から笑っているのであろう。そうであって欲しい。

 彼女の笑いが止んだ後、冷たい風が頬を伝う。2人の髪を揺らすその風は、春とは思えない冷たさだった。僕の目に映ったその風は、そっと僕らを通り過ぎる。



「じゃあ」


 

 次に彼女が話すことは、揶揄からかいでも、冗談でもない。空気が変わる。何故か、そう思った。




「あなた無理してるでしょ?」


 



 自分では気がつかない自分への制御。僕の脳は、また嫌な事を、辛い事を、惨めな自分を、できる限り思い出さないよつに、自分が壊れてしまわないように、自分が自分でいられるように、気がつかないうちに制御している。

 自分が嫌いな昨日までの自分と、これから好きになりたい今日からの自分。必然的に僕の脳は後者を望んでいた。

 

 今の感情、表情、思考はもしかしたら4月1日のままなのかもしれない。

 それは偽りだから。



「どうなんでしょう。僕にもわからないです」


 少しの間の後、僕は彼女にそう言った。

 自分にはわからない。でも。


「久遠さんは、どう思いますか?」


 彼女なら、冷静な彼女ならきっとその答えを知っている気がした。


 そう信じたが、それは違った。

 次に聞く彼女の言葉には納得を覚えた。



「私に聞くよりも、もっとあなたを知っている人に聞いたら?」


 思えば昨日初めて会った人。僕の事なんか自殺願望者くらいにしか思っていないだろう。僕の事をあまり知らない彼女に、そんな答えを聞いても分かるはずがない。

 そんな事も考えられないほど、今の僕には余裕がないようだ。道に迷い焦って正しい道を探しているが、結果それは事態を悪化させるだけだ。もっと深い山の中へ迷い込もうとしている。



 僕は遭難者だ。



「すみません。変に聞き返してしまって」


 僕は足元にあるタバコの灰を見ながら謝り、下唇を強く噛んだ。そうしてないと、昨日までの自分が許せない。


「私こそごめんなさい、あなたが困る様な質問して。たださっきの返事は半分間違い。今のあなたをよく知っているのはきっと、あなただけだから。」


 彼女なりの親切だろうか。心なしかその言葉には暖かみを感じる。

 きっと僕はその答えを知っている。ただそれを、彼女に聞かれて、言葉にしたくなかったのかもしれない。

 足の裏に描かれた地図を見れば遭難せずにいられた。ただ僕の脳はそれを命令しなかった。身体と同じで僕の脳は硬かったようだ。

 

 視界の端では、彼女が両手を擦り合わせているのがわかった。寒いのか、小さなその手は赤くなっていた。

 すると、擦り合わせた両手がピタッと止まり、その柔らかな唇が動き出す。



「きっと見つかるよ。



 僕は思わず彼女を見る。

 初めて会った時と同じ優しい声。

 意識が朦朧とする中で聞こえた最初の声。

 同じだ。

 今は、はっきりと

 

 その声に僕は救われたのだ。

 その後は無表情で声色も変えずロボットの様な、冷静というよりは冷酷が似合う話し方。

 長い間、一緒にいた訳ではないが、その声を聞いてはっきりと分かった。


 静まり返ったこの世界に、彼女の柔らかい声だけが響いた。





 彼女は僕を見つめ、微笑んでいた。






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靴を揃える、そして彼女は微笑む soupan @soupan

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