第5話 救った代償




 僕は靴棚の上に置かれた一輪の薔薇にむかって、「いってきます。」と一言添え、靴を履いた。

 靴は内側が濡れていて、新しい靴下が湿ってしまったが、他の靴は無かったので仕方なく、濡れた靴を履くしかなかった。

 明日彼女を送ったら、靴でも買いに行くか。


 後ろでは彼女が濡れたブーツを履いて、大きく深呼吸するのがわかった。白い息が出る事を、再確認しているようだった。

 僕達が外に出ると、暗闇に浮かぶ小さな雪片せっぺんが舞い降りている。まるで桜だ。だが桜とは違って、その雪片は、地面に着くと静かに溶け込む。その儚さが、尊いとも美しいとも思える春の雪。


「春の雪って、綺麗ね」


「神奈川だと、滅多にお目にかかれないですもんね」


 春の雪は彼女にとっては特別だ。きっとここに引っ越してこなければ、見る事はなかったかもしれない。

 そんな特別な雪を見上げる彼女はどこか、好奇心に溢れる幼子おさなごの様だった。

 小さい頃の僕も、をしていた気がする。当たり前にある、この世の全てが不思議で、新鮮で、今となってはそのような事は滅多にないが、あどけないその瞳は、全てが輝いて見えていた。


「いきますか」


「ええ、そうね」


 頭に少し雪を乗せ、僕達は車に向かった。


「まず海に向かいますね…あ、途中でコンビニ寄ってもいいですか?」


「えぇ、いいわよ。タバコでもなくなった?」


 さすがは女性なのか、嗅覚が優れている。車内の灰皿は蓋をされているが、やはり多少は漏れるのだろう。


「実は、海に入った時に全滅してぇ…」


 ポケットの中のタバコは、箱ごと水没して、とても吸える様な状態じゃなかった。


「あ、車の中では吸わないので、それとちょっとお腹減っちゃって」


「わかった」


「ありがとうございます」


 運転席のドアを開けると、彼女の石鹸のような香りがまだ残っていた。おそらくタバコの臭いもあるのだが、僕にはわからなかった。

 僕は車に乗りエンジンを掛ける。彼女に運転してきてもらった時には暖気されていたのだが、完全に冷え切ってしまっている。


「ではまず、コンビニいきます」


 僕は合図と同時にシートベルトを締め、車を運転する。足の感覚も戻っていたので運転には支障はなさそうだ。


「そういえば久遠くおんさんて、おいくつですか?」


「今年で25になる」


「え!僕より歳下!?」


「ごめんなさいね老けてて」


「いやそうじゃなくて、僕より落ち着きがあるし、威厳があるというかなんというか、言葉遣いから大人っぽかったんでぇ」


「それ、遠回しに老けてるって言うのよ」


 運転しているなか横目で彼女を見ると、少し頬を膨らませている様に見えた。


「違うんです、違うんです。あぁもぅなんて言えばいいのかなぁ」


 上手い表現が出てこない。これは僕のボキャブラリー不足のせい。どうしたら歳下の彼女を、大人っぽく表す事ができるのだろうか。


「あなたこそいくつ?」


「今年で27です…」


「あなた、少しは言葉を勉強しなさい」


 彼女は呆れ顔でそう言った。

 歳下に怒られてしまった。僕の車は狭いが、それよりも肩身が狭くなるのを感じる。


「すみません。言葉を覚えた後でまた言わせてください」


「いつになるやら。まぁいいわ、それまで待ってる」


 僕は少し元気良く「はいっ!」と答え、いつか必ず、失礼のないように褒めちぎってやると誓った。

 ここまでくると、歳下と分かっていても敬語がやめられなくなる。おそらく彼女も、僕には敬語を使わないだろう。

 話しをしているあいだに、コンビニに着いた。街灯が少ないこの町では、コンビニだけが明るく感じる。


「買ってきますので待っててください」


「うんわかった」


 僕はコンビニの中に入った。用はないが、コンビニに入ると何故か左側にある雑誌コーナーから、グルリと周ってしまう。

 ペットボトルのホットレモンを両手に持って、レジへと向かう。レジから見える所に、この前観た映画のポスターが貼られていた。


「えぇと、127番と肉まん2個下さい」


「かしこまりました」


 店員さんはタバコをまず取り、それから肉まんを2個取り出した。取り出す際、肉まんが入っている容器から、美味しそうな匂いがこちらまで届く。

 僕は買い物を済ませ、レジ袋を手に取り車まで戻った。車の中の彼女はただ、窓の外を見ていた。


「お待たせしました。これホットレモンと、肉まん。よかったらどうぞ」


 僕は温かいホットレモンと肉まんを彼女に渡した。


「ありがと」


「お腹空いてるかなぁと思って、空いてなかったらすみません」


「うぅん、夜ご飯まだだったから、ありがとう」


 ご飯でも一緒に食べにいけばよかったかなぁと思ったが、地元のレストランは夜の8時で閉まるので、行くとしたら隣町まで行かないといけなかった。


「肉まんで足りますか?」


「大丈夫、少食だから」


 肉まんの匂いが車内を満たし、顔に近づけた肉まんを食べずに、湯気を顔に当てる。


「肉まんの湯気ってあったかくて潤ってるじゃないですか。これ顔に当たると、保湿してくれる様な気がして、やっちゃうんですよね。加湿器みたいな」


「そんな事するの、貴方だけよ」


 と言いながら彼女も湯気を顔に当ててたのを見て、少し笑ってしまった。


「何よ?」


「いや、なんでもありません」


 僕は少し微笑みながら、否定しながら実践していた彼女の行動に、歳下っぽさを感じた。


「それじゃあ向かいますか」


 僕は肉まんを左手に持ちながら、その手でシフトチェンジしていく。

 

「器用なのね、肉まん持ちながら運転なんて」


「器用というか、慣れですかね。前の会社の時に、この車で通勤しながら朝ごはん食べてたので」


「ふぅん、前の会社では何をしていたの?」


「今と同じ自動車整備です。厳密にいえば今は板金修理をメインにやっています」


「そうなんだ。じゃあ今度、バイクのオイル交換頼もうかな」


「是非やらせてください!今日のお礼に料金はいりませので」


「お礼がオイル交換って…」


「あ、それ以外にもお礼はさせてください」


「ふぅん」


 彼女は何かを企んでいる風に返事をした。怖い。何かとんでもない事を考えてそうだ。

 


 僕達が肉まんを食べ終える頃、海へと着いて早々とバイクを海の家の裏に移動した。バイクには降った雪が少し積もって、寒そうにしている。僕はバイクの鍵を預かり、バイクを押しながら彼女と共に歩いた。

 それより彼女のバイクに驚いた。SR400。セルモーターが付いていない、キック式のバイクだ。簡単に言うと、エンジンを掛けるのが少し難しい。


「SR乗ってたんですね。」


「バイクも詳しいの?」


「詳しいまではいかないですが、僕もバイク持ってるので」


 僕のバイクはメーカーは違えど、SRと同じ部類に入るバイクだ。


「じゃあ今度、ツーリングにでも連れてって。この辺りの道も知りたいし」


「是非いきましょう。道案内は任せてください」


 僕達はツーリングの約束をして、バイクを停めて、彼女の家に向かうことにした。

 


 彼女の家の方まで来ると、僕の家の近くという事がわかった。ただ僕の家と違って、ここには街灯がまばらにあるので、道は明るい方だ。


「そこのアパートの前に停めて」


「はい」


 彼女の住むアパートの前に車を停め、彼女はシートベルトを外した。


「連絡先教えて」


「あ、はい。電話番号教えるんでかけてください」


 僕は彼女に電話番号を伝えて、電話をかけてもらった。


「名前の漢字はどう書くの?」


「僕の名前は仁義のじんです。久遠さんは、久しいに、遠いで合ってますか?」


「えぇそうよ」


 僕達はお互いの連絡先を交換してスマホをポケットにしまった。

 

「じゃあまた明日。時間はそっちに任せる」


「それでは家出る前に連絡します。今日はありがとうございました」


 彼女は一言「ん」っと答えて助手席を出た。運転席から手を振り彼女を見送った。



 僕は今日、彼女に救われた。救われ、死に損なった。

 ただ、死に損なった事を後悔してない。

 突然現れた彼女に対して、最初は怒りを覚えたが、彼女の発する一言一言が僕を動かして、気づけばその怒りは無くなっていた。

 不思議な女性だ。本当に僕の事を知っているような話し方。

 あれ?そういえば僕が指輪をしている事には、何も触れてこなかったな。まぁいいか。

 いろいろ考えたが、疲れたせいで今はすぐにでも眠りたい。早く帰って寝よう。


 僕は車を走らせようとクラッチを踏んだ時、助手席の窓をコンコンとされたので、そちらを見ると、彼女が立っていた。僕は助手席の窓を開け、


「忘れ物しましたか?」


 と尋ねた。

 彼女は膝を小さく曲げ、背の低い車の中を除くようにして、首を横に振った。

 僕は首を傾げると、彼女は白い息を吐きながらこう答える。



 「今日のお礼に、貴方を書かせて欲しい」



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