第4話 温かい香り
「何?命を救ったのよ?30万なんて安い方でしょ?」
安くはないぞ。安くは。まぁ命に値段なんてつけられないから、そりゃ安いんだろうけどぉ…
「代行もしたわね。31万。」
「代行代1万!?車で10分くらいですよ?」
「ジャンバーも貸したわね。33万。」
「代行よかジャンバーの方が高いんですか!?なんぼのジャンバーですか!?」
「うーん…5980円だったかしら。」
なんだこのやりとり。ボケとツッコミならまだ話は分かるが、彼女はマジだ。マジに突っ込んだって、突っ込んだ方が怪我をするだけだ。
「嘘よ。エイプリルフールじゃない、今日は。」
「っ…嘘、でし、たかぁ。」
本当、感情が読めない。
たった数回のやりとりだったが、凄く疲れた。嘘という言葉が安堵の一言に尽きる。
「いいから髪乾かしなさい。それと温かい飲み物あったりする?」
「すみませんコーヒーしかないです。」
僕は棚からドリップコーヒーを取り出した。隣町のたまにいくカフェのコーヒーだ。
「大丈夫。コーヒー好きだから。」
「そうでしたか。カップはこれ使ってください。」
僕は彼女がいるテーブルの前に、ドリップコーヒーとコーヒーカップを置いた。
彼女は用意された、コーヒーカップにドリップコーヒーをセットして、沸かし終えてあったケトルで円を描きながら、お湯を注いだ。
「すみません何から何まで。僕、髪乾かしてきます。」
暖まった居間をでて、冷え切った洗面台の方に向かう。ドライヤーを手に取り、濡れた髪を乾かしていく。
洗面台の鏡に映る自分を見て、目が赤い事に気づく。彼女がそれを見ていたとなると、恥ずかしさでいっぱいだ。
髪を乾かし終えると、彼女のいる居間へと向かった。
「おまたせしました。」
「5000円でいいわよ。」
「え?まだその
「あれは終わり、コーヒーを入れた分。」
なんて人なんだ。何かと貸しができたら、すぐに金銭の要求をしてくる。
「嘘。嘘。」
彼女は笑いもしない上、あの目で見られると本当に聞こえてしまう。
「はぁ〜、もう貸しは作りません。」
僕は深いため息の後、強く誓った。
「はいコーヒー。」
「ありがとうございます。いただきます。」
散々からかわれたので、僕は不満そうにソファで体育座りをしている彼女に向かって言った。
直後、僕の気を引いたのは温かなコーヒーの香り。毎日飲むコーヒーとは、違う香りがした。いや、同じコーヒーなんだけど。先ほどの事は忘れてコーヒーを一口。
「美味い。同じコーヒーですよね?」
「あなたの家なんだから、あなたのほうが詳しいでしょ?」
コーヒーの袋のパッケージを見ると、確かに同じコーヒーだ。
僕は寝る前に必ず、このコーヒーを飲む。普通の男性なら、そこはお酒だ。お酒は飲めない訳ではないが、めっぽう弱い。ビール一杯で顔が赤くなる。なので晩酌はほとんどしない。僕にとっての晩餐はコーヒーなのだ。眠る前のコーヒーは、僕に安らぎを与えてくれる。
だが、今飲んでいるコーヒーは…なんなんだ。びっくりするぐらい美味しい。身体が冷え切っているせいか、彼女が入れてくれたおかげか。
「どうすれば、こんな美味しく…」
僕はコーヒーに目がなかった。
「あなたいつもどうやって淹れてる?」
「上からお湯を注ぐだけです。」
「それじゃあ本当の美味しさは引き出せないわよ。」
彼女が淹れていたように、円を描きながら淹れると美味しくなるのだろうか。
「今度、教えてあげる。」
今度。不思議と違和感はなかった。きっとまたこの人に会うんだと、なんとなくだけどそう思った。
「お願いします。」
彼女の前では、おそらく初めてだす笑顔だった。
「コーヒー飲んだら帰るわよ。海まで送れるでしょ?」
「あ、いやぁでもぉ、道路凍ってますよ。」
彼女を送るのは問題ないのだが、問題なのは凍結した道路だ。この寒い中、何せバイクだ。危険すぎる。
「もしよかったら、家まで送らせてください。まずこれからバイクを人目に付かないところに移動して、それで明日の日中に迎えにきますので、その時バイクを取りにいきませんか?」
「それもそうね。じゃあそれでお願い。」
さすがにあの広い駐車場に、バイクが一台置いてあるのは心配になるので、海の家の裏に停めておこう。
それとなんだろ、女性というのはそんなに簡単に家を教えない気がしたんだがぁ。彼女には迷いは無かったように見えた。
「あ、でも今日初めて会いましたし、やっぱり家の近くまでにしますか?」
「いや、あなたなら大丈夫。」
すっぱりと、彼女は言い切った。
時々彼女との会話は、不思議な感じがする。前から知り合いだったかのような、そんな感覚。と言うよりは、彼女だけが僕のことを知っている感覚が正しい。
「そういえば、家の前にある工場。車屋さん?」
「あ、そうです。小さいながら経営しています。もともとは父さんの会社だったんですが、現役を引退して早々に他界してしまったので、僕が後継って訳です。」
「そう…。お母さんは?」
「母は僕を産んで2年後に亡くなりました。」
「ごめんなさい。嫌な事を聞いて。」
「いいんです。隠すような事じゃありませんし。」
僕は今年27歳になる。両親の死が早いようにも聞こえるが、僕は4人兄弟の末っ子長男だ。つまり姉が3人いる。
物心つくような頃からは、そのほとんどは父に育てられてきた。母の顔はまったく覚えていないが、写真で見るかぎり、父と仲が良さそうだった。母は僕を産んで2年間、必死に僕を育ててくれた。父も母も僕を愛してくれた。それだけは言える。
僕の周りでは命が消えていく。そんな気がしてならない。
「お父さんとお母さん、きっと今は天国であなたの事、ずっと見守ってくれてるよ。だからそんな悲しい顔しないで。」
「…ありがとうございます。」
あれ、なんだろう、涙が出てきそうだ。彼女の急な優しさに、あたかも本当にそうなのかと思うようなその言動に、僕は胸が熱くなるのを感じた。
同じ事を、別の誰かに言われても、ここまで僕の胸には響かないだろう。
彼女のその言葉に僕は涙を抑えられなかった。一筋の温かい涙が、頬をつたう。
「泣いてばかりで、すみません。」
彼女はゆっくりと頷いた。
流した涙をぐっと堪えて僕は天井を見上げる。いつもと変わらない天井。今は少し、高く見える気がする。
父さんと母さん、仲良くやってるかな?今度墓参りに行ってやらないとな。話したい事がたくさんある。
涙が乾いてくる。乾いた涙をジャージの袖で拭いながら、涙声で僕は彼女へ問いかけた。少し重い空気を変えるために。
「そういえば
「神奈川よ。ここに引っ越してきた。一昨日ね。」
「へぇ、バイクできたんですか?」
「そうよ。車はこっちに来る前に母に譲ったから。」
ふと、雪の積もるこの地に、何故車ではなくバイクなのか聞こうとしたが、何故か言葉が出てこなかった。
「遠いし、寒かったんじゃないですか?」
「まぁあっちに比べたら寒いわね。そうだ、いずれ車は買うつもりだから、その時は頼んだわよ。」
「本当ですか!それはありがとうございます!」
涙を流した後だが、僕は嬉しさを隠しきれなかった。
「どんな車がいいか後で相談乗りますよ。」
「ありがとう。…やけに生き生きしてるじゃない。会った時とは大違い。」
「あぁ、僕、
「言いたい事はわかったわ。ゆっくり考えなさい。」
彼女のその言葉に、ただ笑顔で返した。
「あ、そろそろ行かないとですね。」
「うん。」
「あと、ジャンバーありがとうございます。クリーニングに出してから返します。」
「貴方、この寒い時に女性からジャンバーを取り上げるの?」
「あ、いやそんな気は…」
「冗談よ。エイプリルフールって言ったじゃない。ただクリーニングは大丈夫。そのまま貰うわ。」
「は、はぁ。そうですか。それではこれ。」
情けない返事と共に、キョトンとした顔で彼女にジャンバーを返す。慣れてはきたけども、嘘の乱用が激しすぎる。このままだとエイプリルフールが終わっても乱用は続く気がする。
温かかったコーヒーカップは、いつのまにか空になっていた。お店で飲むのよりも美味しかったコーヒーの淹れ方は、後で教えてもらおう。
「カップ下げてきますね。」
2つのコーヒーカップを手に取り台所に向かった。飲み終えたカップを水で濯ぎながら台所の窓の外を見ると、わずかだが雪が降っていた。ゆっくりと舞い降りる雪は、地面に着くと消えて無くなる。積もるほど降ってはないが、明日バイクを取りにいけるか心配だ。
「雪降ってきましたね。」
居間に戻り彼女に報告した。季節外れではあるが、この地域で4月に雪が降る事は、そう珍しい事ではない。
彼女の細い目は、まん丸に見えるほど
「4月の雪は初めて観た…」
「こっちでは毎年降りますよ。と言っても積もった事は無いのでご安心してください。明日は大丈夫だと思います。」
「ならいいんだけど。」
彼女は少し不安気に、でもどことなく目の前の光景に少し目が輝かせているように見えた。
「早く行きますか。バイクに雪積もったら可哀想ですし。」
「そうね。」
僕は石油ストーブを止め、外の景色を見つめながら自分のジャンバーを着る。彼女も同様、窓の外に目を向け僕に貸してくれたジャンバーを着て、マフラーを身につけた。
玄関へのガラス戸は室内との温度差で曇っていた。僕が曇ったガラス戸を開けると、そこにはバラバラに脱ぎ捨てたはずの僕の靴が揃えられている事と、靴棚の上に一輪の薔薇が置いてある事に気づく。
シャワーを浴びている間、彼女が揃えてくれたのかなぁ。薔薇の花も捨てずに置かれてる。
2人の靴は少し感覚がおかれ揃えられている。僕の靴は内側が、彼女のブーツは外側が濡れていた。玄関には彼女の濡れた足跡が、まだうっすらと残っていた。
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