第3話 凍てつく小道




 繋がれた手。彼女は力いっぱい僕の左手を導く。

 その力強さに、僕はほとんど自分の足では歩いていないようだった。


 やっとの思いで駐車場にたどり着く。海から駐車場までは50mくらいしかないのに、果てしない距離に感じた。


「早く車の鍵を貸して。」


「水没して壊れたかも。」っと言ってカードキーを渡したが、ボタンを押すなり「ピッピッ」と車が反応したのでその心配はなかった。

 鍵が開き、彼女は運転席に乗りエンジンをかけようとした。

 しかし、僕の車はマニュアル車なのである。オートマチック車とは、エンジンのかけ方が違う。だが、彼女はシフトノブを見るなり、クラッチを踏み、エンジンをかけてみせた。よく考えると彼女はバイク乗りなのである。


「上の服を脱いで。」


「えぇ!?」


「良いから早く。」


 言いながら彼女は、一度運転席を降りると、身につけたマフラーを手に取り、着ていたジャンバーを脱ぎ出した。

 ジャンバーの下には白色のニットを着ていて、ジャンバーを脱ぐ際、バチバチバチと静電気が流れる音がした。

 僕は少々躊躇ためらったが彼女に従い上の服を脱いだ。

 思った通り寒い。きっと唇は紫色になっている。歯はガタガタ震え、服を脱いだ後の僕は、まるでロボットの様にカクカク動く事しかできなかった。

 息をすると、肺の中が凍りそうだ。


「これ羽織って助手席に乗って。」


「え、あ、でも寒くないの?」


「他人の心配してる余裕あるの?」


「ご、ごめんなさい。」


 彼女の行動は一つ一つ的確だった。濡れた服を着たままであったら、その冷たさで体温が奪われる。


 彼女が先程脱いだジャンバーを羽織る。柔らかい香りがする。上の服を脱いだ事で、一見寒いが彼女のジャンバーが僕を暖かく包んでくれた。


「ズボンは、どうしたらいいかな?」


「ズボンを、貸せと言ってるの?」


「あ、いやそう言う意味じゃ…」


「知らない女性の前でズボンを脱ぐの?」


「大変失礼しました。」


 僕は馬鹿だ。あまりの恥ずかしさに青白い顔が赤くなるのが分かる。仕方なくズボンは諦め、靴下だけ脱ぐ事にした。

 そんなやり取りの後、助手席のドアハンドルに手をかけ、車内に乗り込む。自分の車の助手席に乗るのは初めてだった。いつもと違う視界が広がっている。乗り慣れなくて不思議な感覚。

 彼女から借りたジャンバーからは石鹸の香りがし、2人乗りの車を、柔らかな香りで満たした。


 彼女は車の暖房を最大まで上げ、アクセルを軽く踏み、エンジンの回転を上げている。確かに、冷え切った車は直ぐに暖かい風は出せない。こうしてエンジンの回転を上げて暖気をすると、直ぐに暖かい風が出てくるようになる。

 よく知っているなぁと感心していると、彼女はこちらを見る。


「どうする救急車呼ぶ?」


ケータイ片手に彼女は問う。


「いや救急車はちょっと…あまり大事おおごとにはしたくないです。」


「じゃあ家まで送る。道教えて。」


っと言うと、彼女はシートベルトを閉め、ギアをバックに入れた。


「え、え、え、ちょっと待って。運転できるの!?」


「免許はある。」


「は、はぁ。」


 拍子抜けした僕の返事は、エンジン音によってかき消された。

 今日は驚く事がたくさんだ。女性でマニュアルの免許を持っている人は、なかなか珍しい。

 彼女が運転する僕の車で、自宅に帰る事となった。


 僕は道を案内しながら凍える身体を震わす。暖かい風と彼女のジャンバーが僕の身体を温める。泣いた後ということもあり、目は渇き、同時に眠気が襲ってくる。

 ここで寝てしまったら、送ってくれている彼女に申し訳ない。まず家までたどり着かなくなる。

 あれ?家まで着いたら彼女はどうするんだ?車でも家から海までは10〜15分だ。歩いていける距離ではない。

 

「あのぉ。」


久遠くおんよ。」


「え?くおん?」


「私の名前。橘久遠たちばなくおん。」


 家に着いた後、彼女はどうするのか聞こうとしたのだが、聞くのは後にしよう。


「久遠さんですね。僕は…黒瀬仁くろせじんです。」


 彼女は何も言わずコクッと頷いた。

 橘久遠。綺麗な名前だ。夏音と名前の響きは似ている気がするが、全く正反対な感じがする。彼女の性格を考えると…うん、やっぱり正反対。

 今までの会話、見透かされたような口車、無愛想な表情、力強い目つき、それら全てがその名前で説明が付くような不思議な力がこもってる。


「そこの信号を右です。それから真っ直ぐ行ってぇ…あ、道路凍ってるので気をつけてください。」


 濡れたズボンの生地を摘んで、なるべく肌に付けまいとしながら、家までの帰路を説明する。

 外は家を出る前より寒いらしい。道路の表面がキラキラ輝いている。ブラックアイスバーンだ。雪国で1番タチが悪い路面の有様。


「そこ、右です。ここ凍結しやすいのでゆっくり進んでください。」


 国道に建てられた防雪柵ぼうせつさくで隠れている小道を指差して案内する。

 この小道は吹きさらされており、風に煽られやすく、路面は凍結しやすい。一歩間違えば隣の田んぼか畑に落ちてしまう。

 彼女は慎重に車を進めると、左には小さな神社が見え、その向かいには工場が建っている。


「そこの工場の裏が僕の家です。」


 並べられた車。中のプライスボードがこちらを覗く。

 彼女は何も言わず案内に従うと、家までゆっくり車を動かす。街灯などは無く、真っ暗な敷地に家がある。


「お風呂沸かしながらシャワー浴びなさい。」


 家に着いて彼女は車のエンジンを止め、催促してきた。


「シャワーだけにしときます。」


 彼女は目を細めて僕を見てきたが、「あぁ、そう。」と家に目を向け言った。

 家は古く、お風呂もまた昔ながらの物なので、お湯を溜めるか、シャワーを浴びるかのどちらかしかできなかったので、シャワーだけ浴びる事にした。

 僕はシートベルトを外し、できる限り急いで家の中に入った。


「久遠さんも寒いんで、中に。」


 彼女は車のカードキーで鍵をかけ、コクッと頷き家の中に入る。

 先に彼女を家の中に入れ僕はそれに続けて中に入る。

 彼女は靴を揃えて居間に上がっていく。僕は靴を揃える事なく、居間に上がる。


「お湯沸かすものある?」


「あ、そこのケトル使ってください。」


 僕はストーブの電源を入れると、ケトルの場所を指差した。


「すみません、シャワー浴びてきます。そこのソファ自由に使ってください。」


「ぅん。」


 足はだいぶ動くようになった。感覚も戻ってきてる。僕は身体を震わしながら自室に入って着替えを用意する。

 脱衣所に入り、濡れたズボンを急いで脱ぎ捨てる。彼女から借りたジャンバーはシワを着けたら何を言われるか分からないので、畳んで脱衣所の棚に置いた。

 

 シャワーを出し、お湯が出てくるまで手で確認する。お湯が出てくると、つま先にシャワーを当てる。40度くらいなのに凄い熱さを感じる。きっと身体が冷え切っているせいだ。全身にシャワーを流し、身体が温まるのを待つ。


 シャワーを浴びている間いろいろな事を考えた。

 彼女は何処の人なのか。なぜ海に来たのか。この後どうするのか。ご飯は食べたのか。居間は寒くないか。

 ん?待てよ、彼女の事しか考えてない。いかんいかん。

 身体が温まってきたせいか、先程まで身動きの取れなかった脳がフル回転している。

 今の自分が1番知りたい事を順番に頭の中に浮かべているのだ。

 もっと大事な事があったはずだ。

 今までの自分、これからの自分…

 あれ?これくらいしか出てこないのか?

 それは、であって、それ以上もそれ以下もない。自分にとって大切なのは、今までの自分をもっと知り、これからの自分をどう変えていくか。具体的にどう変わるかは、おそらく考えても出てこない。過去の自分と結ばれている糸が、これからの生き方一つ一つが僕を変える手綱となる。細い糸も、切れそうだった糸も、絡まり合う事で、これからの僕が生きた証になる。

 何を目標にするわけではない。ただ一つ言えるのは。

 もう自分を殺さない事。


 どのくらいシャワーを浴びただろうか。身体の芯からは温まっていないが、手足の感覚はかなり戻った。

 僕は蛇口を閉めてシャワーを止めた。濡れたシャンプーボトルの先から雫がしたたる。

 僕は脱衣所への扉を開けると、お風呂場の湯気が、一気に脱衣所へ流れ出た。脱衣所はかなり寒い。それを流れでた湯気が微かに温める。

 濡れた身体を拭き、用意したジャージに着替え、髪を乾かす前に彼女のいる居間へと向かう。


「お待たせしましたぁ…」


彼女は、僕の正面にあるソファに腰掛け、じっと、窓の外を眺めていた。

 まだ部屋も暖まっておらず、寒いせいか彼女は、膝と膝をくっつけて擦り合わせている。

 彼女は僕が戻ってきたのを見るなり、手の平を上にしそれを差し出した。


「30万でいいよ。」


 今、鏡を覗けば、おそらく目が点であろう。

 彼女の笑いもしないその口調からはである事が窺える。

 乾き切っていない髪が元気をなくし、先程までフル回転だった脳が凍りついた。




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