第2話 ガラス
見知らぬ女性、初めて交わす言葉、僕は疑問を覚えた。
周りには誰もいない。海に取り残された僕1人。彼女は穏やかな言葉を僕に向けた。とても小さい声だった。波の音に消されそうで、潮風によって乱れ、流されてしまいそうなその声は、僕の冷え切った耳に届いた。
「あなた、死にたいの?」
頭の中で先程の言葉の意味を整理してると、冷気をも
おそらく自ら命を絶とうとしている事は察しているはず。なのに彼女が投げかけたその言葉…到底、僕を助ける為に、それと自ら命を絶とうとしている人に放つ言葉ではない。
「…。」
僕は何も返さなかった。僕は彼女の瞳から素早く目を逸らすと、強く唇を噛んだ。
「何も言わないのね。何か言わないと、私には君が何をしているのか、なんでそんなところに立ってるのか、わならないわよ?」
それは嘘だ。彼女はもうわかっているはずだ。
揃えられた靴に、太ももまで浸かっている身体、この寒い中、服のまま海に入ろうとする人なんていない。
僕は彼女の瞳を再度見る。鋭い目付き、その目には時間をも奪う様な力がこもっている。
彼女の瞬きがはっきりと見える。いよいよ僕の体力も限界だ。
長い時間、海に入っている訳ではないが、濡れた衣服に凍る様な潮風が当たり、僕の体温を奪っている。
「あぁそう。帽子が風で飛んで海に流されたのね。それで取りに行こうと海に入ってたんだぁ。あぁなるほど。」
声色一つ変えずに、笑いもしないぎこちない演技。何を言ってるんだ?帽子なんて被ってこなかったし、どこにも落ちていない。
「もし、あなたが無くした帽子を探しにいくなら止めない。でも、私の前ではいかないでほしい。あなたが幽霊にでもなって、最期を見た私に取り憑いたりしたらどうするの?」
自分勝手な発言だった。
「からかいに来たならやめてくれ!」
この場合、やめてくれではなく、帰ってくれのはずだったが、追いつかない思考に震える唇、自分の言葉さえ勢いでしか話せなかった。
それに加え、初めて会う人に怒鳴るなんて、生まれてから一度も無かった。怒鳴つもりでもなかったが、彼女の歪んだ感情に対し、僕の感情は抑え込めなかった。
彼女は表情一つ変えない。
「そんなんだと、成仏できないわよ?」
僕の死後を心配しているのだろうか。いや、心配なんてしているはずがない。彼女の最初の一言を除くと、その性格はあからさまだ。
「成仏出来る出来ないは、あんたに関係ないだろ。」
「ある。」
即答だった。今、初めて会ったばかりで、何を根拠に返事ができるんだ?
僕の困惑は深まる一方だった。
「死にたがっている人が目の前にいて、それが関係ない?生きたくても生きられない人達は沢山いる。貴方は自分の命の重みを理解している?貴方は他人の死を理解できてる?貴方は…」
掛けられた手錠を、急に解かれた気分だった。
「それでも自分を殺すの?」
彼女は間違っていない。伝える言動は意味不明だが、僕を助けようとしているのではないか?でなければ僕に真正面から向き合ったりしない。
小学生の時に友達と喧嘩をした時のような感覚。
どちらも悪いはずなのに先に泣いた友達は被害者、泣かせた僕は加害者。理不尽にも先生から怒られるのは僕1人。
虫の居所が悪い。
今、僕の感情はそれに当てはまる。言い訳しても先生は聞いてくれないだろう。
命の重み、わかっていたはずだ。人は簡単に死ぬが、簡単に死んではいけない事を。
「貴方は死にたいんじゃない、寂しいだけ。」
「…。」
沈黙が続く。僕は何も返せない。図星なのかもしれない。自分の感情さえ、どうでもよくなった時だった。
彼女は海に一歩踏み出した。また一歩、ニ歩と踏み出し、僕との距離を詰めてくる。迫る波が彼女をこさせまいと、必死に食い止めているように感じる。
彼女は止まらない。
何の躊躇もなく歩み寄る。彼女の長いブーツの口が、水面近くまでくると、その足を止めた。
彼女は花を持つ右手とは反対の左手を、そっとジャンバーのポケットから出し、それを僕に差し伸べた。
「探しものを見つける為に、海に戻るならそれもいい。その場合私はここを立ち去る。立ち去った後で探しに行って。もしも迷いがあるなら探すのはまた今度でいいんじゃないかな?」
また今度。
その瞬間、死というものが遠のいた。ついさっきまで、彼女が躊躇なく歩いてきたように、僕に迷いはなかった。
自分からこの世を去る覚悟をして、それを止められ、今度は死におじけづいている。
ただほんの少し、救われた気がした。
真正面から僕に向き合い、僕が自分を殺す事を否定する彼女に対して、不思議な感情が芽生えた。
「僕はただ…死が嫌だった。死が嫌で、でも死には勝てない、死はいずれ来る。僕はそれに抗いたかった。」
「死に選ばれる前に、僕は死を選んだだけ…でも…」
それはこの数分の間にでた結論だった。違う、結果だ。2年間掛けて答えをだしたが、その2年をこの数分の出来事が僕を変えた。
「
まるで誘導尋問させられているようだった。彼女は既に結末を知っているかのように、その
僕は目をつむって、夜の空を見上げた。押し殺す涙が出て溢れてくる。
「じゃあ…」
僕は夜の空から彼女に目を移した。彼女は手を差し伸べ続けている。
彼女の顔を見るなり、僕は泣きだした。
涙で前が見えない。
ただ、はっきりと感じる彼女の瞳と、グローブ越しでも分かる小さな手が僕を導く。
その左手に僕はゆっくりと手を添えた。
バイクの硬いグローブがゴツゴツして、握り心地は良くなかったが、僕はその手に救われた。
彼女は手を引くとそのまま砂浜へと戻る。握られた手につけている指輪の居心地が悪い様に感じた。でもそれは、グローブ越しに伝わる彼女の温もりに溶け込んでいく。
月が2人を照らす中、砂浜を重い足取りで進む。
足の感覚は既に無く、自分で動かすのは難しい。彼女に引っ張って貰えてなければ、今にも倒れそうだ。
先に見える階段ですら、絶望するような高低差を感じる。
彼女はひたすらに歩く。振り返る事なく、僕の手を握り。
その右手には未だ薔薇の花が握られていた。
最悪な出会いだった。
僕は自殺未遂。
そんな彼女は僕を殺す。
それまでの僕を。
これからの僕は、
僕を殺さない。
僕を殺せない出会いだった。
砂浜を歩く途中で、角の取れたガラスの破片が落ちていた。
一度はガラスの瓶だったであろうそれは、砕き割れ、踏めば怪我をする破片となったはずだ。
だがそれは、波に攫われ、角を落とし、踏んでも怪我をしない、誰が見ても綺麗と思える表情となった。
僕はなれるだろうか。
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