靴を揃える、そして彼女は微笑む
soupan
第1話 靴と花と潮風と
雪間に色づきそうな緑が明日に備えて眠る頃、週末の仕事を終え、田畑に囲まれた古家に灯りが灯る。
「今日はエイプリルフールだな。」
日めくりカレンダーを見て独り言を呟きながら、僕は今、耳掃除をしている。
実際、耳掃除をしているので呟いたのは心の中だ。
カチカチと音を鳴らす石油ストーブの前で、溜まった耳垢と戦っている。
家は古く、あちこちから隙間風が入り込んで、僕の体温を下げようとしてくる。寒いのは嫌いなので、スウェットの上からフリースを着て、屋内ではあるがネックウォーマーで首元の寒さを凌いでいる。
このネックウォーマーがあるとないとでは雲泥の差だ。
「よし。終わり。」
っと今度は心の中ではなく、はっきり声に出して耳掃除が終わった事を合図した。
「6時かぁ。」
時計を見ると18時を回ろうとしている。
僕は窓の外に目を向ける。
家の周りには街灯はなく、雲が少ない寒空の
雪こそ降ってはいないが、雲のない夜は寒いのだ。地球の外側に暖められた外気温が放出されるせいだ。その現象の正式名称はわからない。
窓の外を眺めていると、ライトを付けた車が家の前に停まりこちらを照らす。
車のドアを閉める音が聞こえ、やがて足音が近づいてくる。
「ごめんくださーい!」
玄関の戸が開く音と一緒に、元気な女性の声が内戸を震わせた。
僕は「はーい。」っと言ってその場を立ち、耳垢が溜まったティッシュを捨て、声がした玄関へ向かう。
そこには赤いマフラーを巻き、短い髪を耳に掛けた、花束を持った女性が立っていた。
詩織さんは、明るく元気な、お姉さんみたいな人。元気すぎて年上なのか分からなくなる時がある。
「詩織さん、すいません。遅い時間
「ほんとだよぉ。朝は早いし、夜は遅いし!」
詩織さんは怒った表情をしているが、内心、からかっているのがバレバレだ。白い息が立ち込める玄関で彼女の耳が赤いのに気づいた。玄関でも伝わるが、外は割と冷えているらしい。
「すみませんほんと。お代は朝のと合わせて3000円でよかったですか?」
「ただいま、深夜料金が発生しております。料金は6000円でーす。」
「えっ。」
不敵な笑みを浮かべつつ彼女は再度からかってくる。
「うっそー。エイプリルフールでーす。」
彼女はケラケラ笑って花束を渡してきた。整った顔立ちに笑窪が現れる。
本当、憎めないから困る。
「深夜にしてはまだ、早すぎますよ。」
「ゴメンゴメン!冗談だよ!」
僕がムスッとしたせいか、すぐに謝ってくる。
「では3000円ですね。」
彼女は「ありがとうございます!」っと明るい笑顔で、僕からお代を受け取ると、右手で僕の肩を叩いてきた。
「もっと元気を出さないと!明日もやってけないぞ!」
いつものことながら喝を入れてきた。
「明日仕事は休みですよ。」
彼女が明るすぎて、僕は自然に笑いながら答えた。
「なら明日も仕事しよう!」
「やです。」
彼女はその一言でしょんぼりしたがまたすぐに、
「じゃあ来週だね!」
先程までのしょんぼりした姿から、元の明るい彼女に戻っていた。
立ち直りが早すぎる。
「ええ、来週がきたら頑張りますよ。」
彼女は少し疑問気に首を傾げたが、すぐに右手の親指を上に立て、拳を出して「グッチョブ!」っと満面の笑みで答えた。
「詩織さん、
僕は朝早くに花束を持ってきてくれた事、詩織さんの勤務時間外に花束を持ってきてくれた事にお礼をした。
「お礼なんていいよぉ。こちらこそいつもありがとね黒瀬君。」
彼女は「じゃぁねぇ!」っと笑顔で、手を振りながら玄関を出た。
僕も手を振り返し、玄関が閉まるのを確認すると、居間に向かい、花束を机の上に置いた。
この辺で花屋さんは詩織さんが経営している「
置いた花束を見詰めながら深く深呼吸をした。
「さぁ準備するか。」
髭を剃り、仕事で汚れた身体を洗う為シャワーを浴び、1番お気に入りの服を着て、髪型を整えた。髪はこの前、美容室で購入した、金木犀(きんもくせい)の香りがするワックスで整えた。髪型を整えることなんて滅多にないので、いつも変な髪型になってしまう。
髪型を整えたのか乱したのか、それを終えると左手の薬指に指輪をして、先ほど受け取った花束を持ち、靴を履いて外へ出ようとした。
「あ、爪切ってねぇ。」
靴まで履いてしまったので、爪を切るか玄関口で迷った挙句、切らないとモヤモヤしそうな気がしてならなかったので、履いた靴を脱ぎ、きちんと揃え、花束も、置いてあった机に置き、爪を切りに石油ストーブのある居間へ戻った。
すると、石油ストーブが燃えている事に気づき、ハッとした。
「危な、ストーブ消すのも忘れてた。」
爪を切りに戻った自分へ感心した。この場合、感心より呆れるのが本当なのだろうが、今は自分に感謝だ。家を出た後、火事になっていたら大変だ。
少しだけ石油ストーブに爪を近づけて、切るところを柔らかくしてから切るのが、寒い時の爪の切り方。こうする事で、すんなり爪が切れるのだ。多分…
爪を切り終え、今度は石油ストーブを消した事を確認すると、僕が握ったせいで持ち手がクシャクシャになった花束を手に取り、揃えた靴に足を通し、車へ向かった。
僕の車は、田舎の町ではかなり目立つオレンジ色のオープンカーだ。まぁこの寒い時期に車の屋根を開けて走るのは、かなりの変人としか思われないので屋根は閉じたまま走らせる。
エンジンを掛け、車の時計を見ると19時03分と表示されている。
「時計ずれてるじゃん」
持っているケータイの時刻と照らし合わせながら、車の時計を調整した。たった2分しか変わらなかったが、爪を切り忘れた時同様、モヤモヤする感じが鬱陶しかったので調整するしかなかった。
いつからこんなに神経質になったのか僕自身、分からない。
いや、分かっているはずだ…
仕事終わりということもあり、いろいろ準備をした事で疲れ切ってしまったが、車で目的地に向かう事にした。
今日が終われば明日
マニュアル車なので、1速にギアを入れ車を発進させ、2速、3速と、ギアを上げていく。スタッドレスタイヤが乾いた路面をゴーっと唸らせているのが分かる。
辺りは、右を見ると住宅地、左を見ると、ちらほら雪が残っている田んぼ、その間の田舎道を颯爽と駆け抜ける。
道路に雪は積もっておらず、凍ってもいなかった。
多分、融雪剤を撒いているおかげだろう。かといってスピードを出しすぎると危ないので、安全運転で目的地へ向かう。
車であれば10分〜15分の場所だ。
田舎は都会と違い、バス、電車は1時間に一本。なので車がないと移動するのに苦労する。スーパーにいくにしても、コンビニにいくにしても、到底歩いていける距離ではない。
田舎には車は必要不可欠の存在だ。
信号待ちをしていると、最近観た映画の主題歌がスピーカーから流れ始めた。一人で観に行って、独りで感動した映画だった。
あんな風に綺麗な終わり方ができる人生が、羨ましくも思つ映画だった。
車の暖房が暖かい風を車内に送り、僅かだが髪に付けたワックスが金木犀の香りを漂わせる中、目的地に到着した。
海だ。
駐車場に停めて、エンジンを止める。
運転席を開け車から出ると、まずタバコに火を着ける。
この時期タバコを吸うと、煙を吐いた後でも永遠に白い息が出てきてしまうので、煙を吐き切ったかわからなくなる。
タバコを吸いながら特にすることもなく、空を見上げる。
雲があまりない夜空に浮かぶのは、春の訪れと共に溶けてしまいそうな、雪のような星と、僕をいつまでも照らしてくれる月があった。
「今日は月が綺麗に見えるなぁ…」
そんな事を言い、空に浮かぶ月に向かってタバコの煙を吐いた。タバコの煙が月を覆ったと思うと、煙はすぐ風で流されてしまった。
つい先ほど耳掃除をした僕の耳は、いつ建ったかわからない風力発電の、ウォーンウォーンと、風を切る音と共に、波打つ荒れた海の声、遠くの方ではバイクが走る音を聴いていた。
「この季節にバイクとか、どうかしてるよ。」
こんな季節に海にきている自分もどうかと思う。
海には地元の警察が見回りにやってくるのだが、この季節に白バイに乗ってくる警察は、まずいないので安心した。
タバコを吸い終え、車の中にある灰皿に吸い殻を捨て、花束を持って、駐車場から真っ直ぐ海へと歩いた。
駐車場から砂浜の間には、階段がある。1歩ではまたげない、幅の広い階段だ。階段を降りるとやがて砂浜が広がる。
砂浜は寒いせいか、夏場に踏む砂の感覚とは違い固く感じる。砂が一粒一粒くっつき合っているようだ。
この時期、砂浜は一面ゴミだらけだ。ゴミのほとんどは、漂流してくるペットボトルや空き瓶、漁業で使われるような『浮』のような物で散乱している。中にはハングル文字の物もあったりする。
海開きの前になると、町でクリーンアップをして綺麗になるのだが、さすがに一人でこの量は拾いきれないので見て見ぬふりをした。
砂浜を歩く中、靴に砂が入ってくるのが気になっていたがそのまま波打ち際まで来て立ち止まった。
荒れた海は、真夏の表情とは打って変わって、その荒々しさを物語っている。
風が強く冷たい。ワックスで整えた髪も潮風には勝てず、更に乱れる。もう金木犀の香りは残っておらず、代わりに磯の香りが全身を包み込んだ。
「遅くなってゴメン。」
僕は誰もいない海に向かってそう言うと、持っていた花束の包装を解き、花だけを砂浜へと置いた。
包装はジャンバーのポケットに入れ、置いた花を見つめた後、荒れた海を眺めた。
「この前髪を切ったよ。秋元さんのとこで。今着けてるワックスもそこで買ったよ。金木犀の香りがするんだ。」
もう周りに広がる音は何も聞こえなかった。自分の話す言葉一つ一つが脳内に響き渡ると同時に、彼女の事を頭に思い浮かべた。
「よく2人で髪を切りにいったよね、
2年前の今日、妻を亡くした。
地元の自動車専用道路は一車線のところが多い。夏音は買い物の帰り、いつもは使わない自動車専用道路を使って帰宅しようとしたが、家には辿り着かなかった。
反対車線ではなく、同じ車線から対向車が正面から突っ込んできた。
雨だったこともあり、車もあまり走っておらず、単独で走っていた夏音の車を正面から潰した。
対向車の運転手も、夏音も即死だった。
突っ込んできた運転手は、知っている男性だった。運転免許証を返納したと聞いていたが、その後も車を運転していたらしく、認知症なのか、ボケが酷かったのか、自動車専用道路の入り口ではなく、出口から進入したらしい。
自動車専用道路は料金所がない。その為、誰にも止めることはできなかった。
僕は独り、涙を流した。流した涙は頬をつたい、僕の顔から体温を奪った。
水平線に見える闇、荒々しく怒る波、凍るような冷たい風、その全てが僕を独りにさせているように感じた。
ここは夏音との思い出の場所。自動車専用道路に花束を置きに行くのは難しい為、去年もここへと来た。
夏音とくるこの海は、その全てが僕らを祝福してくれているような優しさがあった。
高くない波が太陽を映してキラキラと輝く。足を入れると、指と指の間に砂が流れ込んで、くすぐってくる。海の家では熱くなった身体を内側から冷やしてくれるかき氷。
全てが幸せに感じる場所。
そんな幸せは、もう無い。
今ここにあるのは、2年間苦しんだ抜け殻のような独りの魂。
「もういいと思うんだ。この2年が苦しくて、夏音との楽しい思い出も、全て消えてしまいそうなんだ。」
それは思い出の上書きだった。楽しい思い出よりも苦しみが勝った結果だ。
残酷にも答えてくれるのは波の音だけ。荒れた海の先を見つめ、先程まで僕を照らしていた月が雲に隠れてしまい、僕を独りにした。
「…」
もう、何も言うことは無かった。
夏音もきっと言わずともわかっている。
僕は履いていた靴を脱いで、供えた花の横に綺麗に並べた。
僕は荒れた海に向かって歩いた。靴下を濡らし、履いていたズボンも足首からジワジワ濡れていく。
ひどく冷たい。
波がいったりきたりするので、何度もその冷たさを実感する。
冷たさに慣れるくらいになると、海は温かく感じる。
進むにつれ、君に近づいている気がする…
左手の薬指の指輪が締め付けてくるのを感じた。
あぁ、僕はここで死ぬんだ。夏音との思い出の場所で。
君に逢う為に、身だしなみを整えてきた、指輪も忘れずに身に付けた。靴はきちんと揃えてきた。
君がいなくなって、1人で料理を作った、洗濯も掃除もした。
なんでも、できるようになったよ。
だから…帰ってきてとは言わない。
僕がいくから。
太もも辺りの深さまで歩いた時だった、僕の脚は潮が引いていく方向とは逆に、引っ張られたきがした。
海とは逆の砂浜へと。
その時ある事に気がついた。後ろから何かに照らされていると。月ではない。上からではなく、後ろからだ。
僕は思わず振り返った。そこには、こちらを照らすライトの光があった。
今まで無我夢中で海へと進んで気が付かなかったが、ライトの光と判断すると、聞き逃していた音にが耳に入る。
バイクのエンジン音だ。
タバコを吸っていた時に聞こえた、単気筒のバイクのエンジン音。
まさか警察、いや警察が、単気筒の白バイを乗っている話なんて聞いたことがない。
だとすると誰だ。だが誰にしたってまずい。見られた。
バイクの持ち主は、エンジンを止めた。
僕を照らしていたライトは消え、その暗闇を見るにはまだ目が慣れてはいなかったが、ヘルメットを脱ぎこちらを見ているのが、シルエットだけでもわかった。
僕はどうしたらいいか分からなくなり、振り返ったままの状態でバイクの方を、ただ見ることしかできなかった。
視界に入ってきたのは、置いた場所から少し風に飛ばされた花と、僕の身体にぶつかり、宙をまう水しぶき。
我に返ったせいか、海に向かって歩いている時に感じなかった、海水の冷たさと、痛みが僕の足を襲う。
太ももまでしか浸かっていなかったが、この荒れた波だ、全身が海水によって濡れている。
身体が動かない。あまりの寒さからではない、恐怖心からでもない。ただそこにいるバイクの持ち主が気になって、目が離せない。
その人は幅の広い階段を下り、こちらへゆっくり近づいてくる。かすかに見えたのは、両手はジャンバーのポケットに突っ込み、首元には長めのマフラーが揺れているのが
そして、潮風によって
その情報から、3つの答えがでた。
警察ではない事。知り合いではないこと。その人は、女性だという事。
もし警察だったら懐中電灯を片手に、もっと駆け足で、「何してる!」っと叫んで近寄ってくる。
もし知り合いなら僕の車を見た後、海の中にいる僕を見つけると、警察同様、駆け寄ってくるはず。
そして髪の長さ。あの長い髪はおそらく女性である証拠。
そんな事を頭の中で考えていると、得体の知れないその存在に恐怖を覚えた。
何故そんなに優雅に歩いていられる?この時期に海に人が入ってるんだぞ。実はライトで照らされたが、あちらからでは見えなかったのか?
だが今の僕の思考ではここまでだ。寒さからか、もう考えは浮かばない。
ゆっくりと歩くその女性は風で飛ばされた花の前までくると、一輪の花をバイクのグローブ越しに手に取った。
花束の花にはいろんな種類の花があった。その中から彼女が手にしたのはおそらく薔薇だ。よく見えずともシルエットが薔薇のような形をしていた。
気がつくと、雲に隠れていた月が顔を出し、僕と、女性の顔をはっきりと照らした。
知らない顔。この辺りでは見たことがない。綺麗な鼻筋。おそらく色白のその頬は、寒さのせいか、赤く染まっている。口元はマフラーで覆っているので見えない。
それよりも、1番印象に残ったのは、瞳だ。
こちらを睨み、全てを見透かすかの様なその瞳には、怒りさえ感じた。誰に睨まれても、この人には敵わないと思わせるその瞳は、真っ直ぐに僕を見つめている。
荒波が僕の背中を叩く中、潮風は僕らを揺らし、夜を照らす月は、漂流した空き瓶にさえ反射し、彼女の後ろで輝きを放つ。
僕は顔にかかった海水を左腕の裾で拭うと、一瞬視界に入った指輪が輝きやいたように見えた。
今ここにいるのは、僕と彼女だけ。
彼女は花を持った方の手で口元のマフラーを掴み、それを顎の下まで下げると、乾いた唇を動かした。
「こんなところで、さよならは嫌だよね。」
僕は彼女の言葉を聴き、冷たい潮風と共に深く息を吸った。
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