Side:アヤカ

「ハル、私また振られちゃった…。」


 玄関を開けるなり、ジャケットも脱がずバッグを肩にかけたままハルに飛びついた。


「浮気されてたの。私は重いし面倒なんだって…言われて…」


 そこまで喋って、目から涙が零れた。水の粒が頬を伝い、ハルの顔にボタボタと落ちていく。


「なんで私いつもこうなんだろう。いろんなこと、一生懸命やってるつもりなのに上手くいかないの。今回だって、彼のために頑張ってたんだけど、それがいけなかったのかな?それが重かったのかな?もうどうしたらいいのか分からないよ…。」


 視界が涙でぼやけ、喉の奥がツンと痛い。

 こらえきれず、嗚咽が漏れる。

 今日は仕事を早めに切りあげ、彼氏とデートをする予定だったから、いつもよりメイクに気合を入れていた。

 アイラインをしっかり引き、繊維入りのマスカラを多めに重ね塗りしたものだから、きっと今の私の顔はひどいことになっているだろう。


 ハルに抱きついたまま、しばらく泣き続けた。


「ハル、ありがとう。いつもそばにいてくれて。ハルが居なかったら私とっくにダメになってたと思う。」


 泣いて少し落ち着いてきた。

 ハルのことを一度ぎゅっと強く抱きしめて、着替えをとりにクローゼットへ向かった。


 泣き腫らした目をそのままにしていたら、明日の朝が大変だ。むくんでしまわないようにお風呂でしっかりとマッサージをしないと…。


 彼氏に別れを告げられ、ついさっきまでこの世の終わりのように泣いていたというのに信じられないが、すでに悲しみが薄れつつある。

 辛い気持ちはまだ残っているものの、明日の自分の顔を心配するほどの余裕はあるようだ。

 ハルのおかげだ。ハルはいつも、私の辛い気持ちを軽くしてくれる。


「じゃあ、お風呂入ってくるね。今日はシャワーで済ませちゃうからすぐに戻る、待っててねハル。」


 お気に入りのクッションの上でしっぽを振っているハルに声をかけ、脱衣所へ向かった。


 ハルとは、もう七年ほどの付き合いになる。

 大学三年生になってすぐ、バイト先の先輩の家で飼っている犬が子犬を三匹産んだという話を聞いた。

 一匹はすでに結婚している先輩の姉に、別の一匹は先輩の母親の友人に譲るという事だったが、最後の一匹の貰い手がまだ決まっていないのだという。

「見つからなければうちで飼うつもりなんだけどね。すでに二匹いるから誰か大事にしてくれる人がいるなら…」と先輩が子犬の写真を見せてくれた。


 くりっとした丸い目に、ふさふさの柔らかそうな薄茶の毛。ピンク色の丸いクッションの上にちょこんと座ってこちらを見ている。かわいい…。どうしよう、一目惚れかもしれない。


「すごくかわいいです!これ、何犬ですか?」

「雑種なんだ。両親とも雑種だけど二匹とも小型だから、この子もあまり大きくはならないと思うよ。」


 今住んでいる部屋は確か、ペット要相談となっている物件だった。管理会社に確認してみよう。


「あの、この子ぜひうちに来てもらいたいんですけど、一応管理会社に聞いてみてからでもいいですか?」

「え、もちろん!オッケーだったら教えてよ。」


 帰宅後、カラーボックスの中に無造作に突っ込んであるファイルを取り出し、賃貸契約についての書類を探す。

 あった。管理会社の住所と電話番号、問い合わせ受付時間が記載してある。時計を見ると受付時間ギリギリだったので、急いで電話をかけた。

 プルッとコール音が鳴り、すぐに女性が電話口に出た。

 住所と氏名を伝え、借りている部屋で犬を飼ってもいいかと尋ねたところ、小型犬であれば問題ないとの回答だったのですぐに先輩に連絡した。


 そうして、一目惚れしたあの子が我が家に来ることになった。お気に入りの丸いピンクのクッションも一緒に。

 春にやって来たから、名前はハル。

 それからずっと、私とハルはどんなときも一緒にいた。どんなことも打ち明けてきた。


 試験でいい評価を貰えたらハルに報告して喜んだし、バイトでミスをした時はハルを抱きしめて愚痴をこぼしたりした。

 就活が本格的に始まり心が折れそうになった時もあったが、ハルがいてくれたから踏ん張り頑張ることができた。

 第一志望のメーカー企業から最終選考結果を知らせる電話がかかってきたときはあまりの緊張で訳が分からなくなり、取り乱してハルを電話に出させようとした気がするがよく覚えていない。電話口で合格の旨を伝えられた後のことはもっと覚えていない。


 私は本当に男を見る目がないとつくづく思う。

 恋愛体質であるという自覚があり、常に好きな人を作りドキドキしていないと落ち着かない、人生を無駄にしているような気がしてしまうのだと、いつだったかハルに話したことがある。


 沢山の男を好きになり、付き合い、その度に泣かされてきたはずなのに、また同じようなダメ男を好きになり泣いてしまう。

 そしてその度、ハルを抱きしめる。


 ハルを抱きしめて泣いていると、ハルはいつも私を慰めてくれる。

 私の頬や手の甲を優しく舐めたり、柔らかい毛をすりすりと擦り付けてきたりする。

 そんな時は不思議と、ハルの声が聞こえてくるような気がするのだ。


 ―アヤカ、また泣いてるの?

 ―本当に男を見る目がないんだから。

 ―あまり頑張りすぎないで。


 ありがとうハル。

 嫌な事や辛いことが続いても腐らずにいられるのも、傷心してもすぐに立ち直ることができるのも、全部ハルのおかげ。

 ハルと私は、同じ言葉を使って喋ることはできないけれど、ハルの言葉はちゃんと私に届いているよ。


 濡れた髪をタオルで拭きながら、脱衣所のドアを開ける。

 ハルはテーブルに広げたままにしていた雑誌の温泉特集のページを見ていた。


「ハルただいまー。あ、温泉特集見てたの?いいよねー、ハルと一緒にそのうち行きたいな。こことかよさそうじゃない?」


 ハルの柔らかくて小さな頭を撫でる。


「よし、だいぶスッキリしたしちょっとやるか。」


 タオルを肩にかけたままテーブルの前に座り、ハルを膝の上に乗せた。

 雑誌を隅に寄せてノートパソコンを開く。


「大事な企画会議が近いからね、そろそろ資料もまとめておかないと…。」


 パチパチとキーボードを叩く音がワンルームの部屋に響く。


 第一志望だった企業に新卒で入社し、早いものでもう五年になる。

 今ではそれなりに大きな企画にも関わらせてもらえることが増えた。自分の仕事を評価してもらえるのは素直に嬉しい。


 適当なことはしたくない、その時の自分のベストを尽くしたい、と常に思っている。

 仕事に関しても、恋愛に関しても。


 頑張りすぎて空回りしてしまったり、上手くいかなくて落ち込むことも少なくないが、そんな私にいつも寄り添ってくれるハルのことが私は本当に大好きなのだ。


「よし、これくらいでいいかな。はー、髪乾かしてもう寝よ。」


 一時間ほど仕事をし、ノートパソコンをパタンと閉じて脱衣所へ向かった。

 ドライヤーの電源を入れて温風を髪に当てるが、すぐに乾かし終えてしまった。

 しまった、自然乾燥は髪に悪い。気を付けないと。


「ハル、今日は一緒に寝ようか。おいで。」


 部屋に戻り、ハルに向かって大きく両手を広げる。

 ハルが私の胸に飛び込んできて、そのまま一緒にベッドに倒れた。


「あーあ、私ハルと結婚したい!私の失恋話や仕事の愚痴を嫌な顔せず聞いてくれて、いつも私の味方で、いつも一緒にいてくれて、優しくて可愛くてもう最高の恋人だよー!あ、でもハルは女の子か。」


 ハルに愛の告白をし、枕元のリモコンで部屋の電気を消す。


 あーあ、もしもハルが人間の男の子だったら、絶対ハルと結婚するのに。

 ハルみたいな人、どこかにいないかなあ。


 ふと、ハルがいなくなってしまったらどうしようという不安に襲われた。心の奥がザワザワする。

 嫌だ、ハル…。ずっと一緒にいて欲しい。ハルをぎゅっと抱きしめる。


「おやすみ、ハル。…ハル、私がおばあちゃんになって死んじゃうまで一緒にいてね…。」


 それが無理なことは分かっている。

 ハルの時間は、私より何倍も早く進んでしまうから、ずっと一緒にはいられない。


 ―アヤカ、傍にいるよ。


 耳元で、ハルの声が聞こえた気がする。

 腕の中にハルの温もりを感じながら、眠りについた。

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アヤカとハル ユウヤミ @yumaxxx

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