第3話 遅れて来た勇者
第一王国アインケル最北の港町ノスタルベルン。その繁華街でも有名な酒場のひとつ魚人のあくび亭に、ある日の昼間、ひとりの男が訪れた。
薄汚れた外套を羽織っているがその下に着こまれた濃紺に金縁の鎧と、背中に背負った王家秘蔵の聖剣を見て彼が誰か分からぬ者はこの国には居ない。
客がざわつくのも構わず男がカウンターに向かって店主に声を掛けた。
「もしかして、最近魔王を名乗る酔狂なやつが来なかったか?」
「こ、これは勇者様……はい、ええ……昨晩……供の女性をふたり連れて……」
勇者が眉間に深いしわを刻む。第四王国フュンファーから大陸の真逆であるノスタルベルンまで仲間を置いてひとり駆けて来た勇者だったが、それでも僅かに間に合わなかったらしい。
「そうか。遅くなってすまなかった。被害は? 建物は無事なようだが……」
魔王が訪れたにしては、酒場の中を見渡す限り目立った損傷もなく血の匂いもない。
「被害……と、言いますと……あの、大変申し上げ難いのですが」
「どうした? 遠慮せずに言ってくれ」
店主の男は勇者の言葉にそれでも逡巡しつつ、おずおずと一枚の紙切れを差し出した。
勇者はそれを手に取って一瞥すると怪訝な表情を店主へと向けた。
「これは?」
「領収書、でございます」
「あ、ああ、それは……見ればわかるんだが」
飲み食いした明細が書かれた領収書。宿泊に一番良い客室も使っているが、それだけだ。そこそこ豪遊しているが桁外れな請求額というほどでもない。
店主は勇者がその領収書に目を通した頃合いを見計らって、非常に言い難そうに説明する。
「それは、魔王の領収書なのです」
「お、おう」
魔王の領収書とはなんとも不可解な響きだな、と見当違いな感想を抱きつつ勇者が頷くと、それに促されるように店主は続けた。
「それで、その、魔王が……支払いは、勇者のツケで頼む、と……」
「は?」
昨晩散々飲み食いした魔王とその一行は、会計の段になってこのように宣った。
『私は
酷い責任転嫁もあったものである。が、一般人でしかない酒場の店主が魔王と渡り合えるはずもない。むしろ下手に刺激すればこんな町ひとつ一夜で滅びかねない。とりあえず魔王の意見に従って事なきを得た店主の判断は間違いではないだろう。
「まあ、店が傾くような金額でもありませんし、ウチとしても諦めていたのですが……ど、どうなのでしょう」
どうなのでしょうと言われても、何故勇者が魔王の無銭飲食のツケを払わなくてはいけないのか。
勇者は返事を保留し眉間を揉んで唸る。
まさか魔王め、勇者のツケと言い張って大陸全土で無銭飲食を繰り返すつもりなのか。どんな嫌がらせだよ!
「わ、わかった」
一度払えば他所で同じことがあっても払わないわけにはいかなくなるが、それでも自分の判断で店に負担を強いるのは憚られた。勇者はそれなりに裕福な持ち合わせから店主に支払いを済ませると領収書を凝視する。
名物の白身魚の煮付けに乳酪を使ったつまみを数点、しかしそれ以上に白葡萄酒の消費が半端ない。
「魔王は、次はどこに行くとかそういう話はしていなかったか?」
店主はしばし首を傾げて、ふと思い当たったように視線を向ける。
「そういえば、せっかくなので産地で本場の物を味わってみたい、とか」
「本場……」
勇者は暫し思考を巡らせる。
魚はここ、ノスタルベルンの港で水揚げされたもの。だとすればこの店のもうひとつの売りである第五王国フュンファーの葡萄酒を求めて旅立ったのだろう。これだけ飲んでいるのだ、まず間違いない。
その中でも葡萄酒の名産地ともなれば候補となる町は限られる。
現地まで魔王はどうやって旅をするのだろうか? 今まで見てきた魔族を参考にするならば、いくら魔王でも疲れ知らずで疾走し続けられる勇者より早く移動出来る可能性は限りなく低い。徒歩は当然、馬車を使っていても俺なら余裕で追い付ける。
「情報提供感謝する」
勇者はそれだけ告げて魚人のあくび亭を出ると、南西方向にある第五王国フュンファーへ向かう街道をひとり走り始めた。
「見てろよ魔王、絶対にただじゃおかないからな!」
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