第49話 晶子と祥子
「ねえ、いつから? 伊集院さんはいつからあたしがあたしだって気づいてたんですか?」
「そうですねぇ、
「あ――、やっぱこんなもの着けるんじゃなかった。あいつらにおだてられた自分がバカだったし」
「でもその凛々しさがよろしくってよ。明日葉さんらしさが出ていますわ」
微笑む伊集院祥子を前にして赤面しながら晶子は顔に着けたマスクを脱いで放り投げようとした。しかしそれを止めたのは伊集院祥子だった。
「お待ちになって。その仮面、捨ててしまうのならばワタクシにくださいな」
晶子が憮然としながら手にしたマスクを伊集院祥子に手渡すと彼女はそれをすぐさま着けて見せた。見慣れた制服姿にベネチアンマスク、そのアンバランスさに晶子はまたもや赤面したが当の本人である伊集院祥子は大満足だった。
「いかがかしら?」
伊集院祥子はそう言って目の前でくるりと回って見せた。それにしても敵地の中でこの余裕、やはりお嬢様には危機感も恐怖感もないのだろうか。呆れた顔で彼女を見る晶子に伊集院祥子はまたもや要望してきた。
「ワタクシに提案があります。これからはワタクシを伊集院ではなく祥子と呼んでくださりませんこと? もちろん私も明日葉さんを晶子さんとお呼びします」
「え、でも……祥子と晶子じゃメチャかぶってるし」
「今ここには二人しかいないのですよ、何か問題でも?」
「う、うん、わ、わかったし、祥子さん」
「祥子でいいですわ」
「でも祥子はあたしをさん付けで呼ぶし相変わらず敬語だし」
「言葉遣いはワタクシのアイデンティティみたいなものです」
それでも戸惑う晶子を前にして祥子はなおも続けた。
「さ、それじゃあ早々に脱出しましょう……と、その前に少々お待ちくださいな」
伊集院祥子はやけに楽しそうに鼻歌をハミングしながら今さっきまで軟禁されていた部屋に向かう。そして戻って来たときその手には清掃用のモップが握られていた。
「こうなったらワタクシも丸腰というわけには参りません。こんなものでもあれば晶子さんの手助けくらいにはなるでしょう」
「言っておくけど祥子、あたしらは戦わないし。安全第一、逃げの一手、これだけは絶対だからね」
「承知ですわ。さあ、晶子さん、いざ鎌倉ですわ」
こうして二人は揃って階段室の鉄扉を開けてこの牙城から脱出せんと非常階段を駆け下りた。
階段室はやけに静かだった。むしろ足音を響かせているは自分たちだ。二人はなるべく音をたてないように足元を気遣った。そろそろ祥子がいないことに気付いたダイモングループが騒ぎ出しているかも知れない、もしかしたら次の扉から追っ手が飛び出してくることもあり得る。晶子は収めたスタンガンをいつでも抜けるようにレザーのベストに手をかけていた。そして祥子もまたモップを握る手に力を込めた。
「晶子さん、ちょっと聞いてもよろしいかしら?」
声を潜めながら伊集院祥子が問いかける。
「ワタクシが白井さんたちに連れて来られたときエントランスでこちらの様子を窺ってましたでしょう。それも男性のスタイルに変装して」
「あ、あれは仕事だから」
「やはりそうでしたか」
「やはりって、なんだし」
「晶子さんのバイトのお話です。飲食店なんてウソ、ほんとうはもっと、そう、とても危険な香りのする、そんなお仕事。そして今のこれもまた、そうですわね?」
「ああ、もう祥子には負けたし。あたしのお兄ちゃんが事故で死んじゃったのはみんなも知ってるでしょ。それを不憫に思ったある人が仕事を紹介してくれてる。それが今の仕事。でも話せるのはここまでだし」
「お話ししてくれて嬉しいですわ。それならワタクシも秘密をお話ししなきゃですわね。実はこれまでもこのようなことはございましたの。でもそれはずっと小さい頃のことでワタクシはほとんど覚えてなくて、父親から聞かされて知ったのですわ」
彼女は伊集院家の一人娘、誘拐やら脅迫やら、これまでもそういうことはあったのだろう。晶子は黙々と階段を下りながら彼女の話に耳を傾けた。
「だから父親の勧めもあって最低限の
「嗜みって、護身術とか?」
「ええ、薙刀と合気道を少々」
そうか、それでモップを持ち出してきたのか。晶子は妙に納得してしまった。しかし祥子の言う「少々」とはかなりの謙遜、おそらくどちらも有段者なのだろう。そしてその自信が余裕となって表れているのだ。
そんな話をしながらもついに二人は一階に到着した。これまでに追っ手も来なければ襲撃されることもなかった。もし何かあるとしたら……先を行く晶子は祥子に振り返ってここからが正念場であることを伝える。
「いい、それじゃあ行くよ」
伊集院祥子は晶子の言葉に力強く頷く。その決意を感じた晶子は一階はエントランス脇へと続く鉄扉のノブに手をかけた。
――*――
九階の一室で伊集院祥子を救出せんとする晶子たちと白井吾郎率いるギャング一味がひと悶着を起こしていたその頃、大門啓介はカジノフロアーを見下ろす、一〇階ラウンジで伊集院会長からの回答を待っていた。彼と差し向いに座るのは白井吾郎、彼もまたお嬢様の拉致という重責を果たした後のグラスを傾けていた。なにしろかわいい一人娘がこちらの手の内にあるのだ、検討の余地などないだろう。二人揃ってそうタカをくくっていたそのときだった、大門啓介のスマートフォンが緊急の通報に震える。それはセキュリティーシステムが自動発信するものだった。
「九階、用具室Aにて異常を確認、侵入者あり」
システムが示すそこは伊集院祥子を軟禁している部屋だった。続いての警告は同じ九階の用具室B、そこは白井吾郎配下の若者を待機させている部屋だ。
「白井君、九階へ急いでください」
大門啓介はほろ酔い気分の白井吾郎にそう命じると続いて手近の黒服にも命じた。
「高峰君はどこですか。彼もすぐに向かわせてください」
すると黒服の一人が大門啓介の前で直立して報告する。
「高峰代行はすでに九階に向かわれてるとのことです。先ほど吾郎さんの手下の一人から代行が来ているとの報告を受けております」
「そうか、それならばそちらは彼に任せよう。君、何人か、そうですねぇ、エレベーターの定員を考えたら八人でいいでしょう、すぐに一階に向かわせなさい」
「一階ですか?」
「そうです。敵もバカではありません、既に逃げ出していることを想定すべきです。先回りして捕らえるのです。いいですか、このビルの敷地から一歩たりとも出さぬように、よいですね」
「はっ、すぐに」
命ぜられた黒服は今一度姿勢を正して返事をすると周囲の黒服とカジノで警備にあたっている何人かにも声をかける。突然のざわつぎに何事かと気にする客たちを尻目に八人の黒服は専用エレベーターに乗り込むとすぐさま一階へと下りて行った。
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