第44話 明日葉晶子の焦燥

 ダイモンエステートビル、それは一見すると何の変哲もないオフィスビルだがその実態は闇カジノと強引なまでの地上げを生業とする半グレ集団の牙城でもあった。夜の九時を回るころにはその大半が酔客と客引きばかりになる新宿は歌舞伎町、その人波に紛れるようにしながら男装した明日葉あしたば晶子しょうこは手にしたファブレットに映し出される映像をひたすら注視していた。それはバニーガールに扮したミエルが着けるチョーカーに仕込まれたカメラが映す光景、衣装のカフスを模した隠しマイクからもリアルタイムでその音声が届けられていた。

 拷問される高英夫こうひでおの叫び声と見世物にされるミエルが漏らす喘ぎにも似た声、そこに割り込む気取った蝶ネクタイに下卑た薄ら笑いの大門啓介、それらはまるで悪夢のようだったが、しかし今の晶子にとっては恐怖や嫌悪よりも怒りの感情がそれに勝っていた。


「道具さえあれば今すぐこの大門とか言うヤツに一発、ううん、二、三発は喰らわせてやるし」


 晶子はガードレールに腰をあずけながらいずれママから発せられるであろう彼らの救出命令をひたすらに待つのだった。



 時刻は夜の九時半、晶子はファブレットを見つめる視界の端にやたらと押し出しの強い煌びやかさを感じた。顔を上げるとそこには磨き上げられたブリティッシュグリーンの車体にパルテノン神殿に倣ったグリル、そのてっぺんには翼を広げて今にも飛び立ちそうなレディーの彫像、この街には不釣り合いなそれは晶子にも見覚えのある超高級車だった。


「この車って、もしかして伊集院さんの……?」


 続いて黒いミニバンもやって来てその真後ろに停車する。あの二台が仲間であろうことは明らかだ。晶子は自分の存在に気付かれぬようハンチング帽をより目深にかぶり直してファブレットで顔を隠すようにしながら様子をうかがう。まずはミニバンからダブついたスウェットウェアを着た四人が降り立ってすぐさまビルのエントランス前に整列した。

 続いて伊集院の高級車、左ハンドルの運転席から降りてきたのは黒いスラックスに白いワイシャツの運転手然とした青年だ。ソフトではあるがリーゼントスタイルのヘアと相まってその目つき顔つきにはアウトローの匂いが感じられた。青年はいつもそうするように後部座席のドアを開けるのではなくその窓を軽くノックする。するとヒップホップ風ファッションの大柄な青年が自分でドアを開けて舗道に降り立った。彼がドアの脇で姿勢を正すと続いて降りてきたのは学校帰りの制服姿でやけに落ち着いた様子の伊集院いじゅういん祥子しょうこだった。その後からも同じくギャング風の青年が、そして助手席からもピアスに金髪の男が続く。

 スタイルは思い思いのバラバラではあるが統制はとれている様子の青年たちが往来の視線から隠すように祥子を取り囲んだ。運転手の青年が金髪ピアスの青年に車のキーを託すと、祥子を取り巻く一団を先導するようにしてダイモンエステートビルへと向かう。途中で運転手だった青年が男装で立つ晶子を気にする素振りを見せたが、それ以上気に留めることもなくビルの中へと消えて行った。

 伊集院の高級車と後続のミニバンが発進合図のウインカーとともに動き出す。それらが夜の歌舞伎町のどこかへ消えていくのを見送った晶子は急いで伊集院祥子を追わんとエントランスの前に立った。


 エントランスホールには二基のエレベーターがあった。しかし彼らはそれとは別の向かって左端の防火扉の前に立つ。運転手だった青年の命令でギャングの一人が突板つきいた張りの扉を開けるとその中は豪奢なシャンデリアによる温かい明りに包まれた赤い絨毯の空間だった。


「あれがカジノに行くための隠し扉だったんだ。さっきミエルが言ってたし」


 晶子は彼らに気付かれまいと、しかしそれでもしっかり目に焼き付けておこうと半身を乗り出して様子をうかがう。すると男たちの隙を見てこちらに視線を送る伊集院祥子と目が合った気がした。しかしそれも束の間、隠し扉はあっけなく閉じられてしまった。

 晶子の動悸が高まる。おそらくいつものあの運転手がダイモングループのスパイなんだ。それで大門の命令で伊集院さんはここに連れてこられた、大門啓介が彼女のお父様、伊集院会長との交渉を有利にするために。これはまさしく誘拐ではないか。

 しかし晶子には疑問が残っていた。それは伊集院祥子のやけに落ち着き払った様子だった。誘拐されたにしてはまるで動じていないのだ。実はそれこそが祥子に叩き込まれた帝王学の賜物であることを今の晶子は知る由もなかった。


「あれってやっぱ拉致とか誘拐とかだよね。伊集院さんは落ち着いてたけど絶対そうだと思うし。でも今のあたしは道具もないし何もできない、取りに行ってるヒマなんてないし。どうしよう、ママ、どうしたらいいの?」


 伊集院祥子だけではない、ミエルも未だ捕らわれたままだ。これからどうすればよいのだ。晶子は為す術の無い今の自分に焦りと苛立ちを覚えるばかりだった。もうママに頼るしかない。ミエルはともかく、少なくともクラスメイトでもある伊集院祥子だけでも助けたい。晶子はポケットからスマートフォンを取り出すと登録されたママの電話番号にタッチした。


「晶子です。ママ、大変なんです」


 焦る晶子を尻目にママは話すら聞くことなく落ち着き払った声で返した。


「ショーコちゃん、今はまだ動いてはダメよ」

「ママ、聞いてください。伊集院さんがダイモンのビルに連れていかれたんです」

「そう」

「そう……って、ママ、あたしのクラスメイトが誘拐されたんです」

「ショーコちゃん、落ち着いてよく聞きなさい。伊集院もそれなりの組織よ、娘がさらわれたことなんてもう把握しているでしょうね。そしてそれなりの手を講じているはず。だからここはあなたの出る幕ではないの。伊集院のことは伊集院にまかせて、あなたはあなたの仕事に集中なさい」

「わかりました……」

「うちは基本お金にならないことはしない。だからミエルちゃんとこう先生のことも静観してるの。でもね、もしどこかから依頼があったなら話は別、そのときはショーコちゃん、あなたにも活躍してもらうことになるわ。だから今は余計なことを考えずに役目を果たしなさい」


 突然の展開に動揺する晶子だったが、ママの最後の一言で彼女の気持ちは少しばかり高揚するのだった。

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