第38話 小さな熊のアミュレット
午後九時三〇分、夜の歌舞伎町に超がつくほどの高級車がやってきた。ブリティッシュグリーンのボディーにしつらえられたクロムメッキのグリルが周囲の光を反射して煌びやかさを演出し、その輝きの上には翼を広げて飛び立たんとするレディーが鎮座していた。
道を往く酔客たちがものめずらしそうに振り返る中、車は止まる。そこはダイモングループの牙城、ダイモンエステートビルのエントランス前だった。後続のミニバンから四人の男たちがかけ降りて正面玄関前に並ぶと続いて左ハンドルの運転席から
彼女が歩道に立つとすぐさま男たちが往来からの視線を避けるように取り囲む。白井吾郎は自分が運転してきた高級車の助手席から降りて来た青年に耳打ちすると手にしていた車のキーを渡した。青年が運転席に乗り込むとそれを合図に後続するミニバンとともにこの街のどこかへと消えていった。
注意深く周囲を気にする吾郎の視界に歩道の片隅でハンチング帽を目深にかぶった青年がやけに大きなスマートフォンを片手にしている姿が映った。
「吾郎さん、どうしたんです?」
ギャング風の一人が吾郎に問いかけるも「いや、なんでもない」と答えたきり皆を先に行かせる。そして吾郎はもう一度歩道を振り返る。しかしそのときにはもう青年の姿はなかった。
「気のせいかな、それとも啓ちゃんが見張りでも立てたのか。いけねぇ、いけねぇ、とにかく今はお嬢さんを送り届けることに全集中だ」
祥子を囲む男たちは吾郎の先導でビルの中へ入っていく。二基のエレベーターが待つホールを横目に彼らは奥の防火扉の前に立つとギャング風のひとりが重たい扉を開ける。するとそこは
「おい、人に見られると困る。さっさと閉めてくれ」
吾郎がそう言うとギャング風は慌てて防火扉を閉じた。しかし閉じてゆく扉から垣間見えるエントランスの向こうからこちらをうかがうハンチング帽の青年の存在に誰一人として気付く者はいなかった、ただひとり、伊集院祥子を除いては。
エレベーターの扉が静かに開くと内部もまたいやらしいほど豪華な演出がされた空間だった。御影石の床と天井には小さなシャンデリアを模した照明、壁もまた大理石張りのこの空間でいったい誰をもてなすのだろう。六人の青年に囲まれながらもまだ余裕のある広さのカゴ内で伊集院祥子は気を紛らわせるためにそんなことを考えていた。
途中に停止階もなくエレベーターは九階に直行した。ダイモンエステートビルの九階、そこには闇カジノがある。しかし彼らはギャンブルに興じる声を遠くに聞きながら今は閉じられている豪奢な扉の前を素通りして、その先にある白いドアの前に立った。吾郎が先に立ってドアノブを捻るとそこにはうって変わって殺風景な景色が広がっていた。
「お嬢さん、すいませんねぇ、こんな粗末な場所で。あとで啓ちゃん……じゃなかった、大門会長がお嬢さんのためにちゃんとした席を設けてくれますので、少しだけ我慢してください」
普通のオフィスビルによくあるドアがいくつも並ぶ廊下の突き当りには、おそらく非常階段であろう誘導灯と鉄扉が見えた。もし逃げるとしたらあそこしかないのだろう。こんな状況でも祥子は冷静に周囲を観察していた。
並ぶドアのひとつを開けるとそこには暗赤色のモケット張りのソファーセットが用意されていた。
「とりあえずここでお待ちください。あとでバーテンに飲みものを用意させます。もしお腹が空いているのなら軽食もあります。それとお嬢さん、すみませんがお荷物はこちらで預からせてもらいます」
スマートフォンも入っている祥子の学生鞄、小さな熊のアクセサリーが揺れるそれを受け取ると吾郎はギャング風のひとりに「丁寧にな」と言いながら手渡した。
「それじゃお嬢さん、またあとで。鍵は開けておきますよ、監禁になってしまうといけませんので。でも連中が隣で待機してますんで、滅多なことはお考えにならないように」
そんな言葉を残して吾郎とギャング風、それにドアの前で手持ち無沙汰そうに待つ若者たちがその部屋を後にした。
――*――
「祥子、お前の鞄にこれを着けておきなさい」
彼女の父、
「わあ、かわいい。お父さま、これはどうされたのですか?」
「お嬢様、このアクセサリーは……」
説明しようとする部下を制するように父は手で言葉を遮ると代わって自らの口で説明を始めた。
「これは発信機、GPSのようなものだ。小さいながらもなかなかの高性能でね、一回の充電で一〇日間は機能するんだ」
「はい……」
突然のことに未だ釈然とない顔の娘を諭すように父はその意味を話した。
「これは護身のためだ。お前には薙刀と合気道の稽古をつけてもらっているが生兵法は怪我の元、むしろ危険だ。だから万一に備えて常にお前の居場所を把握しておこうと考えてな」
「そんな、お父さま、いくらなんでも大げさですわ」
「大げさなものか。これからはそういうことも起こり得るのだ。だから必ず着けておくように。まあ、お守りみたいなものだと思ってくれればいい。それと毎週末には充電しておくことも忘れないようにな」
「承知しましたわ、お父さま」
「祥子、お前は伊集院グループの大事な後継者だ。しかし私にとってはそれ以上にかけがえのないひとり娘なのだ。これも行き過ぎた親心みたいなものだと思って欲しい」
――*――
殺風景な部屋でソファーに身を委ねながら祥子は父の言葉を思い返していた。
なるほど、父の心配は的中してしまったのだ。いや、そうではない、おそらく父はこうなることを想定していたのだ、その上での準備だったのだ。
父が進めている仕事と言えば大規模な再開発だ。そこには昔から忌避された土地があるって言ってたっけ。きっとその土地買収に絡んで大人たちが色々と企んでいて、それに自分も巻き込まれたんだ。それで白井さんは敵が送り込んだスパイ、そういえばさっき啓ちゃんとか会長とか言ってたっけ。それって大門啓介って人のことよね、このビルもダイモンエステートビルだし。きっとプロジェクトの中で伊集院とダイモンがトラブルになったんだわ。
聡明な祥子はすぐに事態の全容を理解した。それは彼女の推理と空想ではあったが当たらずとも遠からずだった。しかしまだ引っかかることがある。それは一階のエントランスでこちらをうかがう青年の存在だった。
さっきのあの人は何だったんだろう。通りがかりや野次馬って感じではなかったしダイモンの関係者とも思えなかった。むしろその逆でこのビルを探っているみたいだったな。
「でもいくら考えても仕方のないことよね。今はとにかくおとなしくしていましょう」
そうつぶやきながら伊集院祥子は肩の力を抜いてソファーでくつろぐのだった。
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