第16話 会長、伊集院祥一

 芥野亜梨砂あくたのありさの死、あの忌まわしい夜から既に数日が経過していた。直後はかなり気持ちが落ち込んでいた晶子だったが、ミエルによるフォローの甲斐もあって今ではすっかり元気を取り戻してママのオフィスで粛々と事務仕事をこなす日々に戻っていた。

 ここでの主な仕事は伝票整理と事務処理、ママが経営する飲食店やテナント管理などなど、その中には彼女にとって思い出したくもないあのコスプレパブも含まれていた。これまではママの指示にしたがって晶子自らが必要な書類を回収していたが、あの夜以降は相庵あいあん警部からの指導もあって少なくとも夜の店々からはこのオフィスにそれらが届けられるようになっていた。


「ママ、伝票の集計と入力が終わりました」

「そう、ご苦労様。今日はもう上がっていいわ」


 晶子は時計を見上げる。


「今日のミエルは道場だっけ。そろそろ終わる頃だし、たまには夕食に誘ってやってもいいし」


 そんなことを思いつつ席を立ったときだった、オフィスのドアの向こうに人の気配を感じた。二人、いや三人か、まもなくノックの音が響く。ママは目配せして帰ろうとする晶子を引き止めた。


「開いてますよ、どうぞお入りくださいな」


 ママの言葉に続いてまず入って来たのはスーツ姿の男だった。三十代半ばと思しき男は銀縁メガネに七三分けという絵にかいたようなサラリーマン風だった。彼のエスコートで入って来たのは仕立てのよいスーツを身に着けた初老の男性、シルクの質感が目立つダブルのジャケットが威厳を感じさせる。最後に入って来たのは三人の中で最も体格がよい、いかにもボディーガード然とした男だった。

 ゆるいくせっ毛をバックにまとめたダブルのスーツの男性がにこやかな笑顔でママに挨拶する。


「アポイントメントも取らずにいきなりの訪問、ご迷惑でしたかな?」


 一見すると低姿勢であるが有無を言わせぬ迫力がその男性にはあった。


「いえいえ理由はどうあれお客様は大歓迎ですわ。ましてやあの伊集院いじゅういんグループの会長様ならばなおのこと……あら、今風にCEOと申した方がよろしかったかしら?」

「ははは、これは一本取られましたな。いかにも私は伊集院建設なる土建業を営んでおります、伊集院祥一いじゅういんしょういちと申します」

「何をおっしゃいます、ご謙遜を。伊集院グループ総帥、この界隈では知らぬ者はおりませんわ」


 ママが晶子にアイサインを送るとすぐにそれを察した晶子が人数分のお茶を準備する。その間にママは伊集院会長と名刺交換して彼をソファーへとエスコートした。

 会長は出された茶に口をつけることもなくすぐに話の本題に入り始めた。


「かねてからママのお噂は耳にしております。そこでひとつご協力いただきたいことがございまして」


 会長はソファーに身を委ねたまま事のあらましを語り始めた。


「単刀直入に申し上げましょう、現在進行中のプロジェクトからある者を排除したいのです」


 会長が傍らに立つ銀縁メガネの男に手を挙げて合図をすると「淵辺ふちべと申します、私から説明をさせていただきます」と言いながらママに資料を手渡した。カラー刷りのそこには引地ひきち地区を含む一帯の地図があった。ブロック分けされたように色分けされているのは既に買収が済んだ物件であろう。中でも黄色でマーキングされたエリアの多さが目立っていた。淵辺が説明を続ける。


「お手元の図をご覧ください、こちらは我々が『第三号未来新都心』と呼ぶ再開発地域の現況図です」

「未来新都心ですって?」


 ママが訝し気な顔で聞き返すも淵辺は顔色ひとつ変えることなく淡々と説明を続けた。


 かつては貧民窟とも呼ばれていた引地ひきち地区一帯にはその出自をカムフラージュするために他所では忌避される施設が多く誘致されていた。そしてそれが現在に至る再開発の遅れにもつながっていた。しかし時は経ちかつての住民も代替わりし、各種施設も老朽化が進み始めている今、都心部最後の再開発地域として注目を浴びているのだった。


「確かにあの辺りは忌み地と呼ばれてたし、いわゆるNIMBYニンビーな物件も集まってたわよねぇ……それが今ではそんな風になっちゃったのね」


 ママは資料に目を落としながら淵辺の話に納得すると、今度はママから質問が発せられた。


「ところでこの地図なんだけど、色が塗ってある部分が買収完了した土地、白いままのところが未着手ってことでいいのね」

「その通りです」

「なるほどね。淵辺さんでしたっけ、お話を続けて頂戴」


 ママに促されて淵辺は再び説明に戻った。

 エリアの北西部に黄色く塗られた一帯がある。それこそがあの引地ひきち地区、大門啓介だいもんけいすけ率いるダイモンエステートが手掛けているエリアだった。他の周辺エリアに比べて権利が複雑に入り組んでいる上、住民たちもまた一癖も二癖もありそうなその地区だけが難航していたが、今ではそのほとんどを大門一派がきれいに取りまとめたのだった。

 そしてここからは伊集院会長が話を引き継ぐ。


「ママにもご経験はお有りかと存じますが、土地が絡む事業にはいろいろと厄介な問題がつきまといます。特にあのような土地柄ではなおさらのこと、それらを難なくまとめあげた大門氏の凄さは想像に難くありません」

「そりゃあ歌舞伎町のデーモンなんて呼ばれてるんだから、蛇の道は蛇ってものでしょう。それに大門啓介は……」

「彼がの地の出であることは今や公然の秘密です。もちろんそれも要因のひとつではありましょう、しかしそれだけであれだけのことを成し遂げられるとは私も考えてはおりません」

「なるほど、清濁の濁の方の話ね」

「大門氏はかなり強引な手法、いわゆるコンプライアンス的に問題があるやり方で地上げを進めているようなのです。そのひとつが闇カジノです」

「いかにもありがちな話ね、闇カジノで負債を負わせてそのカタに、なんて。でもそこまで掴んでいるのなら御社でどうにでもできるのでは?」

「実は恥ずかしながら彼らの裏の動きまでは掴みきれていないのです。それに……」

「天下の伊集院グループがそんなことに関わったと知れたらそれこそスキャンダルですものね。それで会長は御自おんみずからここにいらした」

「さすがです。そこまでご理解いただけているのなら話は早い。とにかく確固たる証拠が欲しいのです、できれば現場を押さえた動画、いえ、写真だけでも構いません」


 そして伊集院会長はようやっと湯呑に口をつけて冷めた茶を口にしながら身を乗り出して声を潜めた。


「彼が主催する闇カジノを探し出しての潜入調査、それをお願いできるのはママ、いえ、秋津あきつ薫子かおるこ嬢、あなたをおいて他にいないのです」

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