『いい、リゼ。いつかリゼの心に生まれた〝焦がれる〟気持ちを大事に育てて』

『〝こがれる〟ってなあに?』

『強く望むこと。叶えたい、近づきたい、識りたいって、強く強く望むこと』

『……むずかしい』

『むずかしいね。それに、ちょっと……ううん、とっても怖いかも』

『……おこったおかあさんよりこわい?』

『あははっ。どうだろうね』

『……』

『……怖いけど、でも……その気持ちはきっと、リゼが迷ったときの道しるべになってくれるから』

『おかあさんは、こがれたの?』

『……焦がれたよ』

『なにに?』

『——』



❈ ❈ ❈



「どんなに叫んだところで外には聞こえねぇ。時間までおとなしくしてろ」

 錆びた格子扉が、悲鳴を上げる。

 窓がひとつもない。地下室だろうか。光源といえば、階段上の扉から漏れ落ちる明かりだけだった。

 肌を這うような独特の湿気。建物に入る前は潮の香りもした。もしかすると、海が近いのかもしれない。

 そういえば、ここへ来るまでの荷馬車の上で、男たちがこんな話をしていた。

『この天気じゃ海が荒れて船は出せねぇな。ひと晩待つか』

『わかりました。それまで倉庫に入れときます』

 天気が悪いと海が荒れる。海が荒れると船が出せない。

 山間の深い渓で生まれ育ったリゼにとって、海は未知の領域だ。想像することすら難しい。けれど、これから自分がどうなるかは、なんとなく想像できる。

 同胞たちが言っていたとおりになるのだ、きっと。

 無造作に積み上げられた木箱、その隙間で、なすすべなく膝を抱える。呼吸をするたび、埃っぽい匂いと冷え冷えとした空気が、リゼの肺を浸食した。

 体が震える。息が詰まる。寒い。苦しい。

 ——つらい。

「……っ」

 信じていた、ランスのことを。

 もちろん、勝手に信じたのは自分だ。信じるに足る根拠もなければ、それだけの時間を共有したわけでもない。彼から逃げてもよかったのだ。そうする隙はじゅうぶんにあったのだから。

 こうなってしまったのは、自業自得というよりほかにない。

 ただ、リゼには、ひとつだけ気になっていることがあった。

『外の世界は、じゅうぶん識れただろ。……ろくでもねぇ』

 あのときの、ランスの表情。

 眉をひそめ、笑って吐き捨てた。まるで、自嘲するかのように。

 はたして、彼の言葉に〝真実〟はなかったのだろうか。彼の言葉に〝嘘〟は存在したのだろうか。


 がしゃ・ん。


 ガラスの割れる派手な音が聞こえるやいなや、とたんに地上が騒がしくなった。

 金属と金属のぶつかる音。次々と何かが倒れる音。怒鳴り声とうめき声が、ぐちゃぐちゃに入り混じる。

 だが、あっという間に喧騒はやみ、誰の声もしなくなった。

 いったい何が……。

 状況を把握するどころか、想像すらできないまま、地下室の扉が開けられた。否、蹴破られた。

 空気が頬をぶつ。

 地上から明かりが降り注ぐ。

 誰かが、階段を降りてくる。

「リゼっ!」

 狭い空間に反響した、自分の名前。

 聞き覚えのある声だった。全身から、さあっと血の気が引いていく。胸の奥がざわつき、顔をこわばらせて身構えた。

 声の主は、ランスだった。

 濡れた前髪をかき上げながら、こちらへと駆け寄ってくる。手には鍵束。そのうちのひとつを選ぶと、素早く解錠し、格子の中に入ってきた。

「大丈夫か? 早くここから出——」

「来ないで……!」


 ざ・しゅっ。


 ひゅっと、ランスが喉を鳴らした。

 だらだらと、ぼたぼたと、彼の足元に滴る真っ赤な鮮血。彼の右腕を伝ってとめどなく流れるそれは、またたく間に床へ小さな血だまりを作った。

 差し出された彼の腕を、リゼはとっさに斬りつけてしまったのだ。彼から渡された、あの美しい短剣で。

 両手を震わせながらも、いまだ短剣をきつく握りしめたままのリゼに、ランスが優しく告げる。

「……っ、正しい使い方だ。そんだけ動けりゃ、大丈夫だな」

「あ……」

 ランスの言葉で、リゼは我に返った。ぱっと、短剣から手を放す。真下へ落ちたそれは、高く硬い音を弾ませながら、湿った床を転がった。

 生まれてはじめて人を傷つけた。肉を裂いた感触が消えない。怖い。こわい。コワイ——。

 顔面蒼白でおののくリゼに、短剣を拾い上げたランスは一転、静かにこう言った。

「もうすぐ新手の連中が集まってくる。……逃げ道は確保した。今すぐ逃げろ」

 再度短剣をランスから受け取る。わけがわからず立ち尽くしていると、彼に手を握られ引っ張られた。

 階段を一気に駆け上がり、地上へ飛び出す。異様な空気が立ちこめる中、道なりに廊下を進めば、そこにはリゼを捕まえた男たちが無惨な姿で倒れていた。

 壁や床に飛散した血、血、血。

 さながら息が凍りつくような恐ろしい光景に、リゼのかんばせは完全に精彩を失った。

「……あ……あ、ぁ……」

「リゼ、俺を見ろ」

 今にも泣き出しそうなリゼの両頬に手をあて、ランスは無理やり視線を奪った。自身の作り出した惨状からリゼの顔を逸らす。相変わらず目つきは鋭いままだったが、その黒瑪瑙には、たしかなぬくもりが宿っていた。

 語調を落としてゆっくりと伝える。

 まるで、親が子を諭すように。

「いいか、よく聞け。そこの割れた窓から真っ直ぐ東へ飛べば、さっきまでいた森がある。森の中で一番明るい建物を探せ。宿屋だ。建物自体少ないから、空からならすぐに見つけられる」

「で、でも……っ、わたし、飛べない」

「飛べる。ちゃんと渓から出てこれたろ。宿屋の主人に、お前をひと晩泊めてくれるよう頼んである。奥さんは有翼人種ウィングドだ。ふたりとも、きっとお前の力になってくれる。……夜が明けたら、渓へ帰れ」

 必要な情報を濾過してこれだけ伝えると、ランスは先ほどの報酬をリゼの胸元に押しつけた。「時間がない」と言わんばかりに、さらに窓のほうへと体を押しやる。腕の皮膚は裂けたまま。今もまだ血が流れている。

 受け取ることを、ランスを残して行くことを、拒むようにかぶりを振ったリゼに、ついにランスが声を張り上げた。

「早く行けっ!!」

 リゼの目から、涙が弾けた。

 視界が滲む。胸がつぶれそうだ。

 咽びたい情動を必死でこらえ、何度も何度もランスのほうを振り返りながら、リゼは飛び立った。純白の翼を精いっぱい広げ、東の空を真っ直ぐ目指して。

 月がぶら下がっている。薄雲をまとい幽遠な光を放つ、下弦の月が。

 雨は、ほとんどやんでいた。



「——いっ、てぇえぇぇ……」

 リゼが見えなくなった直後。

 自身の右腕を押さえながら、ランスは悶絶した。

 我慢してはいたものの、実はかなり痛かった。なんだあの短剣。儀礼用のくせによく切れる。

 家と国を捨てた当時の記憶が蘇り、少々うんざりしたけれど、あの子のためならこの際自身の生い立ちなどどうでもいい。——本望だ。

「……はっ。まだあんなにいやがんのか。どんだけ湧いてくんだよ」

 落ち着いて疼きをこらえる間もなく、腰の剣を抜く。20人くらいだろうか。続々と新顔が集まってきた。

 新顔ばかり……と思いきや、その中には、あのヒグマもいた。

「便利屋……オマエ、オレらを騙したな?」

「騙してねぇだろ。俺は嘘は言ってない。ひと言もな」

「ふざけやがって!! 生きてここから出られると思うなよっ!!」

「るせぇよバカ。それはこっちの台詞だ。俺はとうの昔に正義のミカタごっこからは手を引いたがな……てめぇらだけは許さねぇ。ひとり残らずここでつぶす」

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