探偵は英語ができない。
零
探偵は英語ができない 1
なんてことだ。
僕は今更ながらに頭を抱えそうになった。
容姿端麗、頭脳明晰、傍若無人、少しばかり背は低いがそこが良いとたまに言われる。
実際のそれは議論の余地があるとして、僕を知る人々にとっては、僕はそのような人間にあたることだろう。代々探偵の家系である白夜家に産まれた僕としては、まんざらでもない評価であるとは思っている。
そんな僕が今は困り果てていた。原因はいうまでもなくF国チバ・トウキョウ租界にある迎賓館への道のりに対してだった。
「葉子君。治外法権なのに、なんで僕が行かなければならないんだい?」
当然、文句も口をつく。
「薫ちゃん。お金貰えるからいいじゃない。白夜家の当主争いでも一歩リードするし」
助手の葉子が無碍もない言葉をかけてくる。
「……僕は由緒ある家柄の格式高い探偵だ。前からいっている通り、その名前で呼ぶのはやめてくれまいか」
身長差から、薄いピンクのスーツに張り付いたくびれた腰つきが勝手に目に入る。この女しかいないのか。僕は深く吐息をついた。
こんなことなら、問題はあるにすれ、チームアルファを連れてくれば良かったと深く後悔した。
「もう、そんなの今更変えられるわけないじゃん」
と、葉子。
毎度のことながら、この女に何を頼んでも無駄だ。助手のくせに、いつも自分勝手な判断でしか行動しない。
「しかし、事件の情報がひとつもなく、出向いてこいとは日本警察……警視庁は何を考えているんだ」
突拍子もない依頼に対して、僕はため息をついた。
「しょうがないよ、公的機関が表立って動くわけにはいかないでしょ。さっきも薫ちゃん自らいっていたじゃない。治外法権だって」
葉子は税関の列に並ぶよう僕の身体を前に押し出しながらいった。
「……しかし、入国審査か」
僕はどんよりとした声を出した。
列がどんどん進む度、悪夢を思わせる無機質な白いゲートが目前に近づいてくる。受付らしいカウンターには入国を審査する男の姿。金髪、白い肌、青い目のどこぞの警備員のような制服を着ているだけだが、僕には彼が地獄の門番のように見えた。
「何だって?」
その門番の前に立った僕は尋ねた。
先ほどから、彼は僕にとっての言語たりえない言語――すなわち英語……らしき言語で僕に語りかけてきている。
誤解を生みそうなので先に断っておくが、英語ができないのは僕のせいではない。と心の中だけで、金色の悪魔に対して注釈を入れた。
白夜家の人間には様々な人が羨むような能力がある。だが、それと同時に代々他国の言語が一切話せないという欠陥が子孫に受け継がれている。つまり、遺伝的に名探偵の能力は受け継がれるが、その推理能力と引き換えに、日本語以外の言語能力がからっきしなのだ。これは平安時代の祖先が行ったとある悪行による呪いであるといわれている。ちなみに、知る人ぞ知る日本古来からの名家ということもあり、一族が他国の言語が不得手であることは政府や警察上層部中枢の一部しか知らない。
「パスポートよ、薫ちゃん。それとどこに行くのかってきいているわ」
馬鹿なくせに英語だけはできる葉子の声が僕の背後から聞こえてきた。
そんなことくらいわかっている、葉子君。
僕はふんと鼻を鳴らした。
とはいえ、だ。
どこに行くかといえば簡単で、僕と葉子の行き先は迎賓館だ。そこで殺人事件が起こったらしく、僕たちは日本警察の要請によりそこへ招かれている。
しかし、迎賓とは英語で何だ。あれ、サイトシーンだったっけ? それより、殺人事件の捜査に行くとは何ていえばいいんだ?
目の前が真っ暗になった。
無理せず、ここは、に、日本語を……
そんな誘惑が脳裏を過る。
だが、すぐに首を横に振った。
この税関のこのゲートからはF国となり、チバ・トウキョウ租界のルールが適用される。つまり、日本語で話すことは許されないということだ。
チバ・トウキョウ租界の始まりは、日本人があまりに英語ができないことから、英語を楽しんで習得することを目的として営利目的で造られたアミューズメントパークだった。
創設当初はその理念の通りアミューズメントパーク的な要素が多々あったが、一年も経たないうちに、F国の投資家により、未曾有のデフレ、さらに極端な円安だったせいもあり、千葉の半分から東京の一部を買い叩かれ、その敷地は飛躍的に広がりその目論見はアミューズメントパークのそれから離れていった。
そして、その後しばらく、日本のデフレは進行し、没落の一途をたどり、開場から十年を経過した後、そのアミューズメントパークはF国チバ・トウキョウ租界として日本から分離独立宣言をした。日本国はそれを反論もそぞろに認めた。国力をなくした日本としては抗いようがなくなっていたことが大きな原因となったことはいうまでもない。
日本語はその成り立ちもあったせいか敷地内の公然の場では禁止となった。今では、日本語を話していることが密告されると、逮捕の後長期の禁固刑、最悪の場合は死刑と厳しく処罰される。ちなみに日本人の英語上達が租界成立当初からの目的だったので、他国の言語は問題ないらしい。
いや、そんな今までの経緯なんかより僕が対処しなければならないのは今現在だ、と僕は心の中で頭を振った。
ハーフパンツ型のボトムスから出ている足がガタガタと震える。目の前の金髪の男は引き続き何か話しているが、何をいっているのかひとつもわからない。
後ろは既にざわつき始めていた。
まずい、まずい、まずい、マズイ。
そうだ、まずはトイレに行ったフリでもして、そこで葉子君にカタカナで英語のカンペでも書いてもらおう。そう、この際棒読みでも……
いや、それはダメだ。もう入国審査官を目の前にしているんだぞ。
あれ? 僕は今何分間黙り続けている?
涙で彼の顔が見えない。
失禁しそうなほどお腹が痛くなった。このままでは、僕は……白夜家の本分も果たせず……いや、僕の名誉が……
「はい、もういいわ。行きましょう」
僕の心が終焉へと近づいたその時、葉子の声が目前でした。
背後にいると思ったのだが、いつの間にか前にいたようだ。
手を引かれ、彼女と一緒にエントランスを抜ける。先ほどまでの緊迫が嘘かのように、あっけなく素通りできた。
「もう仕方がないな、薫ちゃんは」
政府の特殊任務ということで、彼女の引率が認められたらしい。
僕が正体不明になっている間、審査官と交渉したそうだ。
葉子はニコニコと笑っていた。明らかに汗と涙で顔中を濡らしている僕の様を楽しんでいるようだった。
こいつは、こうなることを知っていて僕を前に出して……
そう推察した僕は葉子を睨みつけた。
「あら、怖い。そんなブサイクな顔しているとモテないぞ」
ふわりと巻き髪を手で流しながら彼女は不遜な言葉を返してきた。
ワイシャツからこぼれ落ちそうになっている胸の谷間を見せつける。ついでとばかりに、ミニスカートの裾を持ち、チラリとあげた。
まるで彼女のだらしないであろう男性関係を象徴するかのようだった。
「うるさ……」
僕は叫ぼうとした。が、葉子が僕の口をすぐに押さえる。
「ダメ、薫ちゃん。ここからは日本語禁止」
ハッとした。
警備員を含めた複数人がこちらを注目している。このままでは迎賓館にたどり着く前に逮捕されることになる。
そう考えた僕は、急いで税関の建物を抜けた。
ロータリーに出ると、鷹の紋章をあしらった小さな旗がフロントに付いている車が僕たちを待ち構えていた。
その風体から察するに、おそらく公用専用と見られる。葉子にいわれるがままそこに乗り込んだ。運転手がいるので、引き続き日本語を話せるわけではないが、周囲の人間の目から逃れ安堵したせいか、大きな息が腹の底から漏れた。
それも束の間、葉子が汗ばむ僕のワイシャツの袖、つまり腕に胸をひりつけてきた。
「大丈夫よ、私が守ってあ・げ・る」
と耳元で囁いてくる。
「な、何を……」
僕は小声でそう注意した。
が、間髪入れず僕の耳の穴に生温かい息が吹き込まれる。
何をしているんだ、この女。
そう思う前に、運転手がニヤリとサイドミラー越しによく分からない合図を送ってきた。
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