北緒りお

 目が覚めると、手のひらが翼になっていた。

 デメリットばかりで笑えてくる。

 スマホはいじれない、何か食べようにも箸が使えない、風呂に入ったところで髪を乾かす前に翼を乾かさないことにはなにもできない。

 会社は二日ぐらい行くことは行ったが、仕事にならず、上司とたがいに顔を見合わせるような形で休みにしてもらった。

 会社員をしているといっちょ前に何かできるような気がしているが、いったんその土俵から降りて“なにもない人”として街中にいると自分のスッカラカンに対して嫌気がさしてくる。部下なんかも持っていて、指示を出したり育成をしたりしていたが、それだってその土俵の中だけで通用する方言がうまくなったようなものだ。

 休職中だから無職ではないものの、復帰が望めなければそのまま退職となるだろう。

 無職になるまでのモラトリアムをもらったようなものだ。

 はじめの一週間ぐらいは慣れない翼に対していらだってばっかりだったが、それをすぎて改めて冷静になり、元に戻りそうでなければこれであきらめて、翼とどうやっていくかを考えるようになった。

 きっかけは、缶ビールだ。

 憂さ晴らしで酒を飲もうとしても缶ビール一つがあけられない事実と、それへの苛立ちがきっかけだ。

 翼というと、なにやら団扇(うちわ)のように広がりと幅があって、猛暑のさなかだったらハンディファンもいらずに便利だろうとも思うが、力を入れたり動かしたりという“筋肉と骨の部分”はえらく小さい。

 翼で力を入れたり動かしたりできるところは居酒屋で頼む手羽先だ。あれが、少し大きくなったようなもので、いままでの感覚からすると人差し指しかないようなものだ。

 おまけにその指先にも羽は生えているので、つかんだりつまんだりという動作がまったくできない。

 指先というのが、いままでの骨と肉と爪の道具から、生えている羽を動かす為の補佐役になり、なおかつ主役の羽といったら空を飛ぶのには大きさが足りず、机の上をはく羽根ほうきのように使おうにも、自分の体が汚れるような使い方をするのもどうかと考え、暑い日にうちわがわりにするのにちょうどいいものの、これから寒くなろうというところでその必要はなくなりつつある。

 なくなってしまえばまた違うのだろうけれども、なまじ翼がついているばかりにやろうとしてしまう。そして、そのたびにできないことに気がついて腹を立てるのだった。

 翼はというと、痛くもかゆくもない。ただ、軽くなり、手のひらに相当するのだろう部分が、ほのかに暖かくなるとその熱がこもるぐらいだ。

 指先の力が弱くなったのもあるが、それ以上にふわふわの羽毛というのがやっかいな存在で、指先の自由を奪うのはこいつのせいと言い切れるぐらいだ。

 缶ビールに話が戻ると、ふたを開けようにもプルトップがあけられない。ほかの方法であけてみようと思ったところで、羽毛のせいで缶がうまくつかめず、押さえつけるのならばどうにかなるかと思い試したはいいものの、缶全体を羽毛で包むようになってしまい、指があったとしても指をつっこむところがない。

 一人で缶ビールを前にして腹を立てたりしていると、ある程度のいらだちの次元を越えると無になるのを感じた。時計の表示が59分から00分になるように、すとんとゼロになる瞬間を感じた。意味は分からないが、冷静になるわけでもなく、集中するのでもなく、半ばあきらめのように缶を眺める。

 考えることもせず、水滴がついた表面を眺める。きっと、少しぬるくなり、あけたところでおいしくもないだろう缶ビールを眺める。

 もしかしたら虚無というのはこういうものなのかなと思いながら、漠然と見つめていたところではたと気がついた。

 たしか、台所にフォークがある。それも、しまうと出せなくなるなら使いやすいところにいくつか並べてある。

 頭の中にわいてきた漠然とした像に動かされるように、唯一必要なフォークを手にし、ビールをおいてある机に戻る。

 翼の上に載せるようにして持ってきたフォークを持ち直す。というよりは、柄をくわえ、ビールを両方の翼の手のひらに当たるところで両端から押さえつける。プルトップにフォークの先をさしこみ、柄を弧を描くように持ち上げる。

 聞き覚えのある音が聞こえた。

 フォークを動かしているから見えはしないが、ふたで押さえられていたビールが開放され思いっ切り伸びをするかのように、炭酸のガスをわずかな隙間から放出させている。そのガスが鼻先に流れ、透き通っているかのようなさわやかさで苦みを含んだ香りを感じ、そのまま持ち上げたプルトップが全開になり、爪ぐらいの大きさの隙間から、よく透き通った黄金色の波が見えたのだった。

 ビールをあけることができた。

 ぐずぐず考える必要はなかった。やればできた。

 両方でつかんだままの翼はそのままに、フォークを机の上に投げるようにして放ると、缶を持ち上げ一口流し込んだのだった。

 できないことはない。

 なぜか、そう確信した。

 いままでできたことは勝手が完全に変わったのもあり、いままでどおりはできなくなったのには変わりはないが、やりようはある。

 手にしていたビールを一気に流し込むと、次のビールに手を出した。

 冷蔵庫から両手で挟むように持ってきて、机に向かいフォークであける。

 勝手がわかった分だけふたを開けるのもすぐにできるようになった。

 二本めを空にする。三本目に手を出し、空にし、四本、五本と続く。

 いくらでもふたを開けることができる。

 ビールは冷蔵庫にある分を呑みきった。

 呑むのはもういい気きがするが、まだ何かをしたい。

 街にでる。普段呑んでいる飲み屋に行く。

 バーテンダー氏に軽く挨拶をし、両手を怪我したんで、ストローで呑める物をお願いしたいと伝える。

 少しばかりの言葉のキャッチボールをしていると、お願いしていたとおりにストローで呑めるカクテルを出してくれた。

 大きめの長袖のシャツに翼の先まで隠れるように袖を伸ばし、それで無理矢理隠していたのだが、さすがはバーにいるテンダー(やさしさ)を職能としてうたっているバーテンダーらしく、手のことには全く触れずに、出してくれた酒についてのみ話をする。

 酒は、ジントニックをストローで呑みやすくアレンジしてくれたものだが、たしかに呑みやすく、少し呑んではもう一口とやっているうちに空になってしまった。

 三杯ほど呑んだところで、サコッシュに入れておいたクレジットカードで会計をすませると、やや熱を持った額と軽くなった足で外にでる。

 酒が呑める。

 酒すら好きに呑める。

 遊ぼうと思えば、無意識でやっていた手の動きを新しいやり方で上書きしてしまえばどうにかなる!

 とたんに視界が開けた気持ちになった。

 翌朝。

 会社に在籍したままではあるが、基本的に無職であることは代わりはない。

 つまりは、暇を持て余しているのだが、遊べることがわかったとたんに事情が変わる。

 今夜、遊びに行くための用意をしようと考えたのだった。

 指先が使えないから細かいことができない。小銭を出したり、カードを取り出したりというのは絶望的にできない。

 ならば、家で仕込んでいけばいいだけだ。バーでうまく行ったサコッシュから出してやってもらう作戦でいく。

 身分証明書とクレジットカードだけは、ボールチェーンで離れないようにし、あとは、ズタ袋の要領で放り込んでいく。

 スマホは設定を変える。100均でかったスマホ用のペンを引っ張り出し口にくわえて設定をいじり、声で応答するようにする。いままではあるのは知っていたがめんどくさいのでさわっていなかった設定だが、こういう場面で役にたつとは思わなかった。

 遊びに行くといっても、電車に乗ることと支払いさえどうにかなればあとはどうとなる。

 Suicaとキャッシュカードといくらかの現金さえ出し入れできればいい。出し入れできなければ、払えと言っている奴に手伝わせれば用は足りる。

 Suicaは今まで社員証をぶら下げていたリールにぶら下げサコッシュにつけてある。これだけで、移動ができる。

 夕方というか、深夜の入り口ぐらいの時間の渋谷駅は相変わらず人が多い。ハチ公口からセンター街を抜けてクラブへと向かう。

 入るのに必要なのは、身分証とエントランスフィーだけだ。

 受付をやっているセキュリティー兼務だろういかついあんちゃんにサコッシュから身分証とあらかじめ放り込んでおいたエントランスフィーを取り出してもらい、入場する。

 遊べる。

 フロアはまだオープンしたばっかりだからかまだまだ人も少なく、DJブースの近くもフロアの後ろも行き来がしやすい。

 普段はふらふらと酒を飲んで遊んでいるだけだから、なにをするわけでもなく、服といっても特別しゃれた物をきているわけでもない。朝まで遊んで、体力を全部音楽で使い切り、始発近くの電車でうつらうつらしながら帰るのに支障がない程度の服ならばいいだけだ。

 強いて言えば、今日は翼がある。

 スズメみたいに地味な色でも手のひらを広げる要領で羽根を強調するとそこそこ見栄えはする。

 ブラックライトで明るく反射する白系のシャツを着ている。

 しばらくは音楽のテンポもそんなには速くなく、入ってきた客が暖まるように音を浴びせられているような状態だ。

 メインのDJに変わる。

 いままでも十分に盛り上がっていたが、フロアのテンションは一気にあがる。

 高い天井からはスモークが降り注ぎ、レーザーは飛び交い、VJが畳みかけるように繰り返す音とシンクロした映像を眺め、腹に感じる音圧と光の明滅に没頭し、あっという間に小一時間ぐらいは過ぎている。

 盛り上がりの中でフロアが光とリズムの渦になっている中、翼を広げ“楽しい”をアピールする。

 ハンズアップしているのが翼で周りの人間はおどろくこともない。そういう手袋でもしているんだろうと、面白がってハイタッチをしてくる。

 こっちも求められるままにハイタッチをして、ついでに翼を広げたり狭めたりして見せてみる。爆音でかかる音楽の中で会話するのは無理だが、それがおもしろいとかいい感じとかを身振りで返事をしたりはできる。

 白いシャツの前に翼をかざし、ブラックライトで翼のシルエットを作ってみる。

 近くにいる女の子がおもしろがってかなにか話しかけてきてくれたが、フロアの中で会話をしようなんてのはムリなことだ。

 ひとまず、ハイタッチをして、ありがとうぐらいのメッセージを伝える。

 遊べる。

 なにが起こっても遊べる!

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北緒りお @kitaorio

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