第8話

永魔の朝は今日も早い。毎朝6時半に起きて、シャワーを浴び、真理愛が作ってくれた朝ご飯を手早く済ませて、歯磨きを終えると、すぐに鉛筆を手に取り机に向かう。その間、食事とトイレ以外では一切席を立たず、問題集と睨めっこを続けている。そして夜12時になった途端に、プツンと何かの糸が切れたように倒れ込んで眠ってしまうのだ。

現在は3月初旬。長い冬が終わり、春に差し掛かる頃だ。永魔が入学するのは4月。今からちょうど1ヶ月後である。永魔がこのハードな生活を始めてからもうすぐ1ヶ月が経とうとしている。


「なあ、ここってどうやったら解けるんだ?」


「ん?ああ、そこはこうやってここに代入して…」


「おーなるほど、わかったありがとう。」


最近の紗奈との会話も、こんな感じでほとんど勉強に関する事である。永魔の周りの人間との学力差は、中学から現在までのおよそ4年分である。その差をなんとか縮めようとして考案したのが、この地獄スケジュールである。普通の人間なら一週間も持たないであろうこのスケジュールだが、永魔の集中力は尋常ではなく、燃え盛る炎のように激しく音を立てて、己の身をも焦がす勢いだった。


「なあ紗奈、またわかんないとこが…」


「あーはいはい。ここはねぇ…」


「ほお。そうやって解くのか…わかったわかった。」


紗奈は永魔の物分かりの良さに驚いていた。まだ長い付き合いとは言えないが、永間と一緒に過ごしている中で、永魔の地頭の良さはなんとなく垣間見えていた。しかし、まさか皆が4年かけて終えるべき範囲を、1ヶ月で半分も終わらせてしまうとは思っていなかった。数学を重点的に進めているし、国語の問題は全てパスしているが、それにしてもこの進みの速さは異常だ。もしかしたら永魔は稀代の天才なのかもしれない。


「なんか最初は無理だろうなーと思ってたけど、あんたなら普通に私達の範囲まで追いつきそうだわ。」


「うん。絶対に追いついてみせる。なんなら紗奈を追い越してやるよ。」


「ふうん。…大口叩いちゃって大丈夫?私こう見えて一応学年でトップなんですけど?簡単に抜かせるんだと思ってるならそれは間違いよ!」


「俺だって昔から頭の回転には自信があるんだ。次の学年一位は俺だな。」


「望むところよ。負けたら罰ゲームだからね!」


そんな感じで戯れあっていると、下から真理愛が2人を呼ぶ声が聞こえた。


「紗奈ー、永魔ちゃーん、夜ご飯の準備手伝ってー」


「はーい。だってさ永魔。下降りてご飯の支度しよ!」


「おう、ここの問題後30秒で解くから先行っててくれ。」


「別に30秒くらい待つって。ちゃっちゃとその問題解いていくわよ。」



「ーーーーー、よし終わった!待たせてごめん。そんじゃ行くか。」


そう言って立ちあがろうとした永魔の足取りは、リバース寸前の酔っ払いの様にふらついている。紗奈は心配で思わず声をかける。


「…永魔?大丈夫?…」


「ん?ああ、大丈夫だ。少し眩暈がしただけだよ。ずっとおんなじ体勢で勉強してたせいかなあ」


永魔の表情や顔色は普段となんら変わりない。本当になんの問題もなさそうだ。


「なら良かったわ。んー、それにしてもいい匂いね。これ何かしら。餃子?」


「餃子…俺まだ食べたことないや。どんなもんなのか知らんけど楽しみだ。」


2人は晩ごはんに思いを馳せて、階段を降りていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「いやー美味かったぁー!本当に真理愛さんの料理はどれだけ食っても飽きないですわぁ〜…」


自室に戻った永魔が腹をさすりながらそう言った。いつもはここからまた勉強を再開するのだが、なぜだか物凄く眠くなってきた。そういえばさっきは眩暈もした。寝不足気味なのかもしれない。


「やっと生活リズムが身についてきたと思ったのに…そうでもなかったのかな。ふぁあ〜眠い…本当はまだ勉強したいけど、ちょっとだけ寝るかぁ」


そう言って永魔は寝息を立て始めた。




ーーー首が熱い。息が、できない。とてつもない力で締め上げられている様な…

気管を握りつぶされている様な感覚。

視界はぼやけてほとんど見えないが、体格の良い男のシルエットがかすかに感じ取れた。


「…、yや…ろお!……めろぉっ!」


必死に声を絞り出そうとするが、掠れた小さな音が喉から出るばかりだ。

必死でもがく永魔に、目の前の男は薄笑いを浮かべ口を開いた。


「お前が俺の前に姿を表すまで、1時間に1人ずつ殺す。早くしねえと人類根絶やしになっちまうぞ?」


この声はーーーー!、、




ガバッと布団を剥がし飛び起きた。布団は前回と同じ様に汗を吸って重くなっていた。指先の震えが一向に収まらない。また悪夢だ。

だが今回のこれは、前回のものとはまるで違う別物だ。

夢の中でも感じ取れた、どこかで魔力の流動する感覚。あれは確実に魔術を行使した夢への介入だ。今思えば、不調気味だったのは体が無意識のうちに危険信号を出していたからだろう。


「…っなんで…何でこんなとこまで来るんだよクソがあっ!!!」


忘れもしない。あの残酷で冷徹で、喜怒哀楽から哀を抜き取った様な、生き物の命を風に舞う砂埃よりも軽く扱う男。実の弟を手にかけ、永遠の命を手に入れようとした男。


「…兄貴が来やがった……!!」


血が滲むほどに唇を噛み締めて、永魔は拳を自分の膝に思い切り叩きつけた。

軽く窓の方に目をやると、空が白んで朝日が昇り始めていた。恐らくまだ朝6時くらいだ。今日は休日だし、2人が起きるのは早くて8時頃だろう。


「…行くか。」


永魔は小さな紙にペンでこう書き記して、家を出た。



紗奈と真理愛さんへ


おはようございます。もう最期かもしれないので、2人に伝えたいこと全部書きます。傷だらけの俺を助けてくれてありがとう。美味しい食べ物をありがとう。家族として接してくれてありがとう。人の生き方を教えてくれてありがとう。生きる喜びを教えてくれてありがとう。

ある理由で俺は、とてつもなく強いやつと戦わなければなりません。勝てる確率は低いです。しかし、戦わなければ多くの人が傷つき、苦しみ、命を落とすかもしれないのです。行かなければ俺は絶対に後悔します。もし俺がここに帰って来なかったら、その時は俺のことは綺麗さっぱり忘れてください。2人とも、どうかいつまでも幸せに過ごしてください。

                              故神永魔


手紙の文字はシミで薄く滲んでいた。




        






















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