Episode 2 勉強はちゃんとしたほうがいいですよ

 話をしようとすると歯の裏と舌の先がくっ付いて上手く喋り出せない。一度喋り出せたらまた歯の裏と舌の先をくっつけてしまい、口を動かせなくなるのが怖い。それは何か他のものを口の中に入れていたからといってマシになるものではない。


 私の歯と舌は元は一つの器官だったのだと思う。歯が舌の色をしていたのか、舌が歯の色をしていたのか、間がグラデーションになっていたのかは知らない。それを無理に千切って喋れるようにしたが、完全に喋れるようにはならなかった。だから今日も必死に口を動かしているのだ。


 話しているということは、目の前に相手がいるということだ。そしてそれはに分類される存在だ。それはすごく変な感じがするけれど、毎日の事になった。一年生の時の自分に見せてやりたい。今よりずっと斜に構えていた自分だ。そして、友好な関係を築くのには努力だけじゃなくて、多分運もあるぞ、そんなに自分を卑下しなくてもいいんじゃないか、と声をかけてやりたい。



 「学校嫌い?」

 「嫌いだよ。友達いないから」

 「私は?」

 「友達」

 「何それ、おかしいね」

 「私もそう思う」



 冬香が笑うから笑ってみる。笑顔はとても難しい。右と左の口角の上がり易さが異なることが気になった。自分の口の左端が震えているのが分かる。



 「今日彼氏と夜ご飯食べにいくの。だから早く帰らなきゃいけないんだ。家に帰って高速で着替えなきゃいけないし、化粧直しもしたいし、髪も結び直すの」

 「何食べに行くの」

 「イタリアン。気取った所じゃないって言われたけど、やっばり少し緊張する。でも予約してくれた手前、お店を変えて欲しいだなんて言えないでしょ」

 「そういうものなのかな」

 「私は背伸びしたいところがあるの。好きな人と隣で並びたいだけ」

 「楽しみなんだね」

 「そんなことないよ。緊張しているだけ」



 冬香には付き合っている男の人がいたし、それを隠すことも最初からしていなかった。年上で東京に住んでおり、金曜日か週末に必ずご飯を食べに行く。冬香のご飯の話を聞くと、今日は月曜だったっけ、それとも金曜だったっけ、と考える。緊張する話なら金曜日で、楽しかった話なら月曜日だ。


 今ならそれが分かっているが、最初は衝撃だった。こんなにオープンに他者との関係を話す人間がいるんだ。


 この習慣を無神経と呼ぶか、冬香が心を開いていたことを示すエピソードとして捉えるかは、自分のその時々の記憶によって変化する。ただ自分が、付き合っている人がいるという事実に対し、無感情ではいられなかったということは確かだ。


 5限に受けた数学の小テストは45/100(平均点: 62点)だった。将来のことを考えると、もう少し真面目に勉強した方がいいと思う。好きなことならどこまでもできるが、三角関数はどうしても好きになれずにいる。



 その日はバスタブに捕まってしまう夜だった。ぬるま湯が肌に絡みついて身動きが取れない。平時の就寝平均時間よりも大分遅くなってしまっていることは分かっている。それでも立ち上がるのは億劫だった。


 睡眠不足と数学の小テストに、今日の失敗の原因を全て集約することができた。楽しいと感じた諸々も全部二つの失敗に押し流されて、心の中には全てが根こそぎ流された後の荒野が残っている。土すらも押し流して、地球の土台だけを残してしまいそうな波だった。


 毎日嫌なことは山ほどある。学校にいると、同じ事を繰り返しているかのような気持ちになる。嫌なことは一つたりとも良いことに変えられない。クラスでの立ち位置は変わらない。成長を是とする価値観が苦しい。人の視線が痛い。今夜もまた頭が痛い。朝になると夜が嫌いになる。でも夜になると夜が好きになる。夜を永遠に感じてしまう。そうすると夜が昼になだれてくる。夜のせいで一日が嫌いに満たされていく。


 頭が痛い。複数回のおいだきと、私がお風呂に入っている間の浴室の蛍光灯分のエネルギーが無駄になっていく。私がこの世に存在するよりも、存在しない方が経済的だろう。


 冬香はきっと数時間前にイタリアンに行った。何を着ていったのだろうか。まさか制服ではないだろう。ピンクが大好きな上にピンクが似合うので、ピンクのワンピースを着ていたら嬉しいな、と思った。冬香をイタリアンに連れていく彼氏は、どのような顔をしていて、二人はどうやって出会ったのだろう。どんなに考えてもベンチャー企業の会社みたいなのしか思い浮かばない。


 ホテルの屋上で、大きい皿に乗った小さな肉を食べている二人を想像した。何肉なのか、どんなソースがかかっているのか。ラム肉にオレンジソースがかかっているのがおいしそうだ。そういうことを考えているうちに、水が体から熱を奪っていった。



 日付を越えて、ようやく風呂場を出る。寝るのは一時位になるだろう。取り憑いていた悪魔が落ちたみたいな顔をしてタオルで体を拭くが、責任の全ては自分にある。悪魔などいない。罪悪感でまた動きが鈍くなる。生産性がない、非効率的だ。源泉が自分かわいさにあることを知りながら悲しい。



 サマーライブの連絡が来ている。サマーライブというのは夏休みの中盤に行われるライブ企画のことだ。普段のライブは校内で実施するが、サマーライブは外のライブハウスを借りて実施される。近隣の4校の軽音部が参加するため、他校の軽音部と交流する数少ない機会でもある。


 うちの軽音のドラムは人数が少ない。そのため複数のバンドを掛け持ちするのが当たり前になっている。私も3つのバンドを掛け持ちしている。サマーライブにでるのはその内2つだ。「サマラ打ち上げの投票」に欠席を押し、「企画バンドでWANIMAやるけどドラムやらん?笑」に「忙しいから」と返す。こいつは企画バンドを沢山作るくせに練習はろくにしてこないギタリストだ。何かを創造する瞬間に最大のキモチよさを感じていそうな雰囲気がある。完成にまで目が届いていない。送信ボタンを押して、ようやく一日が終わった感じがした。



 ピアッサーを消毒する。大切な物を明日も大切にしていられるかは分からない。世界は夜に包まれて、自分の中だけで完成している。それは自分の気に入らないものを情け容赦なく叩き出すということを意味するのではないか。でも夜からの抜け出し方が分からない。


 今日は日付を越えた後に穴を開けた。穴の数は十二個。好きなピアスを入れられるまでには一ヶ月かかる。つい三週間前に、四月の時のファーストピアスが取れ、好きピアスをつけられるようになったばかりだ。時間が過ぎるのがうんざりするほど遅い。生まれてからずっと子供のままで、大人に一生なれないような気がしてくる。少し失敗して耳たぶが痛い。上手くいかない一日は最後まで上手くいかないことが分かった。スマホに通知が山ほど飛んできていて、それは見ずとも企画バンド男からだと分かる。仕方なくスマホの電源を切って眠った。

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