来ない春を探して

おかお

Episode 1 はじめまして

 クラスの中でキラキラしている人に対する一ミリ二ミリの疎ましい気持ち。持ってしまったのなら仕方ない。


 清潔なピアッサーを使うのが重要だ。ピアッサーに細菌が残っている場合、穴を開けた所から耳が膿んでしまう可能性がある。やると決めたら一息に終わらせる事も大切なことだ。躊躇いがあると、穴を開ける過程で痛みが伴う。こういうふうにして、今日も耳に穴を開ける。


 ローラーがついたイスの上に体育座りしている。重心を傾けるたびにイスが揺れる。イスは中学生の時に買って貰ったものだ。学習机とセットで買ったイスは、背もたれが低い位置にあって座りにくかったので処分した。二代目となるこのイスは、机と高さがあっていないので、書き物をしようとすると背中が丸くなる。


 プラスチックでできた透明なピルケースは見た目の割に重たい。ピアスが分類もされずに入っていて、女の子の夢が渋滞している。もうワンサイズ大きなケースを買わないといけない頃合だろう。かわいくもありたいしカッコ良くもありたい、大人しい姿も激しい姿も欲しい。ピアスはそんな胸の内を表現するための手段だ。針と同様、できればつける度に消毒するのが望ましい。しかし安い物は度々消毒で変色してしまう。


 左耳に密集したピアスは、もはや「ファッションです」と言い張るのには痛々しすぎる見た目をしている。十一個目の穴を開ける。今日は三つ並んだ花型のピアスの末席に穴を開ける予定だ。白い蛍光灯にピアッサーを翳して、針がキラキラしてるのを眺める。まっすぐ手を耳に当てたら、ひといき。



 スイッチを押して電気を消す。慎重に寝床まで移動する。ノートやらクマのクッションやらが散乱しているので、実際よりも寝床までを遠くに感じる。布団に潜り込み、枕と布団と自分の適切なポジションを求めて動く。開いた穴に埋まったピアスが存在感を示している。慣れれば多少マシにはなるだろうが、違和感が全て消えてしまうということはない。それは経験で知っていることだ。


 カーテンについたスパンコールが揺れ、光を反射して瞬く。満月の一日前、空の色が薄い夜。窓を閉め、遮光カーテンを閉めたが、明るさがカーテンの下から忍び込んだ。 そうは言っても、何かやりきったような気持ちのまま眠ってしまうのが、こういう日の常である。しかし今日は落ち着かない気持ちが続いていた。春が来るからだ。春が来るということは、もう昨年の春から、四季を一周したということになるからだ。一年が過ぎるのが年々短くなる。桜が散る頃になってようやく春とのバランスが取れてくる。季節に慣れるまでの時間は、歳を追うごとに遅くなる。その内、春に慣れた時には夏が終わっている、なんてことになっているのだろうかと想像すると、気持ちが落ち着かなくなっていく。


 昔はこうではなかったはずなのだ。少なくともお向かいさんの家の桜が切られる前までは、つくしを手折ったときの感覚も、花冠の作り方も、公園のどこに四葉のクローバーがあるかも、ちゃんと身に染みて分かっていて、それが春を形作っていたように思う。そして春の中に夏の気配を見出してから夏が来た。夏の暑さを自分のもののように感じていた時期が確かにあった。


 いつからこうなってしまったのか。四季が自分の手から離れて行ってしまったのか。その疑問に対する、昔、という答えは、あまりに漠然としていた。答えをだすために明確な線を引くことは可能だろう。そしてそれを正しいと信じることも可能に違いない。しかし意図的にそれをするのは気が進まなかった。歳を取ることへの恐れは具体的であればあるほど恐ろしい。歳を取るとピアスが今以上に似合わなくなり、肌がくしゃくしゃになっていき、仕事のためだけに生きる日々が訪れるらしい。これが私の妄想ではなくて事実でしかないということが、恐ろしさをますます強調した。時間のイメージをぼんやりしたものに留めておけば、過去も未来も、実際よりも遠くのもののように思い続けることができるだろう。



 起き方には人によってバリエーションがあるだろうが、私は睡眠と覚醒の境界がぱっきりと分かれる人間だ。そして一度目覚めてしまうと、夜になるまで眠れない。だから良い睡眠が十分に取れなかった次の日の朝は、何をするにも体が重たい。夜の夢を引きずった頭が頭蓋骨をガンガン叩くのだ。人の声が遠くに聴こえ、全ての言葉は悪口に聴こえ、じゃんけんには必ず負ける。占いが最下位の日みたいな一日になることは目に見えていた。


 今日も朝ご飯が食べ終わらない。特にコーヒーは、大体毎日飲みかけで終わる。冷蔵庫に入れて帰って来てから飲むこともあるが、流しに捨ててしまうことの方が多い。とはいえ、私の心の中のもったいないばあちゃんは完食を是としているので、出発時刻ギリギリまで食べようとは試みるのだ。結局挫折して歯磨きを適当にして、家から出ていく。いつも髪はボサボサだ。だが、髪はとかしたって無駄なのだ。どんなに手入れしても、生まれ持っての剛毛は「アンニュイな髪型」を実現してはくれない。それならば何をやっても変わらない。髪は女の命、とよく言うが、それだったら私は生まれたときから死んでいる。


 力尽きた自分を引きずって家を出ていく。新学期が始まろうとしている。希望。。今日も寝不足。クラス替え。電車は中学生みたいな顔をした高校生で溢れている。彼らの頬は赤く、目は輝いている。ほとんどの新入生は一人で電車に乗っているが、既に友達を作って団子になっている子らもいた。「先生恐いのかな」とか「部活どこ入るか決まってる?」とか、会話は将来への不安で満ちていた。だが、未来が眩しくてしょうがないがゆえの心配に聞こえた。隣に並ぶと、自分の体がみすぼらしく見えていたたまれない。去年は私もああいう顔をして、ああいう会話をしていたのだろうか。自分が若かったころのことはすぐ忘れてしまう。たった一年しか違わないのに「若かった」なんて言葉を使うこと自体、自分が若いことの証左だと分かってはいるけれど。



 昇降口でクラス名簿が配布される。私は四組だ。新しいクラスに知っている人はほとんどおらず、去年同じクラスで知っている人も、知っているだけの人ばかりだった。クラスの後ろの方ではサッカー部が横一列になり、大声でスマホゲームの話をしている。座席の半分は埋まっていたが、後の半分は廊下にいそうだ。新年度一日目の教室は酸素濃度が低いからだ。知らない人が沢山酸素を吸っていってしまうのだ。


 スマホでSNSを見るともなく見ている。右隣の女の子はリュックの中をずっと覗いている。何か探し物があるようだ。しかし見つけることを諦めたのか、場所を確認できたのか、しばらくするとじっとこちらを向いていた。口を開く理由を探していることは私にでも分かった。


 「お隣ですね」

 「そうですね、はじめまして」

 「私は去年もこの先生が担任でした」

 「そうですか、私は違いました」

 「それは当たり前ですね」

 「ハハハ」


 スマホに戻ろうとしたのだが、会話は終わらなかった。彼女は話し続けた。名は冬香という。華道部だ。華道部の二年は学年に五人しかいない。今日のクラス替えが心配で仕方なかったが、案の定四組に部員は一人もいなかった。更に、去年のクラスで特に仲が良かった子とはバラバラになってしまった。そこまで言うと、満足したみたいに一息ついた。


 「そんなもんですよ。クラス替えなんかなければいいのにね」

 「本当に」


 名は体を現すとはいうものだが、冬がよく似合いそうな女の子だ。細く、白く、はかない。自分とは違い過ぎる人間だ。高い位置で一本に結ばれた髪には天使の輪がかかっているし、髪の一本一本が蜘蛛の糸の様に細い。小さな耳には傷一つついていない。


 「名前は」

 「澤部空」

 「ソラちゃん、これからよろしく」

 「冬香ちゃん、これからよろしく」



 今日も針を刺さずにはいられない気持ちになった。しかし耳の肉には限りがある。右耳に進出しても良いが、最初の一個は大事な日にしようと自分の中で決めている。深呼吸で欲望を抑え込む。息を吸うとローラーは前に動き、吐くと後ろに動いた。ピアッサーが入った引き出しに手を出さずに済む。


 背中を丸めて数学の問題を解いた。基礎の問題を一周して、基礎的なパターンを手と頭に覚え込ませる。応用は基礎の利用だったり、応用と銘打った新たな知識だったりするので、疲れている夜には絶対にやらない。さもなくば思考が飛躍してしまう。一日目に仲良くなったように見える人間とは、それからは廊下であったら手を振るぐらいの付き合いが続く。冬香のはかなさを思い出すたびに、自分の大きさ、醜さを思い出す。それを無かったことにするために問題を解いた。穴を開ける方が余程楽だった。

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