Episode 4 夏だし夏をしに行きます

 制服のワイシャツを半袖にしようか、長袖のままにしようか迷う時期になった。私は半袖のワイシャツを着た。一方冬香は長袖のワイシャツをロールアップにして着て、その上にベージュのベストを着ていた。


 かび臭いエアコンは換気必須の代物で、休み時間には必ず全ての窓が開けられた。冷え切った教室に流れ込む熱風。今日は肌寒かったので悪くない。資本主義に生きる現代日本人の贅沢だ(どう考えても大仰な表現ではあるが)。


 「夏休みはどこ行こうか」

 「私はあなたが行きたい所ならどこへでも付いて行くわ。だってきっと、どこへ行っても楽しい」

 「嬉しい。じゃあ全部行こう。プールとか、花火とか、お祭りとか」

 「おしゃれなカフェにも行かなくちゃいけないのよ。学校のすぐ近くに新しいケーキ屋さんできたの、分かるでしょ。ここは絶対に行かなきゃ」


 チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入ってくると、彼女は斜め前の席に着く。終業式の簡単な説明の間、何度も冬香が振り向いて、こちらを向いてくる。目くばせしたときの笑顔は一級品だった。席替えしたが席は近いままだったことを、こんなにも幸運に思う瞬間はない。


 二人で出かけることが当たり前になっていた。当番制で行きたい場所を考えて、ぴったり二週間に一回の頻度で出かける。(当番制、といっても、もちろん厳密なものではない。しかし私も冬香も、いくつかの行きたい場所のストックを持っていて、それを放出しあっている。一緒に調べものをするときもあるがそれは稀だ)フルーツサンドを食べに横浜に行ったのは五月の土曜日のことだ。あのお店は少し静かすぎたし、対象年齢が上過ぎた。せめてもう少し仲良くなってから行くべき場所だったが、悪くない思い出だ。蚤の市も同様の理由で、高校生が楽しむには少々難しい場所だったが、いい経験だったと思う。全ては「経験」という麻袋に入れて口を縛ってしまえば、全部がごちゃ混ぜになり、美しい形の新しい記憶が生まれるのではないか。そういう気持ちもあり、経験という言葉を使う。



 学校終わりに制服のまま海に行く。若さの濫用。日焼け止めを塗っていない事を思い出す。ブルーの容器に入った日焼け止めクリームは、おそらく部屋の勉強机に上がっていた。朝持っていこう、と心に決めてそれきりだ。


 海は学校の最寄り駅から電車で二十分程で現れる。しかし帰りの方向とは真逆なので、ちょっとした贅沢になる。


 着いてみると、海には他にも複数グループの学生がいた。例えば海の水が川へ向かう場所には石橋がかかっていて、その橋の欄干に四人の女子高生が腰掛けていた。欄干と言っても粗末なもので、腰掛けるには頼りない。上半身は制服、下半身は体操着というスタイルで、白の線が入ったショートパンツには、海の近くの高校の名前が刺繍されている。皆髪はストレートで、髪は細くて柔らかく、二重で、血のような色のリップが塗られていた。


 「私たちも体操着持ってくればよかった」


 流行の最先端を行くような可愛い高校生は、青い長ジャージをスカートの下に履いて海に行くイメージがある。私もそれをやってみたいと思った。折角青いジャージが学校の指定ジャージなんだから、持って行くだけの価値はあった。


 「終業式に体操着をわざわざ持ってくるのは大変。また体育がある日に来ればいいのよ」


 「また来ればいいのよ」の「また」を反芻していたら、さっさと冬香はローファーを脱ぎ始めた。スニーカーと靴下を脱いで隣に置いた。脱ぎっぱなされたローファーと、その中に丸め込まれた靴下。靴が盗まれないか心配だったので、スニーカーの表面に少し砂をかけておいた。それで窃盗犯が犯行を止めるとは考えにくかったが、見た目だけでも汚く見せておこうと思った。


 岩や木の枝が足に刺さって、都会人である私の足の裏は悲鳴を上げていた。しかし海が近づくにつれ粒が小さくなり、快適になった。


 それでも最初は制服のことを第一に考えて、海に足を漬けず、遠くで波が動くのを見ているだけだった。目の前に有り余るほどの水があり、それが動いているのを見るが、視点が定まらず薄気味悪くなった。海の主人公はどこにあるのだろうか。


 しかし海は満潮の方へと向かっていたようで、私たちが前へ進むことが無くとも、水はつま先、くるぶし、と侵食してきた。そうすると水に入ることへの躊躇いも無くなった。大きな波が来て、膝にまで波が届く。その時一瞬だけ体が浮いて、海に持っていかれそうになる。サーフィンをしている人も、浮き輪に乗って遊んでいる人もいた。平日だというのに悠長なものだ。人は徐々にシルエットに変わっていった。


 「ピアス多いね」


 校則で引っかかる訳ではないのだから堂々としていればいい。今述べられたのはただの事実だ。またピアスをもとに否定的な評価をされても問題はない。今までも幾度となく否定的な評価を受けてきたが、それが私の心を動かすことはなかった。しかしそれでも自分の左手は忙しなく動いて、耳の凹凸を数えていた。


 「かっこいいでしょ」

 「外してほしい、一か所でいいから」

 「なんで」

 「欲しいから」


 砂がかかとの両脇から抜け出ていく。太陽が肌を焼く。どんなに日焼け止めを塗ってもどうせ焼ける。もう塗ることの効用を疑う程に黒く焼ける。母親は「未来のために日焼け止めは塗った方がいい」と忠告したが、自分が大人になる世界線は不気味過ぎて想像する気持ちにすらなれなかった。冬香の肌はほんのり赤くなっていた。日が当たらない部分は白いままだったから、色素が沈着しないタイプであるようだった。冬香が成人してお酒を飲んでいる場面を想像しようとしたが、疑問符が飛び交うばかりだった。白い指を天井に向けて、「ワイン一杯」とか言うのかもしれない。


 「どれにしようか」

 「じゃあこの、黄色の花がいいわ」

 「分かった。次会った時でいいよね」

 「もちろん。時間に余裕がある時にやってね。ここで外して、ピアスを取ったところが倦んだら大変だもの。衛生は一番大事」


 若いサーファーが、足だけ海に漬け、並んで喋る私たちを見て、技を披露してくれた。金髪のマッシュルームカットは海に沢山使ったために濡れそぼって小さくなっていた。海の中ではクラゲみたいになりそうだ。拍手をすると手を振られた。向けられた視線は私たちを通り過ぎて、私たちのスカートを見ている感じがした。海が迫ってきたので数歩後ずさった。



 夕方に差し掛かり、海は赤くなっていく。朝日は一ミリずつ登ってくるのに夕日はすぐに沈んでしまうから、私達は急いで帰らなくてはならない。


「あれ、靴は?」

「盗まれちゃったのかな」

「砂かけておいたのに」

「猫みたい」


 辺りが暗くなってきて、靴を置いた場所が探せなくなっていた。しかし、スマホのライトで足元を照らすと、5歩歩けば届く距離にあった。靴下は上手く履けなかった。素足に靴を履いて帰る。帰りの道では電灯が等間隔に、道を橙色に染め上げている。車通りはまばらだが、それは道幅に余裕があるからで、交通量はそれなりにあったはずだ。


 「家に帰ったらお母さんに『外で靴の砂払って来て』って言われる予感してきた」

 「あっ、それで思い出した。どうしよう、今日ママに帰り遅くなるって連絡してないや。二重にじゅうに怒られる予感するわ」

 「それは助けようがないな」

 「好きだよ」

 「唐突だね。ママが?」

 「ソラが」

 「私も大好きだよ」


 靴の中に入った砂が足の指の隙間に挟まって、どんなに指を動かしても取れない。髪は手櫛で梳かしきれないほど軋んでいた。海を見たって何も得はないような気がした。それなのに、覚えているのはその日の温い風ののことばかりだ。

 

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