第2話
ガストンはクレイバーのもっさりとした黒髪をかき分けて、その喉元に張り付いた銀の首輪をしげしげと眺める。
「こんな首輪、あったっけ?」
クレイバーはまちかねていたかのように彼の手をとって、その指先を首輪へと導いた。
「見た目がよろしくないので、ずっと隠しておりましたの」
「っていうか、婚約のための首輪ならさ、一対あって、俺にもはめられるはずじゃ?」
「いえいえ、殿方はほら、女性ほど貞操を求められないでしょ?」
「ああ、そういう系の」
ガストンは勝手に納得して、さかしらげに頷いてみせた。
もしも彼がもう少し思慮深ければ、その首輪の由来をきちんとクレイバーに問うていただろうか。
もしも彼がもう少し賢かったら、その首輪の表面にびっしりと刻み込まれた古代文字の意味を読み取る頃ができただろうか。
もしも彼がもう少し周りに気を配るタチであれば、聖女候補であるフールがついに膝から崩れ落ちて這いながら逃げ出したことに気付いただろうか。
もしも……もしもの話ばかりしても仕方がない、良くも悪くも王族であり純粋に育てられたガストンはクレイバーを疑うほどの頭がなかった、それが全てだ。
「ああ、ああ! ガストン様、さあ、早く、早く解錠の呪文を!」
さっきまでのおとなしそうでもっさりとした様子は何処へやら、クレイバーが興奮しきって高い声を上げる。
彼女を中心に嵐のような風が湧き、彼女の長い前髪は吹き上げられて、その瞳が露わになった。
それは赤い色をしていた。
新鮮な血を一滴落としたみたいな、見事な真紅。
その赤い瞳が真っ直ぐにガストンの瞳を捉えて離さない。
「さあ、呪文を教えてあげる、真似して言ってみて、『レスコドーダレクスレス』」
ガストンはトロンと虚な眼をしている。それでも唇はしっかりと言葉を紡ぐ。
「レスコ……ドーダレク……スレス」
「そうよ、いい子ね、続けなさい、『ピンヌレストドコザーク』」
今までおとなしいと思っていた令嬢の豹変っぷりと、アホでチンピラだと思っていた王太子が魂を抜かれたように黙々と呪文を唱える様は、明らかに異様である。
人々はおびえ、この場から逃げ出そうと出口を求めて押し合いへし合いの大騒乱となった。
静かなのは吹き荒れる風の中心地だけ。
そのさらに中心で、クレイバーの真っ赤な瞳がギラギラと光っている。
「ククク、クク、感じる、感じるぞ、力が戻ってくるのを!」
地味でおとなしそうな見た目の令嬢が変容してゆく。
口調だけではなく、その見た目さえも。
逃げ遅れたものたちが部屋の隅で身を寄せ合って見守る中、ついにガストンが最後の一句を唱えた。
「カイハルーントイレイナック!」
次の瞬間、部屋中に広がったのは視界を白く焼き尽くすほどの眩い光、そして聞こえてきたのは若い女性の高笑い。
「フハハハハハ! 愚かなり、人の子よ!」
閃光が止んだ気配に顔を上げたものたちが見たのは、すっかり容姿の変化したクレイバー=メイデルの姿だった。
長い黒髪はそのままだが、それを手櫛でかきあげて顔相をあからさまにしている。
さっきまでふっくらしていた頬はほっそりと引き締まり、随分と小顔だ。その小顔の中に意志の強そうなぱっちりとした吊り目、文句なく美人の部類である。
腰回りも、なんならコルセットで人工的に引き締めているご令嬢よりも細く引き締まっていて美しい。
それでいて出るところはボーンと出たワガママボディ。
さっきまでピチピチだった黒いドレスはダブついて、どこかローブを羽織った魔女のようにも見えた。
しかしそれよりもさらに人目を引いたもの、それは、濡羽色の黒髪を割ってそそり立つ、立派な二本のツノ……
「ひ、ひぃっ! 魔族!」
ふと我に帰ったガストンは、その姿に怯えて腰を抜かした。
そのままベターっと床に這いつくばい、ズルズルと這って逃げ出す。
もっとも、クレイバーがそれを許すはずがなかったけれど。
「おっと、どちらへまいろうというのだ、『元』婚約者どのよ」
片手を突き出し、クイっと宙を掴む仕草をする。
這っていたガストンの体が浮き上がり、宙に吊られた。
「ぐっ、な、なにを、なにをするきだぁ!」
呂律が回っていないのは、恐怖で歯の根が合わないからだろう。
恐怖に震えながら宙でもがくガストンの姿は、みっともなく、哀れですらあった。
対して、クレイバーは余裕綽々といった風情だ。
「まずは礼を言うぞ、よくぞ妾の封印を解いてくれた」
「あぐっ、なに、なぜ、なんで……」
「ふむ、なぜに妾がお主の婚約者としてあったのか、知りたいのか?」
「そ、それ」
「それはな、政略的な婚約であったのだよ。妾がこの国に嫁している間は魔族から手出しはせぬと、そういう盟約であった」
「そ、そんなこと、聞いてな……い……」
「おや、王族教育できちんと教わったはずだが? そうか、お主はろくに教育も受けずに遊び歩いておったな、知らぬも当然か」
カラカラと心地よく笑って、クレイバーはさらに高く手を挙げた。
それにつれてガストンの体も高く、高くに吊り上げられる。
「な、何を……」
「なに、先ほどの約束を守ってもらうだけよ」
「やく……そく……」
「妾を衆目に晒して辱めた罪を償うのであろう?」
「そ、そうだ、償う! 償う! 何が欲しい! なんでもくれてやる!」
「ふ、ならばその命を貰い受けようか」
「そ、そんなことをしたら、フールが……そうだ、フールが黙っていないぞ、あれは聖女候補だからな、聖魔法でお前の身を焼くだろう!」
「なるほどなあ、確かに聖魔法は妾と相性が悪い、が、聖女としての修行さえ投げ出してお主らと淫蕩な遊びに耽っていたあの女が、妾を焼けるほどの聖魔法を撃てるとは思えぬのだが?」
「で、では、妻の座を! ほら、嫉妬してフールをいじめるくらい、俺のことが好きなんだろ、だからさ、愛してやる、愛してやるから!」
「ふん、妾もナメられたものよのう」
クレバーはつまらなそうに、爪先で宙を摘んだ。
その途端、ガストンが首筋を掻きむしって宙で暴れ出す。
「かはっ、い、息……がっ!」
「こちらから無実の証拠を出せぬ故に黙っておったがな、あの聖女候補の言う嫌がらせは、全て自作自演のでっち上げぞ?」
「そ、そんなっ!」
「そもそもがな、お主がどこぞの女と放蕩に耽ろうが、愛人を囲おうが、さして興味はなかったのだ、私にとってこれは完全なる政略結婚である故にな、お主に対する情などこれっぽっちも持ち合わせてはおらぬのよ」
「し、嫉妬は……」
「したこともない。手向けの花の代わりに教えてやろう、妾の心はもう随分昔から、たった一人の男だけに捧げておる」
「そ、それは……」
「お主がそこまで知る必要はなかろう」
クレイバーは、手元にあった紙屑を握りつぶすようなきやすさで軽く拳を握った。
それと共に破裂音が響いて、宙に浮いていたガストンの頭部が弾け飛ぶ。
逃げ遅れて部屋の隅で震えていた者たちは、脳漿混じりの血飛沫を浴びてさらに震え上がった。
クレイバーはつまらなそうに指先を弄りながら、怯える者たちには目もむけなかった。
ただ、その口調はひどく冷たいものだった。
「さて、お主たちには無能を国のトップに据えた罪を贖ってもらわねばな……とはいえ、妾は魔族だが鬼ではない、選ばせてやる、我が僕となるか、あるいは……」
クレイバーの真紅の瞳が一瞬、ぎらりと光る。
「死か」
もちろん、死を選ぶものはその場には一人もいなかった。
始まりはごくありきたりな断罪劇だったはずなのに――こうしてクレイバー=クランという魔族最凶の女はくびきを解かれ、野へと放たれたのであった。
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