泉の小説(2)
3 カメラマンのグリーンさん
白壁が初めてグリーンに会ったのは、庭に出て花壇に水を撒いていた時だった。
「クジューヘルプミー?」
英語で話しかけられ、思わず「え、あ、はい?」と聞き返してしまう。
見ると、欧風の風貌をした青年がカメラを差し出している。肩幅が広く、瞳が青い。柔らかな金色の短髪が風に揺れている。どうやら、写真を撮ってほしいらしい。
「テイクフォト、プリーズ」
「おおおオーケー、オーケー」
若干挙動不審になりながらも、身振り手振りを交えながら要望を聞く。どうやら、パレット荘を背景にして撮ってほしいようだ。こんな辺鄙なところに、旅行者だろうか?
ピースをする青年に向かって、カメラを向ける。欧米では、こういうときなんて言うのだろうか。分からず、結局「スリー、ツー、ワン」でごまかしてしまう。
2枚ほど撮り、カメラを返そうとすると、青年がそれを手で制して言う。
「あと、縦でも撮ってください」
「は、はい!」
構えた後で、違和感を抱いた。今、自分は何語で会話したのか?
撮り終えて、カメラを返すと、青年は今度こそ明瞭に「ありがとうございます」と言う。
「日本語?」
そこへ赤坂がやって来る。
「グリーンさんは、いつもその手でからかうんだよ。私も初対面の時はそうだった」
青年が笑って右手を差し出してくる。
「どうも、トム・グリーンです。ここの一〇二号室に入居しています」
流暢な日本語に、白壁はあんぐりと口を開けた。
グリーンは裏庭へ焚き火台を持ち出し、火をつけ始めた。アウトドア好きなのだそうだ。新聞紙もいいが、キッチンペーパーが燃えやすいという豆知識まで授けてくれる。グリーンはカメラマンとして生計を立てており、今回も取材でしばらく家を空けていたのだと赤坂は言う。
「今回はどこに行っていたんだったかな」
「京都です」
「戦果のほどは?」
グリーンは満面の笑みでカメラをよこす。赤坂と白壁が二人して画面を見ると、そこには京都の往来や建造物が華々しく収められていた。こういうものを見ると、白壁はいつも感心してしまう。自分が同じ機材を使ったとしても、こうは撮れないだろう。熟練の技と知識がふんだんに盛り込まれているに違いなかった。
「おや?」
赤坂は首をかしげる。見ると、一枚の画像を指さす。何の変哲もない、寺院の写真である。
「どうかしましたか?」
白壁が尋ねると、赤坂はにやにやしながらグリーンを見やった。
「グリーンさん、またやったな?」
グリーンもにやりと笑みを返す。
「白壁さん、ここはね、撮影禁止の場所なんですよ」
「ええ?」
赤坂の言葉に白壁は顔をしかめる。グリーンは悪びれず、
「大丈夫ですよ。さっさと撮ってしまって、もし何か言われたら、『ホワッツウロング?』『アイドンノウワッチューミーン』とか英語でまくし立てるんです。決まりを知らないまま撮影してしまった哀れな外国人を演技していれば、向こうだって何も言えません」
思わぬ暴露に、白壁は天を仰いだ。ここまでくればむしろスッキリするほどの確信犯だ。
「まあ、そもそもほとんど声すらかけられませんがね。僕は早撮りの名人なので」
「早撮り?」
「ええ。周囲の視線をかいくぐって、素早くパシャリ。これでも昔は探偵業者に雇われていましてね。浮気や不倫の調査を何百とこなしたものです」
白壁はうなった。グリーンもまた個性的な経歴の持ち主である。
焚き火は程よく燃え上がっている。キャンプ場でもないのにここまでできるのは、田舎の強みである。グリーンは、昼食だと言って、自室からステーキ肉の塊を持ってくる。丸ごと焼いた後、ナイフで切って食べるのだそうだ。
白壁は昼食を食べたばかりだったので遠慮したが、思い当たることがあった。
「グリーンさん、ホットサンドって作ってみたことあります?」
「いや、ないね。興味はあるんだけれど、肉や野菜のバーベキューが楽で」
彼の持ち出してきたアウトドアグッズの中に、ホットサンドメーカーがないことに白壁は気づいていた。バーナーやフライパンなどのバーベキューグッズばかりなのだ。
「じゃあ、ちょっと待っていてください」
言うが早いか、白壁は自転車に飛び乗り、自宅へと舞い戻った。
パレット荘から自宅までは、自転車で十分足らずの距離だ。白壁も企業に勤めていたころ、キャンプ好きの同僚から、アウトドアを一通り仕込まれていた。中でも、ホットサンド作りには白壁自身がはまってしまい、様々な製法を試したことがあった。
アウトドア好きなのに、ホットサンドをやってみたことがないとは、今すぐに教えてやらねばならない。妙な老婆心が、白壁を突き動かしていた。
自宅にあるホットサンドメーカーと、冷蔵庫にあった具材を手に戻ったころには、グリーンは切り分けたステーキをもぐもぐやっていた。赤坂も、焚き火で沸かしたらしいコーヒーを隣ですすっている。
「失礼して、ホットサンドを作らせていただきますね」
言うなり、白壁は早速調理に取り掛かる。調理と言っても、その内容は簡便だ。まずは食パンにピザソースを塗る。バターナイフの持ち合わせなどないので、食パン一枚にソースを出し、もう一枚とすり合わせるようなかたちでソースを広げる。そこへ、チーズ、レタス、ハムといった具材を載せる。それをホットサンドメーカーの鉄板ではさみ、火にかけるだけだ。ホットサンドメーカーにもいろいろな形があるが、白壁は斜めに切れ込みの入る形のものを愛用していた。後から切り分けるときに楽なのだ。
焼き加減の見極めは最重要だ。時折ホットサンドメーカーを開いて、焦げ目の付き方を確認していく。
「なかなかの手際だね。てっきり、白壁くんはインドア派かと思っていたよ」
赤坂がつぶやく。
「ほらほら、できましたよ! ぜひぜひ召し上がってみてください」
引き上げたホットサンドを、半分に切って二人に手渡す。まだ湯気の立ち上るそれに、グリーンと赤坂はかぶりついた。
そこからのグリーンの豹変は見ものだった。
「オゥ…」とため息を漏らしたかと思えば、そのまま口いっぱいにホットサンドを頬張り、二、三口ほどで平らげてしまった。その後は「エクセレント」やら「オーマイガー」やら「アメイジング」を繰り返しながら、ホットサンドについて白壁に質問を繰り返した。どのメーカーがよいのか、焼き加減や製法にコツはあるのか、どんな具材が合うのか、他のものに応用はできるのか、などなど。
自分は普段使わないからと、ホットサンドメーカーを譲る旨を白壁が口にすると、彼は最早小躍り状態だった。
「本当に? いいんですか?」
「僕は、電動のものをすでに買っていて、もっぱら屋内で作っちゃうんです。このまま腐らせておくのももったいないので、もしよろしければもらってください」
「ジーザス! イエァッ!」
海外の人がイエーなどと言っているのを、白壁は初めて見た。
そんな様子を、微笑みながら赤坂が見ている。
「こんなグリーンさんを見るのは初めてだよ。白壁くんは、人を喜ばせるツボをよく知っているようだ」
そう言われると、なんとなく面はゆい。ごまかすように、白壁は「もういっちょ、やりますか」と食パンを手に取る。
グリーンが、今度は自分にやらせてくれというので、具材の載せ方や焼くタイミングについてレクチャーする。はしゃいでいる声が聞こえたのか、二階から青山も出てきた。
「何? バーベキュー?」
「白壁くんが、グリーンさんにホットサンドの作り方を教えているんだよ」
「もうすっかり馴染んじゃっているわね」
ああでもないこうでもないとグリーンとやり合っていると、白壁は改めてここの仲間として迎え入れられているような気分になる。
「青山さんも一切れどうですか?」
「そうね、もらおうかしら」
このパレット荘では、部外者である自分をこうして皆が受け入れてくれている。白壁は、なんとも言えない感情にとらわれた。ここの空き部屋に越してもよいかな、というような気にもなる。事実、「やまねこ」に呑みに行ってから、何度か赤坂にはここへの入居を勧められていた。
もうしばらく、この距離感を大切にしよう、と白壁は思う。そのうえで自分が、やはりここに住みたいと思うのであれば、喜んで越させてもらおう。
突然始まった食事会の終わりに、グリーンは、盛大にバーベキューをやらないかと持ち掛ける。そこからは、赤坂を中心に皆の予定をすり合わせた。
二週間後の夜、バーベキューパーティーを開催することに決まる。
「その頃には、桃田さんも帰ってきているはずだよ」
赤坂が言う。桃田とは、まだ白壁が会ったことのない入居者だろう。
グリーンが少し寂し気な様子で腕を組む。
「黄金さんも、来られるといいですけどね」
「まあ、彼には彼のペースがあるからね」
コガネ、というのも、またここの入居者であるようだ。赤坂の含んだ物言いに違和感を覚えつつも、白壁は来るバーベキューを心待ちにしていた。
4 パソコン達者な黄金さん
いつものように郵便を届けに行くと、赤坂が自宅から走り出てきたところだった。
「おお、おはよう! 白壁くん」
「おはようございます。どうかしたんですか?」
「ちょっと役所まで出なければならなくなってね、時間に遅れそうなんだ」
赤坂は苦笑してから、ポンと手を叩く。
「そうだ、白壁くん、ちょっと頼まれてくれないかい?」
彼が言うには、どこかのコンビニかスーパーで炭酸飲料を買って、昼までに二〇三号室のドアノブに掛けておいてほしいということだった。
「もちろん、かまいませんよ」
「ありがとう。普段は私がやるんだけれども、今日はちょっと時間がなくてね。頼んだ!」
言うが早いか、赤坂は駆けて行ってしまった。
白壁は、パレット荘の二階を見やる。これまでに聞いた話だと、一〇一号室が空き部屋、一〇二がグリーンさんである。二〇一が青山さん、二〇二が桃田さんで、この人は今どこかへ出かけているようだ。二〇三号室に入居しているのは黄金という人物らしい。いったいどんな人なのだろうか。
局へ顔を出した後、言われた通りに炭酸飲料を買い、パレット荘へ向かう。指定された飲料はコンビニに売っておらず、スーパーを探してやっと見つけることができた。それでも、昼までにはまだ時間がある。
エントランスの脇にある階段を上り、二階へ上がる。なんだかんだで、パレット荘の二階を訪れるのは初めてである。二〇三号室のドアノブにペットボトルの入った袋を掛けたところで、「何やってんの、あんた」と声を掛けられた。青山だ。
連れだって裏庭に出ながら、白壁は経緯を説明する。青山はいつもの調子で、ふーんとかへえとか相槌を打っていたが、最後に「本当、お人よしだね」とため息をついた。
「黄金くんはね、いわゆる引きこもりに近い状態でね」
花壇に水を撒く白壁に、青山はベンチで足をぶらぶらさせながら言う。二階に聞こえないよう、声のトーンは抑えられている。
「日がな一日、部屋でパソコンを触っているらしいよ。らしいっていうのは、基本的に彼に会うのは赤坂さんだけだから。私も数回しか顔を合わせたことがなくてね」
最近よく聞く話だ。ネットへの依存やゲームへの過度なのめりこみが問題視され、「ゲーム障害」という正式な診断名になったというニュースは見たことがある。
「赤坂さんもああいう人だから、無理に連れ出すのはよくないって、食事だったり生活用品だったりをお世話しているみたいなんだけどね」
なるほど、と白壁は返事をする。お世話のし過ぎはよくないような気もするが、あの赤坂が考えなしに物品だけを提供しているとは思えない。少なくとも、自分が首を突っ込む問題ではないように思えた。
花壇の整備を一通り終え、青山を部屋まで見送った。青山はにこやかに手を振り、ドアを閉める。当初では考えられなかった、くだけた態度だ。しかし、「部屋でお茶でも」とならなかったことには若干の落胆を覚える。
階段を降りようとして、ふと二〇三号室の方を見やる。ドアノブには、何も掛かっていなかった。
後日、ゴミ出しをしている赤坂とパレット荘の前で行き会った。そのまま立ち話をしていると、何とはなしに黄金の話になる。
「この前はありがとうね」
「いえ。青山さんからも現状を少しお聞きしました」
赤坂は、そうかそうかとうなずいた。青山も黄金のことを気にしていると知り、喜んでいるように見えた。
「彼は、昔とても嫌な経験をしていてね。一度や二度ではなくて、もっと継続的な、つらい経験だよ。私も力になりたいんだが、専門家ではないから方法が分からない。もちろん、家族でもない私から専門家に相談するのも、出過ぎた真似だ。結局、ずるずると今のような状態になってね」
そう言って、手に持ったゴミ袋を掲げる。
「彼の出したゴミだよ。ついつい親の気分になって、こうして手伝ってしまうんだが、これだっていいのか悪いのか。もしかしたら、甘やかさずに『自分でやれ』と突っぱねるのも大切なのかもしれない。でも、私は心配なんだよ。彼が家の中にゴミを溜めこんで、その中で突っ伏している姿が浮かんでしまって」
袋の中に、この前差し入れた炭酸飲料のパッケージが見える。白壁は、その一片が切り取られていることに目を留めた。
「これは、切り取っているようですが?」
「ああ、何とかっていうゲームの懸賞らしい。私はよく分からんのだがね。クーポンを集めると、珍しいキャラクターのデータがもらえるんだと」
白壁にも、そのゲームに思い当たるところがあった。一人暮らしゆえ、赤坂と飲みに行かない夜などは時間を持て余す。そんなとき、スマートフォンのゲームアプリを触っていることも多い。それを手掛かりにできないか、とふと思った。
白壁は、これから自分が炭酸飲料を届けてもいいか、と赤坂に尋ねた。
それからというもの、配達を終えると、パレット荘の庭いじりをする前に、炭酸飲料を届けることが白壁の日課になった。
ただドアノブに掛けるだけではなく、付箋に一言メッセージを付けるようにした。
「僕は、この地域の郵便配達を担当している白壁と言います。よろしく」
「僕もこのゲームをスマホでよくやっています。今はどこまで進んでる?」
「昨日は洞窟で出口が分からずゲームオーバーでした。攻略方法知ってる?」
このパレット荘に来て、赤坂、青山、グリーンと、順調に良好な関係を築くことができた。それで図に乗っている部分もあったのかもしれない。しかし、白壁は疑うことなく、黄金へのメッセージを発信し続けた。
ある日、ドアノブにペットボトルを掛けたところ、ドアの向こうに人の気配がした。
ごそごそと音がする。白壁は息をのんだ。もしかしたら、自分の発したメッセージが功を奏したのではないか、そんな思い上がった感情が心を占めた。
果たして、ドアの向こうの黄金は、初めて口を開いた。
「あの」
「は、はい!」
声が裏返る。メッセージを発信したはいいものの、いざやりとりをする段になると何を話せばいいのか分からなくなるものだ。
「白壁さんですよね? 『パプリカ・デビル』はゲットされていますか?」
パプリカ・デビルとは、スマホゲームに登場するキャラクターである。黄金の声は震えていて、もしかしたら緊張しているのかもしれなかった。
「ああ、3、4匹仲間にできたはずですよ」
「もしよければ、1匹いただくことってできません? 次のミッションに必要で」
一も二もなく白壁は承知した。スマホのロックを解除し、ゲームの画面を立ち上げる。
「僕は人と顔を合わせたりするのがとても苦手なんです。申し訳ないんですが、新聞受けからお借りして、操作させていただいてもいいですか?」
「別に、かまいませんよ」
そのまま、スマホを新聞受けに差し入れる。黄金の手がそれを受け取ったようだった。
扉の外で、操作の完了を待ちながら、白壁はほっとしていた。黄金が勇気を出して自分に働きかけてくれたことは素直にうれしく、もしかしたら今後、顔を合わせて話すこともできるかもしれない、などと考えたのだ。
様子がおかしい、と思ったのは5分ほど経過したころだった。いくらなんでも遅すぎる。
そもそも、よく考えてみれば、パプリカ・デビルはそれほど珍しくもなく、捕獲する難易度の高くないキャラクターである。なぜ、ネットやゲームに手慣れているはずの黄金が、わざわざそれを欲しがるのか。
「あの、黄金くん?」
新聞受けを押し上げ、声をかけてみる。沈黙。
白壁は、これはやられたかもしれない、と思った。スマホにはロックがかかっていない。
薄暗い室内に向かって、黄金の名を何度か呼びかけてみる。
何度目かで、室内から応答があった。先ほどよりも遠い声だ。部屋の奥に引っ込んでいるらしい。
先ほどと同じ震えた声で、黄金は言った。
「あ、あの、あの付箋、やめてもらえませんか?」
白壁は、自分の息がつまるのを感じた。背筋を冷たいものが流れる。この時初めて、自分は何か大きな過ちを犯したのではないかと白壁は考えた。
「赤坂さんからも、メールで時々聞いています。白壁さんですよね? 悪い人ではないのは分かっていますし、悪気がないのも分かっています。だからもう、終わりにしませんか?」
からからに乾いた口で、白壁は、それは、その、すみません、と謝る。
「僕は外に出ないだけで、ネットを介して仕事だってしています。もちろん、いつも飲み物なんかを届けてくださるのは感謝していますが、踏み込まれるのは困ります」
黄金の声は相変わらず情けないが、よどみない。はっきりとした意志を感じた。
「すみません、余計なことをしました」
必死でそれだけを絞り出した。頭の中で、自分の中のおごりや、ふてぶてしさが思い返される。黄金にとって、それは小さくても無視できない負担になっていたのではなかろうか。
「今、SNSのアカウントや電話番号をチェックさせてもらっています。ごめんなさい。悪用はしないと約束します。もう少ししたら、スマホはお返ししますから」
それは緩やかな脅しだった。これ以上踏み込むような真似をすれば、黄金はそれらの情報をいかようにも活用するだろう。それは黄金にとって悪用ではなく、自衛に他ならなかった。
白壁は黙り込む。これ以上、何を言ってもしょうがない。黄金のやり方は極端だが、自分にもたしかにデリカシーが欠けていた。何より、白壁は最近人間関係も仕事も一新したばかりで、抜き取られて困るような個人情報も何も無いのだ。
しばらくの沈黙の後、戸惑ったような黄金の声が聞こえてきた。それは、白壁の予想していた反応とは違っていた。
「白壁さん、いじめられていたんですか?」
「いじめ? ――ああ、見たんだね」
白壁は頭をかく。黄金は、白壁のSNSアプリに目を通したらしい。
「これ、相当ひどい…。前の職場ですか?」
白壁は、うん、と返事をする。特に大きなへまをしたわけでもなく、コミュニケ―ションも人並みにとっていたつもりだが、真面目すぎる白壁は次第に疎まれ、攻撃されるようになっていた。それは職場内のみならず、SNS上でも行われた。
「僕も悪かったんだけどね。若かったし、頭も固かったから」
黄金の手の中には、おそらく何百件もの罵詈雑言の嵐が吹き荒んでいるはずだ。今では、白壁自身も過去のことだと割り切れる。しかし、当時は耐えられなかった。
室内でごそごそと動く音がする。次の瞬間には、ガチャリと鍵が開いた。
「入ってください」
部屋は殺風景だった。壁際にパソコン台があり、これでもかというほど大柄なデスクトップパソコンが二台、その周りにノートパソコンが三台置いてある。その周囲には、白壁の知らない機器が並んでいた。
しかし、それ以外には、食卓すらない。衣類や生活用品は、押し入れの中だろうか。
「座ってください」
黄金は、ひょろりとした青年だった。身なりは清潔だが、着ているシャツの首元は伸び切っている。前歯が大きく、どことなくネズミを連想させた。
座布団も何もなかったので、部屋の畳に腰を下ろす。少し離れた位置に黄金は座った。
「すみませんでした」
そう言いながら、白壁のスマホを差し出してくる。
「抜き取った個人情報はすべて破棄しておきました。もし不安でしたら、僕のパソコンを確認していただいてもかまいません」
白壁は、気にしていない旨を伝え、スマホをポケットにしまう。そこから、黄金はうつむくようにして話し始めた。
彼も昔からいじめにあっていたこと。それは小中学校、高校、大学、大学院と続いた。人にかかわる仕事を避けようと、事務系の職に就いたが、そこで今までを上回るような迫害を受け、いよいよ逃げ出してしまう。親からも勘当され、行き場を失っていたところ、たまたま出会った赤坂に声を掛けられ、ここに住み着いた。今はネット上のアプリ開発やサイト運営で生活をやりくりしている。
話していく中で、時折、黄金はイヒッ、ウヒヒッと声を上げた。自虐的な笑いなのか、それとも泣き笑いなのかと思っていたが、違ったようだ。
「僕は、悲しいとき、怒ったとき、怖いとき、笑ってしまうんです」
黄金は笑顔で白壁を見た。
「楽しいときやうれしいときは無表情なのに。嫌われて当然ですよね。普段、どんなに楽しいときでも無表情なのに、悲しいことが起こったり叱られたりしたときには突然笑い始めるんですから」
そこから黄金は抑えが効かなくなったのか、うひゃひゃひゃひゃひゃと爆笑し始めた。そのままボタボタと涙がしたたり落ちる。
「ちょ、ちょ、落ち着いて」
白壁は慌てる。いろいろなことが起こりすぎて、白壁にもこれが悲劇なのか、喜劇なのか、もはや分からなくなっていた。
ともあれ、この日から黄金とのスマホを介したやりとりが始まった。それはゲームなどの他愛のないものから、哲学的な問いまで様々だった。暇を持て余すと、白壁も彼の部屋を訪れた。二人で缶ビールを開け、つまらない話や互いの不幸自慢で盛り上がる。黄金は、笑い上戸なのか泣き上戸なのか、白壁には分からなかった。
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