金子の小説(3)
Future
部屋にやって来た男性は、落ち着きなく目をきょろきょろさせていた。憔悴してはいるが、まだ大学生ほどの年齢だろうか。真面目そうな風貌ではあるが、こけた頬やくまのできた目から、どこか病的なものを感じさせる。同行者の女性も、黒髪をサイドにまとめ、小ぎれいな服装ではあるものの、不安げに辺りを見回している。
二人は、暗い部屋の中央で、パイプ椅子に腰かけていた。対面するかたちで、幅広のデスクがあり、数台のパソコンに囲まれて誰かが座っている。
黒いシャツの、眼光の鋭い男である。
「谷口さんでしたっけ? 突然来られても、困るんですがね。どこで情報を得られたんですか?」
男は静かに問いかける。
「あの、知り合いのバーで、事情を話したら、紹介してくれた方がいて…」
谷口と呼ばれた男性は、おどおどと話し始める。男はそれを遮った。
「谷口さん、簡単にお伝えします。まず、『話すな』。霊のことを周囲に軽々しく話せば被害が拡大します。苦しむのは自分だけにしてください」
突然の厳しい物言いに、谷口は顔をゆがめた。額に大粒の汗が浮かんでいる。
「でも、ずっと僕だけが苦しむわけですよね? 何か、解決策がほしかったんです」
「だとしても、バーで話すことは解決に結びつきません。結局、だれかに苦しさを分かってほしいだけの自己憐憫です」
谷口の隣の女性が「ちょっと、そんな言い方ないんじゃない」と文句を言ったが、谷口はそれを手で制した。
「でも、今回はそれであなたの話を聞くことができました。なんでも、除霊を専門でされているとか」
「谷口さん、お伝えしたいことの二つ目は、『信じるな』です。おそらくあなたに私の話をしたのは、私の高校時代のクラスメイトです。もう何年も会っておらず、友人ですらありませんでした。過去に、私がやむを得ず人前で霊力を発揮するのを目にして、勝手に信者を名乗り始めたゴミです。いわゆるストーカーであり、私個人とは何の関係もありません」
男は一息にそうしゃべると、深いため息をついた。ぼそりと「また事務所を変えるべきかな」とつぶやく。
「御迷惑をおかけしてしまっているのなら謝ります。しかし、助けてほしいんです」
谷口は土下座をする勢いだ。
「どうせくだらない理由で、霊的なものにつけ狙われることになったのでしょう。聞くまでもありません。見ず知らずの私が、なぜ命を張って助けなければならないんですか?」
谷口の顔が一瞬赤くなり、肩がぶるぶると震える。
「身勝手なのは分かっています。どうか、お願いします。全財産、用意してきました」
震える手で、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出す。男はそれを一瞥してから、「いりません」と吐き捨てた。
「あいにくですが、お金には困っていません。たとえいくら積まれたとしても、助けられないものは助けられない」
我慢の限界に達したのか、谷口の隣で女性が立ち上がった。
「あんたね! さっきから聞いてりゃ、無茶苦茶言いやがって」
谷口は「おい、ちょっと」と止めようとするが、女性の剣幕に押されて黙り込む。
「こっちがこんなに頼んでるのに、なんで助けてくれないのよ」
「一度の説明で理解してください。無茶苦茶なのはそちらでは?」
女性は話が通じないことにしびれを切らしたのか、谷口を立たせ、「こんなやつに助けてもらう必要ないわ」と捨て台詞を吐いてから出て行った。
ドアが乱暴に閉められる音を聞いてから、黒シャツの男は深い息を吐いて、椅子にもたれる。
「すごいキャラクターだったな」
奥の部屋から声がし、ガタイのいい男が出てきた。つなぎの作業着姿だが、胸板の厚さが見て取れる。
「本当、疲れた」
黒シャツの男が言うと、作業着の男が「そりゃそうだ」と笑う。
「キヨヒコも、なかなか嫌味なスタイルだったじゃないか。よくぶれずに通したな」
「だって、あの谷口とかいう人に憑いてたのは悪霊じゃなかったからね」
黒シャツの男――キヨヒコの目には、谷口の背中に、隣の女と同じ顔をした霊が立っている様子が映っていた。
「あれは生霊だよ。大方、女の方があの男に執着するあまり、無自覚に自分の生霊を飛ばしているんだ」
「恐ろしい話もあるもんだ。だから嫌味を吐いたんだろう?」
作業着の男――ツトムが尋ねる。キヨヒコはうなずいた。
「ああやって冷たく対応することで、あの女の人は『なんてかわいそうな人。この人には、もう頼れる人が自分しかいない。自分が何とかしなくては』だとか思ってくれるでしょ。あの女の人の欲望が一時的に充足されて、生霊もそこまで悪さをしなくなるはずだよ。もちろん、その後のことは知らないけどね」
キヨヒコの話を聞き、ツトムは「いやだいやだ」と首を振る。それから、ポンポンと手を叩いた。
「でもまあ、これで本仕事に取り掛かれるな。ミサとトミ婆は、そろそろ工場につく頃だ。俺たちも行こう」
「そうだね」
二人して、事務所を出ていく。薄汚れた雑居ビルの一角、扉のすりガラスには『駄菓子・玩具問屋 タケナカ』と印字した紙がテープで貼られている。キヨヒコは扉を施錠し、ツトムと共に、ビルの階段を駆け下りた。
ツトムとキヨヒコは、工場付近のコンビニで、今回の依頼者と合流した。丸眼鏡を掛けた、利発そうな少年と、その妹と思しき少女だ。二人とも高校生だろうか、少年は学生服を、少女はセーラー服を着ている。
「よろしくお願いします」
少年が言い、二人そろって頭を下げた。
「昔のキヨヒコみたいなやつだな」
ツトムの言葉には答えず、キヨヒコは少年に話しかけた。
「梨田さん、お久しぶりです。こちらこそよろしくお願いしますね。早速ですが、工場へ向かいましょう。詳しいことは、歩きながら話します」
梨田兄妹から依頼を受けたのは、先週のことだった。駄菓子屋除霊組は最近インターネットを介して依頼を受け付けており、専用の相談フォームで相談があったのだ。もちろん、ホームページには、本当に助けを必要とする人間しかアクセスできないような細工をしてある。先ほど事務所に押し掛けてきた谷口らのような輩は、ネット上をいくら探しても、そのページを見つけられないはずだ。
兄妹の主訴は、頻発する霊障をどうにかしてほしい、というありがちなものだった。しかし、事務所を訪問してもらっての事前の聞き取りを経て、事態はそう単純ではないことが分かった。
兄妹によると、きっかけや理由は分からないとのことだった。もちろん、真面目な兄妹のこと、心霊スポットに足を運んだようなこともない。そのような場合、たいていは依頼主が気分や感情に強いぐらつきがあり、そのネガティブな状態に霊が引き寄せられている。しかし、キヨヒコの感触では、この兄妹にそのような一面はないように思えた。
霊障は、小さなものからだんだんと強まるのが一般的だ。ラップ音が少しずつ増えていき、やがてポルターガイスト現象にまで発展していく。この兄妹の場合、最初から強度がマックスであったのも気にかかった。突然家の本棚が、リビングの端から端まで移動したという。そのとき、二人の父親は壁と本棚の間に挟まれ、現在も入院している。母親は、兄妹を守ろうとお札や数珠を買い込んだが、ある晩にそれらが一気に弾けてしまった。それから母親は、嘔吐し続けた。兄妹は救急車を呼んだが、救急搬送される母親の口からは、大量の数珠玉が吐き出されていたそうだ。症状はその日のうちに収まったのだが、数珠の玉を自分で飲み込んだのだと誤解され、精神的な安定が認められるまでは入院措置となった。
依頼を受けて除霊組が調査してみたところ、梨田兄妹の家系は、ある村の神主一族につながることが分かった。村にある規模の大きな神社には、豊穣の神が祀られており、一族のうちの一派が神主を引き継いでいたらしい。しかし、村は次第に過疎化し、やがて廃村となる。同時に開発の流れで、神社は取り壊され、そこには鉄塔が建設された。取り壊し前の神事が雑だったのだろう、祀られていた神が怒り狂っていて、それが梨田一家にも及んだのだ。
梨田兄妹とその両親は、自分たちが神主の一族であることも、村や神社の存在も知らなかった。ただその血を引いているというだけで甚大な被害を被っている彼らをそのままにはしておけず、除霊組は正式に動くことになった。
「その怒っている神様は、今も村の鉄塔付近にいる。そしてどうやら、電線を介して、災いを引き起こしているみたいなんだ」
「電線ですか」
「そう。僕らも初めてのケースだよ。電線を伝う祟りって、なんだか神様らしくないよね」
キヨヒコは二人を和ませようと軽い口調で話すが、もとよりこういうのは得意ではない。兄妹の表情は硬いままだった。
「これから行く工場は、遠くではあるけれど、その鉄塔とつながっている。神様をそこにおびき寄せ、祀りなおすのが今回の目的だよ」
「祀りなおせば、もう大丈夫なんですか?」
「おそらく。二人は危険な目に遭わないようにするから、安心して」
周囲には、三車線ある大きな道路が広がっているが、人気はない。工場も今はがらんどうのはずだ。すでに、工場の管理者には話を付けてある。
工場の付近は、強い瘴気でどことなく歪んで見えた。
「うげ、なんじゃこりゃ」
ツトムがあからさまに顔をゆがめる。キヨヒコはそれを尻目に歩を進めた。ミサが、すでにお札や魔法陣を駆使して、誘導と封印の手はずを整えているのだ。
「工場の中は、霊気のようなものがたくさん漂っている。だから、君たちも、普段見えないようなものが見えてしまうかもしれない。でも、気にしないように」
兄妹に話しかけながら、キヨヒコの脳裏を高校時代の思い出がよぎる。人体模型の力を借りて除霊したとき、霊の強い瘴気によって、教室にいたすべての生徒と教師が霊を目撃した。強い瘴気は、霊を可視化する。
工場の中ではミサが待っていた。キヨヒコは兄妹に仲間を紹介する。
「改めて紹介するね。こちらがミサ。君たちのそばで、君たちを守ってくれる」
ミサが「よろしく」とにこやかに手を振る。
「こちらがツトム。ツトムは僕と一緒に、神様を封じ込める」
ツトムは梨田兄の肩をポンポンと叩いた。
「よろしくな。大丈夫、全部終わったら何を食いたいか、考えておけよ」
心なしか、梨田兄の表情が緩んだ気がする。やはり、ツトムはさすがだ。
ミサが、車いすを押してきた。錆びついた車輪が、きいきいと耳障りな音を立てる。
梨田兄妹が息をのむのが分かった。
二人には、車いすに乗っている何かが、ひどく不気味なものとして見えているはずだ。何か、というのは、それが毛布で覆われて見えないからである。
大きさは、赤ん坊ほどもない。小型の犬か猫だと言われれば、そうかもしれないと思うだろう。毛布の下で、何かがうごめいている。
「そして、これが僕らのリーダー、トミ婆」
キヨヒコの言葉が信じられない、というように、兄妹は目を見開いた。
「リーダーですか?」
「そう。リーダーだ」
なおも硬直している二人に、ミサが寂しげな表情で話しかけた。
「トミ婆と私たちはね、何年か前に、とても大きな闘いに挑んだの。もし失敗すれば、街が一つ壊滅するほどの、強い強い霊だった。なんとか封じることはできたんだけど、トミ婆は代償を支払うことになった」
キヨヒコもうなずく。
「トミ婆の霊力はけた違いに強かったからね。本当は死ぬところだったんだけど、なんとか形を保ってこの世に存在できている」
「トミ婆はめちゃくちゃ口が悪かったんだけどな、今は口が無いから悪口も言えねえ。その点はよかったな」
ツトムが冗談に聞こえない冗談を言う。毛布の下で、トミ婆がもぞりと動いた。
ミサが「ではでは」と手を叩いた。
「おしゃべりはこのくらいにして、二人には魔法陣の中に入ってもらおうかな」
今回除霊組が拠点とするのは、工場内の作業場だ。周囲にはコンベアやよく分からない機器が並んでいる。中央に広いスペースがあり、そこに魔法陣が描かれていた。
「この中にいれば安全だよ。万が一、魔法陣が壊れちゃうようなことがあれば、予備も用意してあるから、あそこまで走って」
ミサが指さしたのは、巨大な機械の陰にある魔法陣だ。魔法陣間の距離は二、三十メートルといったところか。
兄妹が魔法陣に入ったことを確認し、キヨヒコとツトムは作業場の奥へ向かう。そこには、簡易な鳥居と祭壇が設けられていた。
「ミサ、これはもうつながってるのか?」
ツトムの声に、魔法陣の前に立ったミサが「そう」と答えた。
「そこに追い込めば、私たちの神社に送ることができる。あとは、トミ婆が祀りなおしてくれるよ」
きいきいという音がして、祭壇の横に車いすがひとりでにやって来た。
「トミ婆はここで待機ってことか。俺たちは?」
ミサは作業場の反対側を指さす。
機器の間に、コードでつなげられた箱のようなものがあった。お札が所狭しと貼ってある。
「原理はよく分からんが、とにかく、電線を通って、神様がここに来るんだろうな」
ツトムが箱を眺めながら言う。
「そう。それを、作業場の反対側まで誘導するのが僕らの役目だね」
キヨヒコは振り向き、トミ婆、ミサ、梨田兄妹の姿を確認する。
「じゃあ始めようか」
全員がうなずく。
ミサが印を組んで何かをつぶやき、それと同時に箱に貼られたお札が光り始める。キヨヒコは俯瞰図を展開し、神の動きを探った。
瞼の裏に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線が浮かぶ。その一本を、ものすごい勢いで駆け抜ける光があった。
「あと五秒で来るよ」
キヨヒコが言い、ツトムが印を組んだ。
じりじりという何かが焦げる音と臭いがした後、箱がはじけ飛んだ。箱のあった場所から、巨大な柱のようなものが飛び出す。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムの呪で、それは地面でのたうった。全貌が明らかになったが、作業場の天井に届くほどの巨大な蛇だ。
「よし、こっちだ」
ツトムとキヨヒコは、蛇が魔法陣の方へ進まないよう、壁伝いに祭壇を目指す。
怒り狂った様子の蛇は、二人の後を追いかけた。
「がらこっ」
ツトムの指先から光が飛ぶ。それは蛇の眉間に命中した。蛇は乾いた音で吠える。
「がらこっがらこっ」
ツトムの放つ微弱な弾は、うまい具合に蛇の怒りをあおっているようだ。
すでに蛇は作業場の中ほどを超えている。順調に誘い込めているはずだった。
ふと、蛇が動きを止めた。ツトムとキヨヒコは瞬時に警戒する。蛇の注意はこちらに引き付けているはずだった。現に、蛇は今もツトムとキヨヒコをにらみつけている。何かが起こったのだ。
蛇の尾がぐるりと持ち上がる。そこはてらてらと光っており、ホースのような穴が開いていた。
「なんだ、ありゃ…」
ツトムがつぶやく。
穴の横に、何かが光っていた。一つではない。複数の光が一列に並んでいる。
それらは眼光だった。
蛇の尾に、ヤツメウナギのような顔が付いているのだ。穴だと思ったのは、どうやら口らしい。
「双頭の蛇だ」
キヨヒコがつぶやく。
尾の顔は、明らかに梨田兄妹とミサの姿を捉えていた。
「キヨヒコ、こっちの頭を頼む」
「分かった」
ツトムはミサらの援護に走る。キヨヒコは不慣れな印を組み、「がらこ」を放った。
蛇の頭が牙をむき、じりじりとこちらに寄って来る。
しかし、尾の頭もまた、魔法陣に向かって進んでいた。ミサがお札を投げつけるが、効き目は弱いようだ。
尾の頭が少し引き、汽笛のような鳴き声を上げた。
ツトムがミサの肩を抱いて「うんにょろかっかそわか」を放った。尾の頭は少したじろいだものの、魔法陣に突進した。
梨田兄妹は悲鳴を上げるが、魔法陣によって守られた。しかし、今の一撃ですでに魔法陣は崩れ始めた。
「走って! もうそれはもたない!」
ミサが叫ぶ。梨田兄妹は顔を見合わせ、予備の魔法陣に向かって駆け出した。
尾の頭が二人を追おうとするが、それをツトムが「がらこ」で足止めする。頭は再び、耳障りな鳴き声を上げる。
兄妹が魔法陣にたどり着き振り返ったのと、尾の頭が鞭のように体をしならせたのが同時だった。尾の頭は、確実に、ミサとツトムの身体を引き裂いていた。上半身と下半身が横一文字にちぎれとぶのが見える。兄妹は悲鳴を上げた。
尾の頭がツトムとミサを始末し終えると同時に、蛇の頭がキヨヒコにとびかかった。
「うんにょろかっかそわか!」
蛇がわずかに身をよじる。ツトムほどではないが、妨害としては機能しているようだ。
そのままキヨヒコは走り始める。
「こっちだ!」
蛇は怒りに任せて追ってくる。祭壇まであとわずかである。
しかし、蛇の口はキヨヒコの右足を捉えていた。激痛が走る。咥えられたまま、身体が持ち上がる。
「うんにょろかっかそわか!」
蛇の全身が麻痺したように震え、キヨヒコは解放された。印を結んだツトムがにやりと笑う。足は血まみれだが、動くには動く。
ツトムの肩を借りながら、キヨヒコは祭壇にたどり着いた。蛇がそこへとびかかる。
ツトムとキヨヒコが身をかわすと、蛇は祭壇の中に吸い込まれていった。
蛇の入った部分は黒々とした穴として残り、ミサがそこへ大判のお札を貼り付けた。
三人が息をついていると、トミ婆の毛布がもぞりと動いた。
「あとは頼むぜ、トミ婆」
ツトムの言葉に応じるかのように、毛布から、しわくちゃの腕が伸びた。
空書するように、指を動かす。
辺りがしんと静まり返った。
「成功…か?」
ツトムがつぶやくと、トミ婆の腕は毛布の下に引っ込んだ。
「そうみたいだね」
キヨヒコはその場に座り込む。右足の太ももからは血がまだ流れているが、それほど深い傷ではなさそうだ。
「二人とも、もう大丈夫よ。出ておいで」
ミサが梨田兄妹に声をかける。二人は、恐る恐る、といった様子で、機器の裏から出てきた。妹は兄にしがみついたままだ。
キヨヒコは努めて優しく声をかける。
「ごめんね、想定外のことがあって、かなり怖い思いをさせてしまったね」
「でも、もう大丈夫よ。あれは祀りなおせたから。これで霊障も収まるはず」
兄妹はこくこくとうなずくが、緊張は解けない。その様子を見て、ツトムが「ああ」と声を上げた。
「そうか、君たち、見ちゃったんだな」
そう言うと、自分の腹部に手を当て、「スパーン」と切る真似をした。それを見て、ミサも「ああ、そうだね」とうなずく。
「大丈夫、私もツトムも、切れてないよ」
ミサの言葉に、梨田妹が「本当に?」と涙目で聞いた。
ミサとツトムは顔を見合わせ、苦笑いする。
「最初にも言ったけれど、私たちは以前、大きな闘いを経験したの。そのとき、トミ婆は代償として、あんな姿になった。そして、私とツトムは命を落とした」
梨田兄妹は唖然として二人を見つめている。
「俺たちも幽霊ってことだ」
ツトムが明るい調子で言う。
「でも、成仏するのをまだトミ婆が許してくれないわけだ。こうして夜な夜な呼び出されては、除霊に付き合わされてる。そもそも俺が幽霊だっていうのに」
ミサも「そうそう」と言いながら、キヨヒコに肩を貸して立たせる。
「さて、もう片付けないとね。霊気も弱めるから、君たちにはもう私とツトムが見えなくなるよ。それで、一つお願い」
ミサは指を一本立てる。
「キヨヒコに肩を貸してあげて。事務所に放っておけばいいから」
工場の前で梨田兄の肩を借りながら、キヨヒコはツトムらと対面した。霊気は弱まっている。梨田兄妹には、もうツトムとミサの姿はうっすらとしか見えていないはずだ。
「じゃあ、また除霊のときに」
ツトムがあっさりと言う。
「早くけが直しなさいよ」
ミサもそう言って手を振る。
トミ婆は毛布の下でもぞもぞと動いた。
トミ婆の車いすが、甲高い音を立てて転回する。ツトムとミサも踵を返した。
きいきいという車いすの音と共に、三人の姿は工場内へ消えた。
「では、僕らも帰ろうか。手間をかけてすまないね」
キヨヒコと梨田兄妹も、工場を背にして歩き始める。
キヨヒコは一度だけ工場を振り返った。
工場は無言でたたずんでいる。人気はない。
そこには静かな闇だけがあった。
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