金子の小説(2)
Present
夏になると日が長い。時刻はすでに十八時を過ぎているが、陽の暮れる気配はない。じっとりとした汗をカッターシャツの下に感じながら、キヨヒコは自転車置き場へ向かう。
「キヨ、一緒に帰ろう?」
声に振り向くと、ミサが立っている。彼女はテニスラケットを持ち、まだスコート姿だった。
「いいけど」
「やった。すぐ着替えてくるから、待ってて」
言うが早いか、部室へグラウンドの隅にある部室棟へ駆けていく。厳しい練習メニューをこなした後だというのに、なぜまだ走れるのだろうとキヨヒコは不思議に思う。
キヨヒコ自身は将棋部に所属している。昨年四月の部活動体験では、部員も似た者同士で、穏やかに過ごしているのが気に入り、入部した。毎日十七時前には帰ることができる、非体育会系な活動を謳歌していたのだが、今年度からそうもいかなくなった。転任してきた校長が、大の将棋好きだったのである。会議や書類仕事の合間を縫っては将棋部の部室へ顔を出し、対局していく。顔すら見せないことの多かった顧問も、校長が来るとあって、入り浸って檄を飛ばすようになった。それで、この時間なのである。
「あれキヨヒコ、誰か待ってるのか?」
よく話しかけられる日だ。顔を見なくても誰だかすぐに分かる。「駄菓子屋除霊組」は、三人そろって、地元のこの高校へ進学していた。
「ミサが一緒に帰ろうって。ツトムもそうしようよ」
真っ黒に日焼けしたツトムは目を見開いた。頭にタオルを巻いているのが、やたらと似合っている。
「おや、お熱いこって。俺がいると邪魔になっちゃうな」
「違うって」
ツトムはげらげらと笑う。相変わらず声が大きい。
「最近、帰りが遅いじゃねえか。今日も校長さんが来たのか?」
「そう、『会議が早く終わっちゃったからねえ』って。それで、対局に二時間つかまった」
「二時間って、すげえな。校長相手にそこまで闘えるキヨヒコもすげえ。あの人、初段か何かだろ?」
「連日、鍛えられてるからね」
話していると、ミサが戻ってきた。ツトムを見て目を丸くする。
「え、なんでいるの?」
「またまた、うれしいくせに」
「何を言ってるの。ムキムキすぎて、私の好みにほど遠いわ」
ミサはツトムの腕を叩く。野球部で鍛えられている二の腕は、キヨヒコの太ももほどもある。見るたびに、キヨヒコは自分の貧弱さを実感する。
「本当にうらやましいね。さすがピッチャー」
「いや、まだ先輩には敵わない」
「そのうちエースになるよ」
話している間に、陽が傾いてきた。自転車置き場も、生徒でごった返してくる。
「ねえ、そろそろ行かない? 特別にツトムも同行を認めるから」
「ありがたき幸せ」
三人とも、自転車を用意し始める。キヨヒコがバッグをひもで括り付けていると、いつの間に来たのか、ミサが肩をつついた。そのまま、後方を指さす。見てみると、ツトムが二人の女子生徒に話しかけられていた。
切れ切れに「先輩」という言葉が聞こえる。二人とも、どうやら下級生のようだ。黒髪をショートにした、いかにもおとなしそうな女の子と、それに付き添っているポニーテールの女の子。大方、奥手な女の子が友人に励まされて、話しかけに来たというところだろう。
ツトムは、普段のにこやかな顔をゆがめ、ぎこちなく二言三言対応してから、振り切るようにこちらにやってきた。
「よし、帰ろうぜ」
「モテる男はつらいね」
「なんのこっちゃ」
三人で自転車をこぎながら、先ほどの女子生徒の話をする。
「結局、あの二人は何をしたかったの?」
ミサが尋ねると、ツトムは苦笑いする。
「メールアドレスを教えてくれと。でも、携帯忘れたことにして断った」
「えー、もったいない。結構かわいい子たちだったじゃん」
「ばかお前、前のヤンデレ事件を忘れたか」
ヤンデレ事件とは、昨年度、ツトムがメールアドレスを教えた女子がいわゆる「ヤンデレ」だったことから起きた一連の事件である。彼女はツトムに昼夜を問わず連絡し、返信しないと、人目もはばからず学校で泣きじゃくりながら詰め寄る、ということを繰り返した。もちろん、二人は恋人でも友人でもなく、ただのクラスメイトである。彼女のその傾向は中学時代からのものであるらしく、生徒たちのみならず教員も把握していた。彼女の思い人にはブームがあるらしく、二か月も経つとツトムは解放され、別のイケメン男子が標的となっていた。それ以来、ツトムは重度の女性恐怖症なのだ。まともに話ができるのは、ミサだけという状況である。
「それよりもさ、ミサはどうなのよ? 今年の大会」
「ああ、テニスの方はほぼ趣味だし、勝ち進めそうにないよ。でも、書道のコンクールは、自信ありかな」
ミサはテニス部と書道部を兼部している。特に書道部では才覚を発揮し、一年生のころから多くの賞をとってきた。学年や性別を問わず校内でも有数の人気者だが、彼女自身はどこかのグループに属すことなく、ツトムやキヨヒコと一緒にいることを好んだ。
「さすがだね。そういえば、校長さんもこの前ほめてたよ」
「え、本当?」
「対局のときに、なんとなくミサの話になってね。『才媛という言葉はあの子のためにあるようなものだ』とかなんとか言ってた」
「サイエンって?」
「才能のある女性のこと」
ミサはまんざらでもなさそうに「ええ、そうかなぁ」と笑った。
「でも、キヨには勝てないよ。この前の模試もすごかったんでしょ?」
「いや、僕より上なんていくらでもいるよ」
「いいなあ、俺なんて下から数えた方が早い」
体格のいい野球部のツトム、才女で人気者のミサ、物静かなキヨヒコがつるんでいるのを、周囲は不思議がっている。しかし、三人からすれば、それはずっと昔からのことであり、周囲の反応にも慣れっこだった。
「そういえばさ、最近トミ婆に会ってる?」
ツトムが言う。トミ婆とは、駄菓子屋のおばあさんのことである。本名がトミ子であることから、三人はいつしかトミ婆と呼ぶようになった。
「私、先週顔出したよ。元気そうだった」
駄菓子屋は三年前に閉店した。トミ婆の足腰が本格的に悪くなったためだ。しかし、車いすを使うようになっただけで、トミ婆は至って元気、減らず口もそのままだ。
「おお、それなら安心だ。俺、最近部活が忙しくて行けてないんだよな。キヨヒコは?」
「僕は先月かな。そろそろ顔出したいな、と思ってたところ」
「じゃあ、今週末でも行くか」
「わかった」
小学四年生の一件から、もう七年以上が経過している。その間、三人は駄菓子屋除霊組として、多くの悪霊を祓ってきた。もちろん、周囲には秘密である。
年に数回、トミ婆がどこからか依頼を引き受けてきて、三人が駆り出される。基本的に三人は「足止め」や「おとり」を担当し、最終的に除霊するのはトミ婆だ。
「トミ婆に会ったら、新しい封魔の呪を教えてやらなきゃ」
「え、また作ったの?」
ミサが目を丸くする。ツトムは近頃、封魔の呪を開発することにはまっているのだ。
「おうよ、いつまでも『うんにょろ』じゃ様にならないからな」
「前の呪って何だっけ? 『天竜なんとか返し!』みたいな。中二病の」
「誰が中二病じゃい。前のは『天竜暗雲返し』。威力としては、『天竜』が『うんにょろ』の半分」
「『うんにょろ』の方が強いの? 初耳だわ」
ミサは理解に苦しんでいるようだ。ツトム曰く、言霊を込めやすい響きや語順があるらしく、様々な文字列を口に出して確認しながら、効果的な呪を練っていくそうだ。一人、部屋でそんな作業にいそしんでいることを想像すると、どこか心配になる。
「今回は、『解夏の五月雨』。聞いて驚け、『うんにょろ』の四分の三ほどの威力があるぞ」
「だから、『うんにょろ』の方が強いじゃん」
ミサのツッコミが鋭く決まる。キヨヒコは聞きながら笑った。
「笑ってるお前はどうなんだよ? 最近、なんかやってるか?」
悔しかったのか、ツトムがキヨヒコに話を振る。キヨヒコは少し考える。
「だいぶ前に、トミ婆に教えてもらった『俯瞰視』は覚えてる? 中学時代はうまく習得できなかったけど、最近もう一回挑戦してる」
「え、あの、あれか? 建物とか敷地の中で、霊や瘴気の位置を俯瞰できるあれか? 三人そろってギブアップしたあれか? 何お前、そんな難しいことやってんの?」
「だいぶできるようになったよ。自分のマンションとか、学校とか、ある程度構造の分かっているところなら」
「ま、マジかよ…」
ツトムが絶句する。
「うわー、さすがね。典型的なコツコツ努力型ってかんじ」
「ミサ、お前はどうなんだよ? なんかやってんのか?」
「ふふん、私はお札をほとんど極めちゃってるからね。今はあれに手を出してるの、魔法陣」
「魔法陣?」
「うん、まだレパートリーは少ないんだけど、大人数を霊障から守るにはもってこいよ」
ミサの能力は悪霊を封じたり、人を守ったりする方向に特化している。お札や魔法陣のような道具は、彼女の専売特許だ。トミ婆も舌を巻くほどである。
ツトムは、悪霊と対面して足止めすることに、自分の役割を見出している。使う呪文そのものはそれほど高度なものではないが、霊力が無尽蔵らしく、どれだけ闘ってもエネルギーが枯渇しない。
キヨヒコは、攻撃も防御も不得意である一方で、霊の存在や特性を察知することに長けている。加えて、瘴気のもとをたどり、霊障を引き起こしている原因を突き止めるのも彼の役目だった。
「なーんか、二人ともすげえな」
「何言ってんの、ツトムがいないと除霊できないんだからね」
「そうそう」
ミサの言葉に、キヨヒコも相槌をうつ。誰か一人でも欠けていれば、除霊組は成立しなかっただろう。
「明日は何だっけ? 学年で行事があった気がするけど」
照れ隠しなのか、ツトムが話題を変える。
「行事ってほどでもないと思うけど、地域のお年寄りの話を聞く会がある」
キヨヒコが言うと、ツトムは露骨にげんなりとした表情を浮かべた。
「あれか、地域の文化を受け継ぐってやつか。いいよぉ、俺はもうトミ婆の昔話だけで十分だよ」
「でも何が聞けるのかな。書道とか神社の話、聞けないかな」
ミサはまんざらでもなさそうだ。
三人は、他愛のない話をつづけながら、帰路をたどる。空は陰り始め、どこかでセミが鳴いていた。
「はい、それでは今日お話しいただく、竹中トミ子さんです」
学年主任が紹介し、三人はあんぐりと口を開けた。車いすを押されて入室したのは、まぎれもなくトミ婆だったからである。
この視聴覚室には、長机が大量に並べられ、二年生全員が一脚に三人ずつ座っている。座る場所はあらかじめ指定されていたのだが、何の因果か、キヨヒコ、ツトム、ミサは、同じ机に座ることになっていた。ちょうど教室の中心にある席であり、否が応でもトミ婆の視線を感じる。
トミ婆は車いすを押してくれた職員にお礼を言うと、マイクを受け取った。
「ああ、皆さんどうも、ご紹介にあずかりました竹中と申します」
三人の聞いたことのない、丁寧な物腰である。ツトムが「トミ婆、猫被ってやがる」とささやいた。
「私はこの地域で、ずっと駄菓子屋を営んでおりました。もう店はやめてしまったんですけれども、もしかしたらこの中にも、もっと小さなころにお会いした方がみえるかもしれませんね」
言いながら、トミ婆は三人の方を見てにやりと笑う。
「駄菓子屋とは別に、とある神社で巫女をやっていた時期もありました。と言っても、ババアの巫女姿を想像しないでくださいよ。これでも若いころがあったんですから」
生徒の間から、かすかに笑い声が漏れた。少しではあるが、場が和らいでいるようだ。
「今日はその神社のことや、駄菓子屋のあった下町のことを中心にお話しできたらと思っております。それと、神社に勤めていますとね、やはり不思議な出来事にも時々遭遇しましてね。そういった、硬くない話も含めようと思いますので、どうぞ一時間足らずですが、よろしくお願いいたします」
結果から言えば、トミ婆の講義は大好評だった。神社の歴史や、下町の成り立ちなどは要点だけをかいつまみ、合間合間に昔流行った都市伝説だの、神社で起こった不思議な話だの、下町に住む人々の濃すぎるキャラクターだの、そういったエピソードや小話をふんだんに盛り込んでいる。高校生のハートをつかむには十分だった。
話の最後に、トミ婆はこう言った。
「長話に付き合ってくれてありがとう。皆さんが少しでも、この地域を好いてくれたらうれしいです。それと最後に、私の駄菓子屋には、昔、常連がいましてね。毎日のように来ては、もんじゃのせんべいを食い散らかしていったんですよ」
そして、三人の席を指さした。
「そこに座っているクソガキ三人。ツトム、キヨヒコ、ミサ。この後、車いすを押すのを手伝いな。先生方の手を煩わせるんじゃないよ」
学年の全生徒がこちらを見て笑う。どう反応してよいのか分からずキヨヒコはうつむき、ミサは苦笑い、ツトムだけが「うっす」と返事をした。
結局、ツトムが車いすを押し、脇をミサとキヨヒコが歩く形で、校長室まで案内することになった。先生たちはそのあとをぞろぞろと付いてくる。教室に戻る生徒たちが、興味深そうにこちらに視線を送っていた。
「ちょっとトミ婆、先週行ったときに、何も言ってなかったじゃん」
ミサが言うと、トミ婆はいじわるく「聞かれなかったから言わなかっただけ」と答える。
「その程度も見抜けないなんて、あんたらの洞察力もまだまだだね」
「それにしてもびっくりしたって。心臓に悪い」
ツトムの言葉にトミ婆が笑う。
「何言ってんだい。そんな体格して気の弱いこと。いがぐり頭のくせに」
「誰がいがぐりじゃあっ」
「キヨヒコはあれだね、うすうす思っていたけど、もっと社交性を磨くべきだね」
突然の歯に衣着せぬ物言いに、キヨヒコはぎくりとする。
「指さされて下向いているようじゃ、先が思いやられる」
「ええ、厳しい…」
トミ婆と三人のやりとりを、教師たちは「付き合いの長いお年寄りとのハートフルなコミュニケーション」と受け止めたようだった。斜め上の誉め言葉を周囲から受けながら、校長室の前で三人はトミ婆と別れる。
別れる直前、トミ婆は三人にだけ聞こえるようにささやいた。
「もうしばらく校長室にいるからね、何かあったら呼びなさい」
三人は表情を引き締めた。トミ婆が「何かあったら」と言うときは、おそらく何かが起こる。だからこそ、トミ婆はこの講義を引き受けたのかもしれない。
教室に引き返しながら、三人はこそこそ相談する。
「これからここで、何か起こるってことか?」
「分からない。少なくとも、僕はまだ何も探知できてないけど」
「キヨヒコに探知ができないなら、俺には無理だな。とりあえず、キヨヒコは俯瞰視で様子を探ってみてくれ」
「分かった」
トミ婆を校長室まで送っていたため、休憩時間は残りわずかだ。授業が始まってしまう前に、少しでも情報を共有できた方がいい。キヨヒコは意識を集中した。
キヨヒコの脳裏に、校舎と校庭の俯瞰図が現れる。一昔前のテレビゲームのような、ドット絵を彷彿とさせる光景だ。まだ明瞭なイメージを構成するまでには至っていない。校舎の中で、オレンジの光がいくつも点滅し、密集や移動を繰り返している。校舎内にいる人間が、このように浮かび上がるのだ。
キヨヒコは、青い渦を探す。霊的なものは、いつもそのかたちだった。微弱な青い渦は、校舎の中にいくつか点在している。理科準備室の人体模型、三階のはずれにある女子トイレの花子さん、校庭の二宮金次郎像。どれも、入学してから三人で確認し、対処してきたものだ。花子と二宮金次郎は、もとから悪さをできないほどに弱体化していたため、少し呪を振りかけるだけで簡単に抑え込めた。人体模型に至っては、害を及ぼすどころか、むしろ学校の守り神になりそうな気配すらあったため、封印の必要がなかった。
青い渦が見つからないため、校舎を各階ごとに切り分けてイメージする。これで少しは見やすくなる。
一階に、何かを見つけた。青い渦には違いないが、色は極めて冷たく、白に近い。外から来たというよりも、地面の中から湧き上がってきたようにも見えた。ただただ、禍々しいものであるということだけが分かった。それは、目的をもって動いているように思える。
「一階にいた。何かは分からないけど、たぶん、やばいやつ。もうすぐ一階を素通りして、二階に上がってくる」
ここの校舎は、一階に一年生、二階に二年生、三階に三年生という配置になっている。特別教室は、一階に被覆室と調理室、二階に理科室と理科準備室、三階にコンピュータ室と生徒会室だ。職員室や給食室、音楽室などは別棟にある。校長室があるのもそちらの別棟だ。
「ちらっと、見てみるか」
ツトムが教室から顔を出し、廊下を覗く。
「出てくるとしたら、どのへんだ?」
「ちょうど、ツトムが今見てる廊下のど真ん中かな」
ツトムの肩が跳ねた。
「マジかよ…」
放心したようなつぶやきを聞き、ミサとキヨヒコも廊下を覗き込む。
授業がもうすぐに始まることもあり、廊下に人の姿はない。その真ん中に、何かが立っているのが見えた。はっきりとは見えないが、男のようだ。髪はなく、肌はどこか軟体動物のような質感をしている。目と鼻と口のある場所には、黒々とした穴が開いていた。もやがかかったような黒い胴は長く、頭が天井につっかえてしまっている。だからなのか、首を不自然に折り曲げていた。手足も不自然なほどに長く伸び、ゆっくりと踊っているような動きを繰り返していた。
目が合う前にと、三人は首を引っ込めた。見てわかるほどに、全員が汗をかいている。
「あれはやべぇ。俺らじゃきつい」
「トミ婆を呼ばないと」
ミサが言うと、ツトムはかぶりをふった。
「どうやって? 別棟に行くには、どうやったってあいつの目の前を通らなきゃいけねぇ。でも、俺たちみたいな霊力の強いやつが姿をさらすのは、逆に刺激することになるだろう」
それについては、キヨヒコも同感だった。見えない人間が近くを通っても、問題になることは少ない。性急に目立つ動きはしない方がよかった。
「それなら、とにかく私は授業中にこっそりお札を用意してみる。無いよりはいいでしょ」
ミサの言葉に、ツトムとキヨヒコはうなずく。
「うまいことに、俺の席は廊下側だ。もし何かが起こるようなことがあれば、足止めできる」
「僕も、モニターし続けてみるよ。何か動きがあれば、二人に合図するから」
チャイムが鳴った。教室に担当教員がやってきて、現国の授業が始まる。三人はそれぞれの席につき、キヨヒコは俯瞰視を、ツトムは廊下の監視を、ミサはお札の作成を始める。
五分ほどが、何事もなく過ぎた。
ツトムが一回、軽く咳払いする。キヨヒコは、将棋の駒を置く要領で、机に定規をぱちりと置く。ミサは、筆ペンの尻を机に軽くぶつける。「異常なし」の合図だった。これらは三人が中学生のころに編み出した方法で、十分、できれば五分おきに、現状を伝え合う。音を立てるのが一回ならば「異常なし」、二回ならば「異常あり。意識を伸ばして確認せよ」、三回ならば「戦闘態勢を作れ」。
授業開始から十分経過、キヨヒコの俯瞰図に異変が起こった。青白い渦が少しだけ揺らいだのだ。これほど俯瞰視を続けているのは初めてだったので、最初は集中が途切れかけているのかと思った。念のため、と思い、定規を手に取る。
また渦が揺らいだ。キヨヒコは動きを止める。ドット絵のようなイメージの中で、その渦だけが生々しく動いている。廊下にいる男の顔が浮かんだ。タコのような、ぐにゃぐにゃとした頭。目も鼻も口も穴が開いているだけだ。その口が、笑うようにべろりとゆがんだ。弾けるような敵意を感じた。
「――来る」
キヨヒコは定規を三回、机にたたきつけた。
教師や周りの生徒がいぶかし気にキヨヒコの方を見る。しかし、構っていられなかった。廊下の男は、一直線にこの教室へ向かっている。
ツトムが勢いよく立ち上がり、教室後方の扉を閉めた。教室の前方に座っていたミサも立って駆け出し、もう一方の扉を閉める。その手には、略式のお札が握られている。
「え」
「何これ?」
生徒がざわめき始めた。窓の外も、教室の扉の外も、突如として真っ暗になったからだ。停電とも夕立とも違う。トンネルに入ったかのように、真っ暗な闇だけがある。
「全員動くなっ」
ツトムの怒号に、教室内が一気に静まり返った。
「頼む、みんな、静かに聞いてくれ。絶対しゃべるなよ。まずは、廊下側の人、できるだけこの教室の真ん中に移動してくれ」
ツトムが仕切っている間に、ミサは教室前方・後方の扉にお札を貼り付けた。キヨヒコは、俯瞰図をイメージし直し始める。
「次に窓側の人も、真ん中に。先生も」
一番落ち着きを欠いているのは教師のようだった。一般常識に凝り固まっている分、こういった非常時にパニックしてしまうのだ。静かにしろと言われたにも関わらず、「これはどういうことだ、早く説明せんか」などと言っている。ツトムはそのすべてを無視した。
「キヨヒコ、あいつは今どうなってる?」
ツトムの声に、キヨヒコは目を閉じたまま答えた。
「近くにいるよ。でも中には入れないみたいだ。ミサのお札が効いてる。それよりも、この教室だけ切り取られたみたいだ」
「切り取られた?」
「この教室以外、俯瞰図が出てこない。この教室しかイメージできないんだ」
ツトムとミサが視線を交わす。そんなことは三人も経験したことがなかった。しかし、ここが異次元であれ、異世界であれ、この教室だけが隔離されてしまったのは動かしがたい事実のように思えた。
「私たちが、逆封印されたようなものかしらね」
ミサが苦笑いする。
突然、前方の扉が大きな音を立てた。何かが突進したようだ。生徒たちが悲鳴を上げた。
「あいつが動き始めた。侵入するつもりだ」
キヨヒコが言う。
ミサがマジックペンを取りだした。
「魔法陣を書くわ。ねえ、誰かトミ婆と交信できないの?」
「俺たちは、テレパシー的な力はからっきしだったからな」
三人とも、脳内の会話をうまくできたためしがなかった。トミ婆は「便利なのにねぇ」と残念がっていたが、どうも三人ともベクトルが違っていたらしい。
ミサは生徒たちの周囲をぐるりと囲むように円を描いた。フリーハンドとは思えぬほど、整った円だ。外側に円を描いて二重にし、周囲に呪文を記していく。
侵入に備え、ツトムは印を結び、全員をかばうように立ちはだかる。
キヨヒコには、赤い光と、それに向かって体当たりする青白い渦が見えていた。赤い光は、ミサの書いたお札から発せられている。赤い光は、体当たりのたびに、急速に弱まっていった。
「もうもたない。入って来るよ」
キヨヒコが言うと同時に、お札が壊れた。破れたというよりも、破裂したと言った方がふさわしい。そして、扉ががらりと開いた。
扉の向こうには、闇が黒々と溢れていた。そこから、異様に長い腕が伸びる。
悲鳴が上がった。
「解夏の五月雨!」
ツトムの声が響き、腕の動きがぴたりと止まる。しばらくして、探るように、腕はまたそろそろと動き始める。
「ツトムのバカ、こんなやばいときにかっこつけてどうすんのよ! そこは『うんにょろ』でしょうが!」
ミサに叱られ、ツトムは「ごめんって」とつぶやく。
キヨヒコは、何とかしてトミ婆とやりとりできないものかと、校舎の残りの部分をイメージ化しようとしていた。しかし、どれだけやっても、ドット絵がパズルのように剥がれ落ちてしまい、校舎の形を作れない。
ブツリ、と音がして、放送が入った。それに反応したかのように、長い腕の動きも止まる。
『あ、あー、皆さん、聞こえるかい?』
トミ婆の声である。ツトムが、「あの婆さん、やっぱりすげぇな」と苦笑いした。
『そのお化けは、なかなかに手ごわいもんだ。ツトムとキヨヒコとミサには、ちょっと手に負えないね』
「分かっとるわい!」
ツトムが吠え、ミサが「ちょっと黙って」とたしなめた。
『私がそこへ行けると一番いいんだが、ちょっとそれも難しそうだ。だから、代わりに味方を送り込んであげる。そいつに頼りなさい』
ミサが「味方って?」とキヨヒコに視線を送る。キヨヒコは、分からない、と首を振るしかない。
『巻き込まれた生徒の皆さん、かわいそうにね。でも、ツトムとキヨヒコとミサがいなかったら、全員死んでたよ。悪いけど、三人の邪魔だけはしないように』
それだけ言って、放送はブツリと切れた。同時に、闇から伸びる腕も、活動を再開する。
ずるり、とタコのような頭も教室の中に入ってきた。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムが唱え、そいつが少しだけたじろぐ。足止めにはなっているようだ。
トミ婆の放送に効果があったのか、生徒たちは大人しく魔法陣の中にいる。教師は意識を手放したらしく、魔法陣の隅に寝かされていた。
「あっ」
キヨヒコが声を上げ、「どうした?」とツトムが振り向かずに声をかけた。
「理科室と理科準備室が復活してる」
「嘘だろ? それが味方?」
ミサとキヨヒコは顔を見合わせる。ミサは大きく瞬きした。
「もしかして、人体模型?」
守り神と化しかけていた人体模型は、たしかに理科準備室にある。その力を借りろと言うのだろうか。
しかし、問題が一つあった。
「でもよぉ、理科準備室行くには…」
「うん、あいつの後ろを通らなきゃいけない」
霊は教室前方の扉から入ろうとしている。教室後方の扉から出て、霊の後ろを走り抜けた先が理科準備室である。
「ミサは、魔法陣でみんなを守ってやってくれ。お札をもっと用意すれば、最悪の事態になっても時間を稼げるだろう」
ツトムの指示に、ミサは「任せて」とうなずいた。
「キヨヒコ、人体模型を頼めるか? 俺があいつを引き付けるから」
キヨヒコも「分かった」と返す。
「いいか、合図したら飛び出せよ。扉は閉めなくてもいいからな。一回、あえてあいつを中に入れたうえで、動きを止める」
キヨヒコはじりじりと教室後方の扉へ向かう。幸い、廊下の男は教室に入ることに躍起になっていて、気に留めていないようだ。
キヨヒコが扉の横についたことを確認し、ツトムは印を少し緩めた。
途端に、獣を思わせる吠え声を発して、男が長い手足をくねらせながら、教室に踊り入る。
「行け!」
ツトムの声で、キヨヒコは闇の中に飛び出した。黒いもやで覆われた廊下を走り抜ける。
横から吠え声が聞こえた。男に気付かれたようだ。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムが男を引き留めているらしい。
教室内から長い腕が伸び、それが髪をかすめた。しかし、それ以上腕は追ってこない。
理科準備室の扉は廊下に面しているが、常に鍵がかかっている。しかし、理科室の中にも準備室へ通じるドアがあり、そこは基本的に未施錠だった。
キヨヒコは理科室へ飛び込み、ドアノブをつかむ。案の定、扉は開き、キヨヒコは準備室へ至ることができた。
キヨヒコを追おうとする男を、ツトムは何とか引き留めることができた。男が身体を廊下側へ向けたまま、首を不自然にひねってツトムたちの方を向く。
ターゲットを、またこちらに変更したようだ。
うなりながら、身体を回し、接近してくる。
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムの全身がずしりと重くなる。男が何とか前に進もうと、抵抗しているのが分かる。ツトムの肩や背中が、びりびりと揺れた。
ミサは生徒手帳の紙面を裂き、略式の経文を綴っていた。書きあがるたびに、生徒一人一人に渡していく。
「これ全員、持っていて。危なくなったら、あいつに投げつけて」
男はまたじりじりと進み始める。
こまごまとした道具に埋もれている人体模型を見つけることはできたが、いくら思念の波長を合わせようとしても、人体模型は反応しなかった。
悪霊の思念にあてられたのか、それともこちらの世界に飛ばされたときに不具合が起きたのか。いずれにせよ、人体模型を復活させねばならなかった。
キヨヒコは頭を巡らせる。俯瞰視を続けたこともあり、頭の中はもう擦り切れそうだ。右の鼻孔から、たらり、と何かが垂れる感触がある。鼻血が出たらしい。
人体模型をもう一度見つめ、キヨヒコはあることに気付いた。
「心臓が――ない」
「うんにょろかっかそわか!」
ツトムは詠唱を重ねるが、男はそれでもわずかずつ近づいてくる。ツトムの限界も近いのだ。すでにツトムの脚は膝まで教室の床にめり込んでいる。
男の身体は少しずつ膨らんでいる。うねっていた長い腕は、今や柱のように膨らみ、醜悪に脈打っている。
ミサはお札を全員に配り終えた。もしツトムが倒れたとしても、これで当面の間、命の保障はできるはずだ。
男がまた吠える。その声は、象のようにも、ライオンのようにも聞こえる。
男の声で、意識を失っていた教師が目を覚ました。夢の中の出来事とでも思っているのか、「あれ、ここは?」などと言いながら立ち上がる。その足元がふらついた。
ミサが助けようと手を伸ばした時には、もう教師は魔法陣の外へ出てしまっていた。さらに悪いことに、彼は先ほどまで失神していたため、お札を受け取っていない。
男の眼窩に目玉が現れ、それが教師に向けられた。
キヨヒコは人体模型の心臓を探していた。根拠はないが、心臓を見つけ出せば人体模型を動かせるという確信があった。
積み重なった蝶の標本箱をかき分け、並べられた顕微鏡を動かし、ホルマリンケースをどける。しかし、心臓は見当たらなかった。
あとどれだけの時間が残されているのだろう? それすらも分からず、かといって教室の状況を探るだけの余裕はない。鼻血は止まらず、頭がガンガンと痛む。
キヨヒコは人体模型の瘴気を探った。脳が飛び跳ね、視界が点滅する。思わず嘔吐した。もう限界が近い。
キヨヒコは朦朧としながらも、ホルマリンケースを一つ、手に取った。ウシガエルのホルマリン漬けだ。カエルの胴体は、不自然に膨らんでいる。
床にたたきつけると、ケースは砕け散り、カエルが転がり出た。その横に、キヨヒコは倒れこむ。もう縦の姿勢を保つだけの力も残っていない。
カエルの口をこじ開け、中に指を差し入れる。固い何かが手に触れた。
「そわか!」
連続して四回の呪を放った後、ツトムは血を吐いた。そのままがくりと前に崩れる。足が太ももまで埋まっているため、身体は中途半端に傾いたまま止まった。
男は教師に手を振り上げた姿勢で固まっていた。拳がぶるぶると震えているのが見える。再び動き出すのも時間の問題だ。
教師は腰を抜かしてその場に座り込んでいる。魔法陣に戻るのは絶望的だ。
「みんな、投げて!」
ミサが叫ぶ。
生徒たちは戸惑いつつ、男へお札を放り始めた。お札から男に向かって、微弱な稲妻のようなものが走る。男がうなった。
ミサは魔法陣を飛び出し、教師の肩をつかんだ。そのまま魔法陣まで引きずる。教師は失禁していたようで、水の跡が床に伸びた。
どうにか他の生徒の腕が届くところまでミサは教師を運び、後は他の生徒に託した。ミサはツトムに駆け寄る。しかし、彼の身体を引き上げることはできそうにない。
男がこちらを向いた。すでに、お札の効力は残っていないようだ。ミサは印を組む。ツトムのようにはできないかもしれないが、時間稼ぎにはなるかもしれない。
男は迫ってくる。
その時、教室の中に、何かが飛び込んできた。
それは、素早く男の腰元に飛びつく。
「人体模型…」
心臓を取り戻した人体模型は、男に組み付いたまま、右手をその腹部に突き刺した。
男が吠える。
二つの異形が組み合っている脇を、ふらふらのキヨヒコがやって来た。鼻血を垂れ流していている。
「キヨ、ありがとう」
「まだだ。ツトムを引き出そう」
男の力が弱まり、ツトムの足元もかなり緩んでいる。ミサとキヨヒコは二人がかりでツトムを引き抜いた。そのまま、魔法陣の中に運び込む。
「全員、しゃがんで、目を閉じて」
キヨヒコが言う。生徒たちは大人しく従った。
男が吠え声を上げた。
三人は、保健室のベッドで同時に目を覚ました。
教員たちが心配そうにのぞき込んでいる。その一番端に、トミ婆の姿があった。
「まあ、あんたらにしては、よく頑張ったね」
トミ婆はにやりと笑った。
この一件は、表向きは不審者事件として処理された。黒ずくめの男が一教室に侵入、立てこもったのち、逃走した。生徒たちと教師一名は強いショック状態にあるが、命に別状はない。男は狂信的な宗教家であり、生徒たちに魔法陣などを使った儀式に参加を強制していた。
しかし、高校の誰もが、教室が一つ、一時的に消失しているのを目撃している。その間、教室があったはずの場所には黒いもやが立ち込め、中に踏み入ろうとしても弾かれてしまう状況だったらしい。
校長室にいたトミ婆が協力を申し出、隣の理科室、理科準備室に手をかざすと、それらも同じようにもやに包まれた。トミ婆はしばらく何かを唱えていたが、その後は「あとはツトムとキヨヒコとミサが何とかしてくれる」と言い放ったそうだ。
当分、学校の落ち着きは取り戻せそうにない。現在は臨時休校中であり、生徒は自宅学習の扱いだ。授業の再開日は決定しているものの、生徒間ではすでに三人のことを怖がる、あるいは極端に神格化する動きが出始めている。
「これは、転校した方がいいのかね」
人気のない公園で、ツトムが珍しく泣き言をいう。
「僕もそれは思ってた。親が何というかは分からないけど」
キヨヒコも同調すると、ミサが神妙な面持ちで言う。
「私は、二人がそうするなら、一緒がいいな」
「このことはなるべく早く風化させなきゃならん。そのためには、俺たちがいるとよくないのかもしれん」
ミサもキヨヒコも、ツトムの言葉にうなずく。
「そういえば、聞いたか? 今回の件の原因」
「いや、僕はまだ何も」
「私も」
ツトムは言いづらそうに、遠くへ視線を向けた。
「あの、ヤンデレ事件の女子がいただろ? トミ婆曰く、どうもあいつが呼んじゃったみたいなんだよ」
キヨヒコもミサも、何も言わなかった。ある程度、想像はできていた。意識的であれ、無意識であれ、ネガティブな感情を生みやすい人間は悪霊を呼び寄せる。
「じゃあ、今まで巻き込まれてきたかわいそうな男子たちが狙われて、その中で特に霊感の強かったツトムがターゲットになった、ってこと?」
ミサが尋ねると、ツトムはうなずく。感じなくてもよい責任をツトムが背負っていることに、キヨヒコとミサは気づいた。
「ツトムのせいじゃないよ」
何といえばよいか分からず、キヨヒコはストレートにそう言うしかなかった。
ツトムは答えなかったが、ミサが明るい声を出した。
「とにかく、今回のこの事件のことを引き合いにして、三人とも、親を説得しよう。それで、どこか別の高校に、そろって転校しよう。ね?」
キヨヒコも「そうだね」と答え、腰を上げる。
「とりあえず、トミ婆のところへ行こうよ。今回の働きに対する報酬をまだもらってないからね」
ミサもうなずいて立ち上がる。ツトムも、やっと笑みを浮かべ、二人に倣った。
三人は、駄菓子屋のあった通りを目指し、歩き始める。
眩いほどの夕日が、駄菓子屋除霊組の後ろ姿を照らした。オレンジ色の道路に、でこぼこな三人の影が並んでいた。
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