第2話『水族館』

 これは同僚のBさんから聞いた話です。Bさんが子どもの頃住んでいた町には、水族館があったらしいんです。

 水族館といってもショーとかやってるような本当の水族館じゃなくて、市民館の地下にいくつか大きな水槽があって、いろんな魚が展示されている部屋があったのをそう呼んでいたらしいです。

 Bさんは当時引っ込み思案な子で、放課後は誰と遊ぶこともなくその「水族館」に入り浸っていました。

 不思議なことに、Bさん以外のお客さんが来ることはあまりなく、来ても一人か二人だったため、すごく気楽だったといいます。

 Bさんが特に好きだったのは、「海のトンネルコーナー」と言うコーナーで、薄くて天井まである水槽が、ちょっとした迷路みたいにいくつも並んでいるところでした。中にはサメとかクジラとかイルカとかによく似た、手のひらに収まりそうなくらいの小さな魚達が泳ぎまわっているんだそうです。Bさんは毎日閉館までそこを行ったり来たりして魚を眺めるのが好きでした。

 ある日、Bさんがいつものように「海のトンネルコーナー」を行ったり来たりしていると、ふと視線を感じました。薄い水槽ですから、向こう側が見えるんですよね。視線の主は当時のBさんと同じくらいの年頃の男の子でした。魚を見ていると言う感じではなかったそうです。その子は明確にBさんのことを見つめていました。

 不思議と怖くはなかったそうです。寧ろ初めてあったとは思えないくらい慕わしい気持ちになったと言います。

 男の子が優しい表情で手招きをするので、Bさんはトテトテと水槽の向こう側に走っていきました。すると、さっきまで反対側にいたはずの男の子は、何故か自分が元いた側にいます。

(入れ違ったのかな?)

 そう思いながらもBさんはまた元いた側に走っていきました。するとまた、男の子は逆側に移動しています。

(からかってるなぁ?)

 Bさんはなんだか楽しくなってしまって、夢中で走り回りました。薄暗い部屋の中、追いかけっこをしているような気分になりました。でも何度走っても、男の子は水槽の向こう側にいます。

 少し疲れてしまったBさんは、相変わらず向こうで手招きをしている男の子の顔をよく見ようと水槽に顔をピッタリと近づけてみました。その時です。Bさんが「そのこと」に気づいたのは。

 男の子は、水槽の向こう側ではなく、水槽の中にいたのです。

 黒く長い髪を魚や水流に弄ばせながら、変わらず優しく笑っています。

 Bさんが声も出せずにいると、男の子はふと、口を大きく開けました。

 その中には歯も舌もなく、ぷつぷつと泡立った肉だけがあります。

 紫や緑にてらてらと輝くその肉が、パチンとはじけてはまた泡立つのを、Bさんはしばらくぼうっと見つめていたそうです。

 ふと、唇に柔らかい感触がして、Bさんは我に帰りました。状況の異常さに気づき、全身が総毛立ちます。慌てて水槽に背を向けると、無我夢中で走り出しました。後ろから追い縋るような視線を感じながら、それでも走り続け、気がつけばBさんは家路についていました。

 その後、Bさんは一度も水族館に行くことはないまま過ごし、しばらくして親の転勤で街を離れました。

 転勤先の学校では友達もできて、Bさんはだんだん水族館のことを忘れていったそうです。

 数年経って、Bさんはたまたま、本当に偶然その町の寄ることがあったそうです。

 ふと水族館でのことを思い出したBさんは、水族館に行ってみることにしました。すっかり昔のことで恐怖も薄れていたし、なんとなくあの時の男の子のすがりつくような視線を思い出したからです。

 しかしBさんが市民館の階段を降りていくと、そこに水族館はありませんでした。代わりに大きな駐車場があって、車が何台か止まっています。

 驚いたBさんが市民館の年配の職員さんに聞くと、「そんな施設がうちの地下にあったことはありませんよ」と訝しげに答えられたらしいです。

 それからは本当に一度も、Bさんはその町に戻っていません。

 今Bさんは、奥さんと二人のお子さんと一緒に、普通に暮らしています。男の子の顔も、もう覚えていないそうです。

 「でも時々、あの唇の感触は思い出すんですよね。なんていうか……キスされたみたいな」

 そう言って口を開けて笑うBさんの舌は、噛みちぎられたように先端が平たくなっていました。

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