悪魔を知る者

七生 雨巳

第1話




 その子にとって初めての馬車だった。

 大きな丸い月を小さな窓から覗き見るのは冴えた光に照らされる白く幼い顔である。ぼんやりとした苔のような色の双眸が月光を宿して揺れる。

 馬の歩みに連れて揺れるたびに、空に結ばれた残像の白い月が消えてゆく。

 ゆらゆらと。

「ゆらゆら」

「ダヌシュさま?」

「ゆらゆらゆら」

「お嬢さま?」

 同乗する男ふたりが心配そうに声をかけた。

 まだ十を超えてはいないだろうダヌシュと呼ばれたその子は、熱に浮かされたように潤んだ眼差しを対面の座席に座る男たちに向けた。

「あなたたちはだぁれ?」

「ダヌシュってだぁれ?」

 か細い声が歌うように呟いた。

「ダヌシュ?」

「ダヌシュ?」

 熱に浮かされたような苔の緑の双眸はふたりを見ているようでいて見てはいない。

 芸術家めいて白く長い指が、両側からその子の頬に触れる。

「あの子は触られるのはイヤなの」

「イヤなの」

「イヤなの」

 頭を左右に振るダヌシュの双の瞳からは涙が溢れ出していた。

 ふたりの指がダヌシュの頬から離れる。

「お嬢さま」

「ダヌシュさま」

 鞭が空気を裂く鋭い音と宵闇を裂く馬の嘶きが馬車と一体化し夜の森の中を貫いていく。

 座席に座った若い男たちはきつく握り締めた手を腿の上に杖のように突っ張った。俯いたふたりの額を髪が隠す。

「申し訳ございません」

「申し訳ありません」

 全身を震わせる二十半ばの男たちの隠された白い顔には深い悔いが刻まれていたが、当然ダヌシュからは見ることはできない。

 白いレースの飾りに半ば隠された小さな掌の上には小さなサファイヤがついた銀色の指輪がコロリと光を弾いていた。

「ダヌシュは決して許さないのよ」

「許さない」

「許さないの」

「みんな、みぃんな許さないのよ」

 幼い子どもには似つかわしくない壮絶なまでの憎悪を宿して、それでいながらあどけなくダヌシュは歌うように呟いた。



*****




「ルカーシュ」

 可愛い子だ。

 金の髪の少年を膝に乗せ、頭を撫でる。

 体格のしっかりした十ほどの少年だった。

「私の、ハーナ公爵家はお前にあげよう。だから私から離れてはいけないよ。離れたりすれば」

 裏切り者は、

「殺しちゃうからね」


 ハーナ公爵モイミールは享楽家である。金の髪とエメラルドの瞳の美男であるが、手段を選ぶことなく快美に耽るその性格ゆえに都から遠く離れた公爵領では恐れられている。

 多くの芸術家を庇護するディレッタントでありながら、ひとを痛めつけることで悦楽を覚えるのだ。その二面性は領地では広く知られている。興にのっては城下に下りて領民をさらってはいたぶることで有名なのだ。取り巻きである美少年たちを引き連れて、時によってはその両親や子どもたちの目の前で繰り広げる残酷な饗宴は、領民たちにとっては悪夢であった。

 そんなモイミールにも政略で娶った妻があった。名をダヌシュ。ふたりの間の息子の名前をルカーシュと言った。しかし妻子の姿をその目で直に見たものはいない。

 ある日、いつものように公爵は城下から子どもをひとり拐ってきた。

 それはその子どもにとっては地獄の幕開けと思われた。誰もが子どもの不幸を哀れんだ。

 まだ幼いふわふわとした金髪の幼子を、公爵は同好の士を集めた夜会で蹂躙したのだ。

 しかし。

 パトリクと呼ばれた少年はその環境にしたたかに且つしなやかに馴染んでみせたのだった。その受容は死から逃れるための悲しいものであったのだが、パトリク自身そうとは気付いていなかった。

 与えられる嗜虐を快美と認め、求められるままに全てを受け入れることを覚えた。剰え公爵の意を汲んで男を誘う手練手管さえ覚えたのだ。

 自分によく似た色彩を持つ美貌の少年のその変貌に、公爵は歓喜した。そのうえ彼自身思いもよらぬことに、耽溺したのだ。彼はそれまで可愛がっていた取り巻きたちをふたりして苛みすらした。泣き叫ぶ少年たちを笑いながら最終的には死へと追いやる。そんなことさえも楽しいことだと。

 パトリクは我が儘三昧が許された。

 しかし彼に与えられたのは公爵とその同好の士が好んで居着いた離れの一部屋であり、どれだけねだろうとも本館には足を踏み入れることを許されなかった。

「どうせ僕なんか平民だし、孤児だし」

 ぷいと顎を持ち上げて顔を背けて嘯けば、

「今のお前を見て誰が平民で孤児などと思おうか」

 そう言って公爵は抱きしめ、

「お前は私の可愛い子だよ」

「ルカーシュより?」

 上目遣いで見上げると、

「当然だ。あの女にそっくりのあれなど」

「なら、僕のこと愛してる?」

「もちろん」

 言いざま深くくちびるを合わせた。

「可愛いお前は、私の理想の少年だ」

 くちびるを耳元に移し、ささやきかける。

「愛しているよ」

 そのことばに、ふふと笑って、

「なら許してあげる」

 でも、いつかはね。

「わかっている」

 約束だからね。

「ああ。いつかは本館に部屋をやろう」

 より深い含み笑いをして、

「嬉しい」

 パトリクはモイミールを抱きしめたのだった。



 ふたりがそんな話をしてほんの一年にも足らぬ後に、ダヌシュが亡くなった。

 残されたルカーシュが八つになった年のことだった。

 黒い髪に緑の瞳のルカーシュはダヌシュそっくりの少年だった。神秘的な美貌が己の美を誇っていたモイミールをして引け目を覚えさせずにはいられないほどの。だからこそ、モイミールは己の妻であるダヌシュも、血を引く息子であるルカーシュをも嫌っていたのだ。そんなことで? と、第三者は思うだろうが、モイミールにとってそれは絶対的なことであったのだ。



 今宵も悲鳴が響く。

 年端もゆかぬ子どもの痛々しい苦痛の悲鳴だ。

 約束通り本館に部屋を与えられたパトリクがモイミールの膝の上、ルカーシュの哀れなさまを楽しげに眺めている。

「それちょうだい」

 モイミールが口をつけたグラスをねだり、一口ワインを味わう。

 ふたりの背後にはルカーシュの甚振られる様子を画布に描きとっている男たちが控えていた。

 白い肌に巻きつけられた色鮮やかな紐が巻きつく蛇を彷彿としルカーシュのからだを撓ませる。年の頃三十前後の男たちが淡く色づいた蕾を暴こうとしている。

 イヤだと。

 痛いと。

 蝋燭の灯火がちろちろと悪魔の舌のようなほのめきを見せて踊る。

 ひとをひととも思わぬ、己の息子を息子とさえ思わぬ酷い扱いである。

 たとえ使用人相手であったとしても、ここまでの暴虐が許されることはないだろう。

 しかし、相手はこの城の、ひいては土地の支配者である。

 血の繋がった父親である。

 誰ひとりとして彼に逆らうことができるものは存在しなかったのだ。

 

 

「これ以外ぜんぶなくなっちゃった」

 いきなり入ってきた同い歳ほどの金髪の少年とやはり金髪の男に、部屋を追い出された。連れてこられたのは、離れの一室だった。

 これからはここがお前の部屋だと言われて、途方にくれた。

 雑多なものがあちこちに転がっている部屋の中、そこだけがましだった窓辺のソファに腰掛けて、ルカーシュは胸元の金鎖を手繰った。ぽってりとした歪なサファイヤのついた銀の指輪が掌の上に転がり出る。

 何が起きたのかわからなかったのだ。

「お母さま………」

 ダヌシュが首にかけてくれた大切な指輪。

「あなたのものよ」

 これはね、形見なの。

 誰の? と訊ねたルカーシュに、大切な人の形見なのよと微笑んだ。あの時の母親の寂しそうな表情をルカーシュは今も忘れてはいない。

 誰かが近づいてくる慌ただしい足音に、指輪をどうすることもできなかった。

 勢いよく開かれた扉から踏み込んできた傍若無人な男たちにルカーシュは引き摺り出され、まだ性に目覚めていない少年にとってはただの暴虐に過ぎない行為の犠牲となったのだ。

 もとよりモイミールの仲間である者たち以外、ディレッタントの仮面を被った公爵の庇護を受けている芸術家たちは二つのグループに分かれていた。公爵の行動を容認できる派とできない派である。とはいえ、できないとしても積極的な行動に移れるはずもない。公爵の庇護下から離れることは、これから先の生活の保証はないに等しいということであるからだ。視線を逸らし、見て見ないふりをする。そんな中、まだ年若い芸術家ふたりだけはルカーシュに手を差し伸べた。公爵の目のないところでだけだった。それでも、ほんのわずかなものにすぎなかったものの、彼の救いとなったのには違いない。



 けれど。

 まだ奪うものがあるのだと。

 悪意のある神がルカーシュを嘲笑う。



「パァパ」

 ベッドの上で、パトリクが甘い声を出した。

「おねだりか?」

「うん」

 汗で湿る金髪を掻き上げてやりながら、

「何が欲しい」

 やわらかく訊ねた。

「僕、パァパの本当の子どもになりたいの」

 貴族になりたいの−−−と。

 だめ?

 上目遣いにねだられた時、モイミールの頭にとあるひらめきが生まれたのだ。

「いいだろう。パトリク。お前を私の息子にしてやろう。未来のハーナ公爵はお前だ」

 少しもなじまない肌を持つ実の息子よりも、この愛しい少年が公爵になる。それは、とても美しく楽しい未来絵図と思えたのだった。

 そうして、自分のことを愛さなかった妻に対する復讐として思いついた非道なある行いにほくそえんだのだ。




 嫌だ−−−と拒絶が豪奢なサロンに凝って砕けた。幾度となくこの部屋で受けた凌辱の記憶がルカーシュを怯えさせる。しかし、それよりすらも、今の状況は不安を煽り立てた。

 ルカーシュは大理石の柱に全裸で縛りつけられ、公爵とその同好の士の視線にさらされている。

 身動ぎすら許さないとのきついいましめは、幾度もの陵辱の跡も癒えぬままの白い肌に血の赤を滲ませている。

 色を無くした肌の色が哀れを誘うが、彼に向けられる視線にはいずれもが残忍なまでの期待が込められていた。彼らの役目はこの時ばかりは、ただの観客である。

 ルカーシュの前には少年が微笑んでいた。いつか見た記憶のある少年だったが、そんなことよりもその瞳に込められた憎悪にも似た何か粘つくような色が淀んでいる。

「あんたって腹が立つんだよね。僕と同じ穴の狢のくせにさぁ」

 違うか。

 僕なんかより汚いくせにさぁ。

 生まれながらのお貴族さまが実の父親に抱かれてるなんてさぁ。

 ここにいる誰にだって足を開くくせにさ。

 なのになんだって僕をそんな目で見るんだよ。

 被害者でござい?

 被害者だから?

 誘ったことないから?

 感じたことないから?

 そんなの免罪符になんかならないよ。

 してることはしてるんだしねぇ。

 クスクスと笑って手にしたナイフに指を滑らせる。

 首を左右に振って、ナイフから目を離そうとしても叶わない。

「これ?」

 気になる?

 僕が何をするか。

 何をするようにパァパに言われてるか。

「教えてあげるよ」

 すぐにね。

 そう言うとくるりと観客たちのほうへと向き直り、

「これよりパァパに頼まれたことをしようと思います」

 にっこり笑ってまだぎこちない貴族の礼を取った。

 それは悲鳴をあげさせるほどの恐怖をルカーシュに与えた。

 短い悲鳴にふたたびルカーシュの方を向き、

「やっと僕を見たね」

 ゾクゾクするよぉ。

 頬をナイフの切っ先がなぞる。そのまま首筋、胸、腹部、そうして。

「ここをね」

 ルカーシュのまだ少年でしかないその箇所を、彼のものよりもわずかに大きな手が持ち上げる。

「パァパは切り取ってくれって言ったんだよ」

 そうしたらね、君は男じゃなくなるからねぇ。男じゃなければ公爵家のあととりにはなれないからねぇ。だぁかぁら、僕と君は入れ替わるんだ。

 違うか。

 僕が君に。

 君はまるっきり違う誰かになるんだ。

「大丈夫」

 ここを切り落としたって死なないからね。

「怖くなんかないよ」

「嘘だ」

「痛いかもしれないけどね」

「………やめて」

 イヤだ。

 僕になりたいのなら代わってあげる。

 だから、そんなことしないで。

「代わってくれるの? うれしぃ………くなんかない!」

 僕が、僕がこの手でパァパのお願いを叶えることに意味があるんだ。

 そうして貴族になるんだ。

 貴族になって、パァパに愛されて、好きなことをするんだ。

 君はそのための踏み台。

「何にも悪いことはしていないのにね。なのに全てを取られるんだ。これ・・までね。だからさぁどうせならねぇ、もっとずっと怖がって欲しいんだよ」

 泣いて!

 叫んで!

 イヤだって!

 怖いって!

 助けて!

 やめて!

 僕を、僕とパァパを怖がってよ。

 恨んで!

 憎んで!

「ああその瞳、ゾクゾクするよ」

 支離滅裂なことを言いながら欲情したかのようにからだを震わせた。

「もう充分だ」

 ぽそりと公爵が呟いた途端、

「うん」

 楽しそうに弾んだ返事と共に。


 そうして。





*****




 馬車は疾駆する。

 森の中を。

 闇に紛れて。


 許さないの−−−と、笑うその子はかつてルカーシュと呼ばれていた少年だった。

 あの日。

 あの時。

 あまりにも酷い扱いを受けた後、面白がった男たちによって凌辱され続けたルカーシュは遂に心を壊した。

 嫌悪と恐怖、苦痛に声もなく涙を流すルカーシュに母親の名前を与えたのは、公爵の悪意以外のなにものでもなかった。ルカーシュの毎日は、母親の名で呼ばれながら実の父親や以前の自分の名を持つ少年をはじめとする複数の男たちに犯されるのだ。それまでも苦痛を感じ嫌悪だけを露にしていた少年が心を閉ざしてしまうには遅すぎる結果と言えただろう。

 しかし。

 離れのあの一室で人形のようにソファに腰を下ろすダヌシュはまるで美しい陶器人形である。その姿に悲しみを覚えるものはこの城には少ない。

 ふたりがダヌシュの面倒を見るようになったのは、心の底からの憐憫と後悔のためであった。

 まさか自分たちの庇護者である公爵が裏で非道の限りを尽くしてるだなどと、どうして想像できるだろう。

 金の髪の美しい親子は傍目から見ても仲睦まじく、そのさまは微笑ましい。

 彼らが領地の城に迎えられた時思ったのはそれだけだった。その裏側に隠された背徳に気づくことなどどうしてできただろう。

 ピアノを弾き、ふたりの肖像画を描く。後は、研鑽をつづけることが彼らに望まれたことだった。同時期に城に招かれたこともあり、ピアニストのヴィートとはよく喋るようになり、彼らは頻繁に共にいることが多かった。

 ふたりが立木に隠された離れの窓に気づいたのは偶然のことだった。

 なにかに導かれるように窓に近づいた。

 彼らはダヌシュを見出したのである。

 まるで神話のピグマリオンのように、その幼いながらも壮絶なまでの美貌に彼らは魅せられたのだ。

 窓の外からカシュパルは少女だと思い込んだままでルカーシュを描いた。

 ヴィートはそんな情景を傍で眺めていた。

 それからしばらくして、ふたりは公爵の裏の顔を知ることになる。

 余人に知られることに問題意識を持っていない公爵とルカーシュことパトリクである。本妻が亡くなってからというもの、客がいようがいまいが、本邸の広間に同好の士を集めての深夜の背徳の饗宴は月に一度は行われていた。それまでふたりに発見されることがなく済んでいたのは、偏に使用人たちの努力の故であった。しかしなにごとにも漏れというものはある。それが意図したものであろうと意図したものでなかろうと。

 その夜。

 ダヌシュの肖像を描きたいと公爵に対して請い願っていたカシュパルは許可されないことに焦れた挙句、行動に移したのだ。

 確かに美貌にも惹かれていた。しかし、何よりも、あの光を無くした苔緑の眼差しが脳裏を離れなかったのだ。それはおそらく、ヴィートにしたところで同じであったのだろう。あの幼い子どもに対してふたりは同じような行動をとっていた。

 離れに続く渡り廊下の途中で人の気配に彼らは咄嗟に柱の影に隠れていた。

 その目の前を、ダヌシュを連れたルカーシュが本館へと向かって行く。

「早く! このグズ」

 ふたりが知る貴族らしい立ち居振る舞いのルカーシュとは違和感のある荒々しい動作でダヌシュの腕を引っ張り小走りに向かう。

 顔を見合わせたふたりは彼らの後を追った。

 視線の先で繰り広げられる背徳の宴を、ふたりは呆然と見つめるよりなかったのだ。

 そう。

 目の前の狂った宴の主は公爵以外にはあり得ない。そうしてもてなされる男の贄はダヌシュである。

 少女の格好をしたダヌシュがその男の膝の上で静かに座っている。その緑色のドレスの左右を合わせる真珠のボタンをナイフの切っ先でいやらしく毟り取って行く男は、人形嗜好であるのだろう。脂下がった表情の中にあるギラギラとした視線が滑らかな頬に据えられている。やがて、全ての真珠が床に転がると、開いた身頃の隙間から手を差し込み、ぷっくりと腫れた乳首が目立つものの哀れなほどにわずかのふくらみすらない胸の下できつく合わせてつけられているコルセットの紐を解いた。硬いコルセットが剥ぎ取られ放り投げられる。たくし上げられるスカート部分。白く幼い足が腿が、シャンデリアの灯に照らし出された。奥の部分は影に隠れて見えはしない。しかし。手を伸べた彼に応えて男がひとり蝋燭を手に近づいた。ゆらめく火に大切な箇所が仄めく。

 ねとりとした光を宿した幾対もの視線が、ダヌシュの痛ましい箇所に向けられる。

 それでもダヌシュが反応を見せることはない。

 男の望み通りの、されるがままのただの生きた人形。

 ルカーシュが公爵の耳元でささやいたのは、「あの趣味ってあれ面白いの?」という疑問。公爵はただ肩を竦めることで返事に代えた。



 ダヌシュを救い出したいと考えるようになったふたりだったが、簡単に済むはずもない。

 ピアノの音色に微かに反応を見せることに気づいたのはどちらが先であったのか。ピアノを介在させることでダヌシュの意識を現実へと立ち戻らせようとしつづけた。

 以来数ヶ月。

 ダヌシュの母方の親族に密かに連絡を取り、受け入れを整えた。

 そう。公爵家から救い出しただけではダヌシュが生きて行くことはできないのに違いない。酷い生活を強いられていたとはいえ、生まれも育ちも貴族なのだ。市井での生活は、向いていないだろう。

 後は御者になりうる人物と馬車とを手に入れたのだ。

 彼らができたのは、それだけだった。

 そうして、公爵が城下町に狩りに出かけたその夜、ふたりはダヌシュを連れ出したのだ。



 微睡まどろむダヌシュを見つめる眼差しには優しさよりも苦しみが強く現れていた。彼らは自覚していた。己たちもまた、あの時まごうことなき劣情をダヌシュに対して抱いてしまったのだということを。

 陶器のようななめらかな頬の感触。

 やわらかな手の手触り。

 痛ましいほどに軽い体重。

 なにも見ていない瞳。


 カシュパルとヴィートは内心の焦りを押し隠す。

 城下町とは反対に位置する森を抜けてダヌシュの母親の生家がある公爵領へと向かう。

 十日はかかるだろう距離である。 

 できるだけ距離を稼がなければ。

「急いでくれ」

 急かすも、

「雨が降り出してます。これ以上は無理です」

 返ってくる御者の声からは紛れもない焦りが感じられる。 

 木の根や枝、大小の石などが転がる夜道なのだ。轍を刻む車輪のたてる音に飛び出してくる獣はいないだろうが、それでも絶対ではない。

 二頭の馬の蹄が地面をえぐる音。

 鞭が馬を急かす音。

 鞭に嘶く声。

 カンテラ頼りの視界の悪さ。

 剰え雨が降り始めたとなれば、馬車の速度は落ちてしまう。

 それらに混じる猟犬の吠え声に、

「早すぎる」

 無力な者の嘆きだった。

「神よ」

「助けてくれるというのなら悪魔であろうとも」

 我らは命を捧げよう。

 どうしてこんな小さな存在に命をかけようとしているのか、わからないままで祈る。

 哀れみはある。

 けれど己の命をすほどのものではないはずなのだ。自分たちは巻き込まれたようなものだ。なにもしてはいない。権力者に敵うはずがない。己の命が危ないというのに。

 そう思うのに、なぜなのだろう。

「哀れみというものは、すでに相手に囚われつつあるということなのだろう」

 ヴィートがぽつりと呟いた。

「だからこそ、自分の命でも惜しくはないということなのか」

 ため息を吐く。

「俺は差し出せる。お前は?」

「ああ。惜しくはない」

 それが間違いのない本音だった。

「しようのない」

「愚かこそが恋である証拠だろうよ」

 笑う。

「そうだな」

 こんな年端も行かない子ども相手に恋だなど、笑うしかない。

「我々ふたり分の命を捧げよう」

 神か悪魔かは知らない。

 ダヌシュを救ってくれるというのならばどちらでも構わなかった。

 いや、いっそ悪魔こそ公爵に勝てるのかもしれない。

 空に向かえばいいのか、地に向かうべきか。

 ふたりはただ右手を胸に当てた。




*****




「あの子は嫌なのよ」

 無意識に頬を濡らすなみだと左右に首を振るはかなげなようすがパトリクの嗜虐心を煽る。ただし、モイミールが背後から抱きしめているのでなければ−−−である。

「パァパは僕のもの」

 力任せに肩を掴み引き剥がす。床の上に倒れたダヌシュの素足が目に眩しい。

「パァパはソファに座って。僕はパァパの膝の上」

 座面を両手で叩く。それに従って腰を下ろしながら、

「ルカーシュはかわいいな」

 頭を撫でる手をふふ………と含み笑いを漏らしながら目を細めて受け入れる。

「好き」

「私もだよ」

 返されて目を細めてダヌシュを見る。

 お前には返さない。

 僕こそがルカーシュ・ハール、ハール公爵の一人息子なのだ。

 乱行のかぎりを尽くさんとする男たちが城下から拐ってきた子どもたちを弄んでいる。その中の数人が舌舐めずりをしながらダヌシュの剥き出しになった足を見ている。

「やれ」

 気怠げなモイミールの命令とも言えない命令に、三人の男が弄んでいた少年を放置した。


 やめてください−−−と、檻に閉じ込められたヴィートとカシュパルが髪を振り乱して叫ぶ。

 もうこれ以上ダヌシュさまを苦しめないでください−−−と。

 その言葉はパトリクの心に苛立ちを芽生えさせた。

 僕の時には誰もあんなことしてくれるひともいってくれるひともいなかったのに。だから独りで頑張ったのだ。苦しくても痛くても辛くても、全てを受け入れ公爵の希望のままに振る舞った。そうして望みは叶った。

 残酷で美しい公爵の実の息子になれた。けれど、あそこまでしなければなれなかったのだ。

 だから、憎いと思ったのだ。

 公爵よりも美しい母親と生写しの息子。ふたりはあまりにも神秘的で同じ人間には見えなかった。汚いことなど知らない顔をして、ただ薄く微笑んでいる。

 公爵がなにをしているかも知らないのに違いない。

 自分がされていることもしていることも何もかも。

 だから、こっそりと本館に入り込んだのだ。身は軽い。高い塀をよじ登り、ささやかな隙間から室内に入り込むことなど容易い。

 教会の孤児院にいた頃に覚えた薬草や毒草の知識が役に立った。心臓が弱いという話の公爵夫人の枕元のデキャンターにこっそりとそれを混ぜ込んだ。それだけのこと。心臓発作に似た症状で彼女は死んだ。

 思いもよらぬことだったのだろう。呆然と棺のそばに立ち尽くして母親のデスマスクを見下ろしていた黒髪の少年。目元を染めたその横顔の美しさが脳裏をよぎった。

「こんな、あんたたちのことなんかわかってやしないやつを助けようとしたんだ」

 残念だね。

 感謝ひとつしやしないっていうのにさぁ。

 愚かさを嘲る。

「そんなもの望んでいない!」

「ただの自己満足だ」

 鎖と檻とがぶつかる音が重々しく響く。

 ふたりの言葉に腹が立った。

「よ〜くわかったよ」

 ニヤリと笑ったパトリクは、三人の男たちに弄ばれていたダヌシュに軽やかな足取りで近づいた。

「そんな人形抱いて楽しい?」

 興奮にことばもなくうなづく三人も、趣味の集まりが終われば貴族の当主として妻も子もいる。こんな背徳の顔があるなどと、家族は夢にも思わないだろう。そんな三人に陵辱されながらただ天井に視線を向けているだけのダヌシュを見下ろして、ルカーシュは鼻で笑った。その視線が、ふととあるものに向けられた。


 檻の中に鎖で捕らえられたままの、カシュパルとヴィートは目を瞑る。耳を塞ぐことはできないままにくちびるを噛み締めた。




*****




 痛い。

 熱い。

 苦しい。

 気持ち悪い。

 揺れる視界に吐き気がする。

 ここは地獄だ。

 ダヌシュは思った。

 自分をいじめる男たち。

 自分から色々奪い取ったルカーシュ。

 自分を嫌ってやはりいじめるモイミール。

 お母さまがいなくなってから、ここは地獄なのだ。

 たくさんの男たちが気持ちの悪いことをしてくる。

 痛くて暑くて苦しくて気持ちが悪い。

 誰か。

 誰か。

 誰か。

 いつかお母さまが話してくれた大切なひと。

 父親ではなく。

 お母さまが愛したというひとの形見。

 そのひととの約束。

 その証の指輪。

 あれはどこに行っただろう。

 ダヌシュは首元に手を伸ばした。そうして、手に触れた感触にほっとした。これだけは奪われなかったのだ。ころんとした手作りの指輪は磨かれることさえなく黒く変色している。おそらくはそのためにルカーシュの興味を引くことなかったのだろう。

 けれど。

 モイミールによく似た青の瞳が長い紐の先にある黒ずんだ銀の指輪に向けられた。

「なに? これ………銀なの?」

 安っぽいの。

 嘲笑しながら引っ張った。

 ぷつりとあっけなく紐が切れた。

「ぼくの………」

 我が意を得たり。

 ルカーシュが声を出して笑った。笑いが大きなものへとなっていく。

 それにあわせるかのように遠雷が少しずつ近づいてきた。

 ルカーシュが勝ち誇って、

「お前のものなんかここにはなにもないんだ」

 年相応の高く澄んだ声で叫んだ。

 その時。

 一際鋭いいかづちが天から下された。

 けたたましい音を立ててガラス戸が砕け散る。

 シャンデリアの炎の大半が消える。

 風が広間に雨と共に吹き込んだのだ。

 男たちが思わぬ現象に悲鳴を上げる。

 吹き込む風雨にカーテンは濡れ煽られ、近くにあった花瓶やデカンタ、グラスはテーブルから落ちて割れくだけた。

 お開きに−−−と、我に帰ったモイミールが言うより早く、まばらな灯火のはためく天井に歪な人影が投影された。




*****



 気がつけば外だった。

 わぁわぁと騒ぐ人々が指差す先を見て、カシュパルとヴィートは目を見張った。

 状況を認識した途端、ものの焼ける匂いが鼻腔を満たす。

 石造りの城が燃えていた。

 慌てたように走る使用人のひとりを捕まえて、

「なにがあったんですか」

 訊ねた。

 返ってきた答えは、

「雷がちょうど広間を直撃して………」

 罰が与えられたと、どこかで小さく呟く声が聞こえた気がした。

「ああ」

「そういうことか」

と、ふたりは顔を見合わせる。

 落雷は、広間を直撃はしなかった。

 あの後、まるで遅れてカシュパルとヴィートの祈りが通じたかのように、黒衣の人影が広間を支配したのだ。

 決して人間ではありえぬ白い容貌に際立つ赤いくちびる。それらがシャンデリアに残った蝋燭の光にチロチロと照らされて、なんとも壮絶なものと見えた。

 誰だ。

 どこから。

 ほとんどのものが全裸か半裸というぶざまなようすで問い質す。

 早くなった雨足に、ふたたびみたびと雷鳴が轟いた。

「我をんだは誰ぞ」

 低い声が広間に響く。

 男の長くうねった黒髪が風に煽られて不気味にうねる。

 硫黄の臭いがしたと思ったのは気のせいだろうか。

 悪魔−−−と、背筋が震える。

 思わず後退り、鎖が檻が音を立てる。

 男がふたりを見たような気がした。

 チロチロと瞬く蝋燭の明かりを宿して、カーネリアンのような赤い双眸がギラリと光った。

「そなたらか」

と、尊大な声で低く呟いた男が薄い朱脣をぐにりと嗤いの形に歪めた。

「命と引き換えのそなたらの望みは」

 嘯くような声だった。

 −−−そこなの子を救うことであったか。

 ぐるりと広間を探るように見渡しいまだ三人に囲まれているダヌシュを見つける。途端、その白い顔に刹那の空白が宿ったとカシュパルは思った。

 雨足が鈍る。

 雷鳴が一際大きな音を立てて耳をつんざいた。

 カーテンと同じく、男のまとう黒いマントが翻る。長髪がうねる。クラバットが揺れる。白皙に陰影が踊る。

 −−−そうであったか。

 そうであったのか−−−と。

 わななくような震えが男に人間味を与えていた。

「そなたらの願い、確かに!」

 背筋が粟立つような声だった。

 男の形良い指がダヌシュを囲む三人に向けられた。それだけで、男たちは喉を掻き毟りもがいて息絶えた。その形相は男たちの苦しみをまざまざと物語っていた。

 空気が凍りつく。

 ふたたび男の指が何某なにがしを指し示した途端、もがき始めた次の犠牲者の様に空気が砕けた。

 我先にと無様な様で広間から逃げ出そうとする男たち。

 しかし、悪魔であろう存在の前でその足掻きはあまりにも甲斐のないものであった。

 次々と男たちがもがき苦しみながら死んで行く。

 カシュパルとヴィートはそんな地獄の光景を檻の中から見ているよりなかったのだ。

 そうして累々たる屍の中に、ただの五人だけが残された。


 −−−悪魔を除いて。

 

 轟く雷。

 閃く雷光。

 吹き荒ぶ風。

 逃げることさえ許されず業火に焼かれるモイミールとパトリク。

 魂消たまぎる絶叫が、ひとの焼ける臭いが、カシュパルとヴィートの記憶から消えることはないだろう。

 彼らはルカーシュ・・・・・の心とからだ・・・とが元に戻るまで許されることはないのだ。そう。詰まるところ赦しは永劫に与えられることはない。

 そういうことなのだ。

 何故なのか。

 何故ふたりは悪魔の炎に焼かれなければならないのか。

 それは、ルカーシュ・・・・・が悪魔と血を同じくするものであったからである。悪魔に肉親に対する情愛があるのかどうか、カシュパルもヴィートも知らない。しかし、目の前の悪魔はそれを持っているのだろう。だからこそ、悪魔は床に放置されたままのルカーシュをマントに包むようにして抱き上げ、

「礼だ」

と言いおいて姿を消した。

 そうして、カシュパルとヴィートとは今まさに焼け落ちんとする背徳の城を見上げているのだ。

 



 悪魔の好むというサファイヤと悪魔を払うという銀。相反する素材で作られた指輪。それが奪われたからこそ悪魔が来たのに違いない。ふたりはそう思った。

 哀れなルカーシュが悪魔のもとで少しでも幸せであるように−−−と、火の粉を舞い上げた城を見上げて祈った。



 悪魔の業火に焼かれた城は不思議なほどの速さで炭と化して崩れた。



 遠雷がまるで悪魔の笑い声であるかのようにふたりの耳にいつまでも残った。

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悪魔を知る者 七生 雨巳 @uosato

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