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 二人が港町の外れにある屋敷を訪れたのは、翌日のことだった。陰鬱な細い雨が降り注ぎ、街は暗く、遠くに見える海は漂う霧に沈んでいる。

 それでも、港から遠いやや小高い丘には、激しい戦禍を潜り抜け、形を留めた大きな建物が幾つか残されていた。こうした場所には街には数少ない商店主や、カリーシャのような町の顔役が居を構えていることが多い。要は裕福な人々の居住域で、レドは普段立ち寄ることも考えつかないエリアだ。姫がどうなのかは、その無表情からは推し量ることも出来なかったが。

 妙に愛想の悪い、お仕着せを着たメイドに案内された応接室で、レドと姫はその屋敷の主である男性との面会を果たしているところだ。

「町長からの紹介と聞いておりますが」

 まだ若い、少しばかり線の細い神経質そうな細面の男は、胡散臭げな表情を隠そうともしない。まぁ、町長――この町の顔役であるカリーシャの遣いが、10代半ばほどの子供と、口の利けない女なのだから、やむを得ないことであろう。

「うん。あんたんとこ、薬を扱ってるんだろ」

 応じるのはレドだ。姫は殆ど喋ることが出来ない訳だから、自然とそういう役回りになる。いざという時のために、不自然ではない程度にソファの隣に座っている姫と手が触れるようにしながら。

「カリーシャ…町長から連絡は来てると思うんだけどさ、あんたんとこから卸された薬についての訴えがあったらしいんだよね。だからちょっと検めさせてほしくて」

「聞いてますんで、それは構いません。ちなみにどういった訴えですか?」

「うーん、実は詳しいことは俺達も聞いてないんだよ。俺は助手で、検めるのは姉さんだから、な?」

 話を振られた姫は無言のままこくり、と頷く。

 つまるところ、そういうことだ。この町の「町長」、人間種族側の代表であり顔役であるカリーシャは、ある程度であれば町の商人達に対しても顔が利くので、町の人からの訴えがあったのでその調査に来た、と言えばどこに行ってもある程度の融通をきかせてくれる。もっとも今回の場合は「訴えがあった」訳ではなく、カリーシャや町議の人間達の調査で引っかかったから、というのが正しいのだが、そこは馬鹿正直に伝えるところでもないので黙っておく。

「そうですか…」

 もちろん、商人の側には断る自由もあるが、断れば勘繰られることになるのは避けられない。迷う素振りを見せる男性に内心レドがひやひやしていると、最初にレドらを案内してきたメイドが何事か耳打ちした。

 何を告げたのか。男が眉根を寄せて、立ち上がる。

「申し訳ありません、話の途中で。少し席を外させていただきます」

 何か言いかけた男性の声を遮るように、扉の向こうでコンコンと誰かがせき込んでいるのが聞こえてきて、レドも目線を上げた。扉の隙間からこちらを覗く、小さな目と視線がぶつかる。

 見たところ、幼い少女のようであった。

「パパ」

 呼ばう声に、男が急き立てるようにしてその少女を廊下へと連れて去っていく。レドが目線をちらりと横に向けると、無言で姫はソファに置かれたレドの掌に、自分のそれを重ねた。

<レド>

 静かな声で、

<あれは悪食よ>

 決然と、伝えられる。視線の先、僅かに開いたままの扉の向こうには、咳き込む幼い少女の背を気遣うようになでる男の姿があった。

 悪食。

 すなわち、死んだ人魚の血肉を口にし、異形と化した人間。

 薄暗い廊下にあって、咳き込んだ拍子に顔を上げた幼い顔立ちの中で、薄い緑の瞳だけが浮かび上がって見えていた。


 




 娘が発作を起こしたので――そう断りを入れた男に代る格好で、二人の案内には、彼を呼びに来たメイドがつけられることになった。三十路ほどだろうか、表情に乏しく険しい印象ばかりが漂っている。屋敷は広いが、住まう人間は二人きり。使用人は彼女一人であるらしい。

 メイドのお仕着せである長いスカートにも慣れた様子で、廊下を歩むその歩調は速い。年の割に小柄なレドは少し小走りになりながら、その後をついていく羽目になった。

「どこ行くんだよ?」

 問えば胡散臭そうにレドを一瞥してから、姫の方へ向き直り、

「薬品類の倉庫です。そもそも薬を検めにいらしたのでは?」

 そうよ、と、姫が頷く所作で同意を伝えれば、彼女は鼻を鳴らし、また足早に先へ進んでいく。

 屋敷に仕えて長いのかとレドから聞けば、少し胡散臭そうな目を向けてから、

「…ここ一年程」

 ぼそりと答えた。愛想は悪いが質問には答えてくれるらしい。そういう調子で道中断片的に聞き出した屋敷の背景はこんなところだ。

 屋敷の主は早くに結婚し、一人娘を授かったが、娘が幼いうちに母親が亡くなったこと。

 主の娘は生まれつき病弱で、一日のうちほとんどをベッドの上で過ごしていた、ということ。

 それが一年ほど前、劇的に、とまでは行かないが、時折発作を起こす以外は問題なく生活が出来る程度に回復したこと。

 そんなことを聞き出した辺りで目的である薬品管理庫に辿り着くと、メイドの女はエプロンのポケットから鍵束を取り出し、錠をがちゃん、と開いた。

「どうぞ」

 昼間と言えども倉庫の中は暗い。そこへ全身黒づくめの姫がするりと入り込むと、白い肌だけが浮かびあがって見える。

 その時。細いせいで骨を想起させるその白い手が、唐突に倉庫を照らすカンテラを持ったメイドの手に触れた。少し間があったのは、恐らく姫が何かをメイドに伝えたのだろう――ほんの数秒の後、メイドが微かに目を瞠った。なぜ、と僅かに口元が動いたように、レドには見えた。

 動揺した様子の彼女に対し、相対する姫の表情は変わらぬ無表情だ。彼女は無言でメイドから手を離すと、同じ手をレドへと差し出す。触れろ、という無言の意思を感じてその手を取れば、

<…ここはもういいわ>

 ――どうして。視線で問えば、彼女は無言で首を横に振る。

<ここに、人魚の躯は無い。彼女が既に調べている>

 彼女、と指示されたのは、先のメイドであった。どういうことかとレドが困惑する前で、メイドが忌々しげに舌打ちをする。

「人間風情に嗅ぎつけられてしまうなんて、私も焼きが回ったわ」

「あんた――人魚か」

 ようやくその事実に思い至って、レドは瞬いた。改めて見遣ってもやぼったい、栗色の長い伸ばしっぱなしの髪の毛を一つに纏めてお仕着せを纏う姿は人間にしか見えなかった――尤も、下半身を二本の脚に変化させて陸に住む人魚たちを、人間と見分ける術は殆ど無いのだが。森妖精ならば耳の形と髪色が特徴的なのですぐに分かるが、人魚は海に居ない限り、本当に人間と変わらない姿と色を纏うことができるのだ。

「…なんだってこんなところに」

「それはこっちの台詞よ、『黒色』が今更何の用なの。私の妹を助けなかったくせに。人間を殺さなかった癖に。おまけに、人間なんかとつるんで…」

 ぴくりと、動揺したように姫が肩を揺らした。それをレドは、ぎゅっと手を握りしめて落ち着かせる。

 メイドの声は恨み言とは裏腹に、幻滅と諦観で低く暗く、どこまでも平板な調子だった。

「…それとも今更、ここの『悪食』から妹を取り返してくれるの?」

「あの『悪食』、あんたの妹を食べた…のか?」

 そうよ、と答える声も暗く、平坦だ。

「同じ時期に、同じ巣で生まれた卵だったの。他の姉妹はみんな戦争で死んだわ」

 だから私にはあの子しか居なかった。それなのに。

 そう告げる声に感情の色がないことが、かえってレドを怯ませる。

 レドは戦争直後の生まれだ。正確に言えば末期に生まれて、物心つく頃には何とか戦争は終わりを迎えていた。人間と人魚はカタチばかりの停戦条約をかわし、お互いに恨みつらみを抱えたまま、この街で暮らしている。

 だから人間を恨む人魚も、人魚を憎む人間も、どちらもそう珍しいものではない。

 ただ、レドにはその恨みも憎悪も、根底の部分では共有が出来ないのだ。だからこういう感情を見せつけられると、ただ怯むことしかできない。

(俺は、誰も奪われたことがないから)

 ――今度は姫が、彼の手を握る番だった。ぎゅ、と握った手からは何の「言葉」も伝わっては来なかったが、それでも彼を落ち着かせるには十二分だ。

「…話を聞かせてくれ。力になれるかどうかは、分からないけど。俺も姫も、――死んだ人魚の名誉だけでも助けてやりたい。そう思ってるんだ」

「人間の言葉なんて信じられるものか」

 メイドの返答は固く、素気無い。取り付く島もないとはこのことだろう。彼女はランタンを手に取り、「用が無いなら戻って」とつっけんどんに二人を追い払おうとし始めた。

 これではらちが明かない。レドが焦る横で、動いたのは姫の方だった。彼女はまたメイドの手を取り――もう片方の手をレドと繋ぐ。これで、レドにも二人の会話が聞こえるようになった。

<見ての通り、私は『黒色』。だからあなたの妹の心残りも、私なら掬い取れる。…お願いだから、力を貸して>

「…でも…」

<レドは、私の、『弟』。信用してほしい>

 どういう、とメイドが何か言葉を飲みかけたのがレドにも分かった。彼女は姫の目を覗き、それからゆるゆると、小柄なレドの方へ視線を移す。

 その視線に初めて、明確に感情が載っていた。どこか怯えたような、理解できないものを見る時の嫌悪にも似た。

「…<望食>?」

 姫は何も答えなかったようだった。レドの手をほどき、彼女は両の手でメイドの手を取る。彼女は一瞬、レドを見て、吐き気を抑えるように胸元をかき抱いた。

 深い嫌悪が刻まれた視線に、レドは今度は特に怯むこともなかった。この手の視線には、もう慣れていた。




 屋敷の主である男、ラクリがメイドの報告を受けたのはそれからしばらく経ってからのことだ。

「あの町からの遣いが――人魚だと?」

「はい。そのようでした」

 二人が話しているのを漏れ聞いたので、とメイドは淡々とそう応じて、彼の後ろ、子供用の寝台を見遣る。そこには薄緑の瞳をとろりと微睡ませる、幼い姿かたちがあった。メイドと目が合うと、その姿はにこり、と微笑む。悍ましい程に、その表情は穏やかで美しかった。

 感情を乱さぬよう、メイドは目線を落として一度息を吸う。今まで半年、この家に正体を隠して人間として雇い入れられてからずっと、この家族に正体が露見するような愚は侵してこなかった。ここで胸に吹き荒れる感情を露わにしてしまうほど、彼女は愚かではなかった。――だってもうそれしか、縋るものが無かった。

 一方で主、ラクリは指の爪をがり、と強めに噛んでいた。俯いたメイドの胸中など、知る由もなく。

「何故、人魚が…? まさか議会の人魚側の勢力からも、探りが入れられているのか…?」

 動揺を露わにするラクリに、後ろから寝台をするりと抜け出して、幼い手が伸ばされる。それ、は小さな手を父の背にあてると、ずっと変わらぬ微笑みを口元に張り付けたまま、優しく囁きかける。

「パパ」

「ああ…リエラ。大丈夫だよ。ゆっくり眠っておいで」

「パパ。リエラは眠くないよ。それより、ママを起こしてあげてよ」

「リエラ、ママは…」

「新しい人魚が来たんでしょう? それなら私の時とおんなじ、食べたら元気になれるよ」

 にこりと。

 微笑む姿はどこまでも、揺れることはない。その感情が揺らぐことは無い。

 ――嗚呼。悪食だ。これは間違いなく悪食だ。嘔吐感を堪えてメイドはじっと俯く。

「ねぇパパ、食べさせてあげてよ」

「…それは…」

 ラクリが、メイドの方をちらと見遣る。怯えの混ざったその視線に、彼女は静かに一礼をした。

「私は何も聞いておりません、ご主人様。…ですが、」

 面をあげて、ゆるりと、笑う。それは演技ではなく。本心からの笑みであった。

「――人魚への恨みなら、私にもありますので。必要とあればお力にはなれます」

 正確に言えば、あの黒い人魚に限って、ではあるが。

 それにもう、彼女には誰も居ない。姉妹のすべてを喪った今、彼女にはもう、同族であろうが人間であろうが、すべて等しく、さしたる感慨もわかない取るに足らない存在でしかなかった。

 青ざめた顔色であったラクリは彼女の提案に、縋るような目を向けた。

「本当に…協力してくれるのか?」

 存外に、彼は追い詰められた状況であったらしい。「町議会」からの詮索も、見た目ほどには落ち着いては受け止められていなかったのだろう。視線を彷徨わせてから、自分の後ろで笑顔のまま立っている娘に焦点をあわせて座り込み、彼女をかき抱く。

「なら、あの人魚を足止めしてくれ。屋敷の外へ出さないように。彼らはきっと、町へ娘のことを報告してしまう」

 悪食は――見る者が見れば、すぐにそれと分かってしまう。だからこそ男はずっと娘を病弱であると偽り、屋敷に閉じ込め続けていたのだから。

「…引き留めてさえくれればいい、その後の対処は私がする」

「心得ました。少年の方は?」

「そちらも同じだ。人間からだろうが人魚どもからだろうが、報告されたら私は破滅だ。リエラも、キーラも、失ってたまるものか…」

 男の譫言めいた言葉を、メイドはもう、聞いてはいなかった。一礼し、踵を返す。薬品を検めるという言い訳を成立させるために、あの二人連れはまだ、薬品庫に居るのだ。

 途中で厨房を通り、包丁を手にとると、彼女は薬品庫へ走った。


 ――彼女が思い出すのは少し前のことだ。


<じゃあ私を餌にして、彼がどこに人魚の躯を隠しているかを突き止めることにしましょう>

 何でもない事のように、黒い人魚はそう提案した。メイドの手を取り脳裏に響かせる語調は、凪の海のように大層穏やかだった。

「…そんなこと出来るかしら」

<協力してもらえれば、上手くいく可能性はあると思う。あなたはまだ、人魚であることはバレていないのよね?>

 確認に、メイドは淡々と頷く。同じくらい淡々とした様子で黒い人魚が続けた。

<私が人魚であること、カリーシャの依頼で探りを入れに来たことを彼に知らせて。そのうえで私を捕らえて、彼に突き出せばいい>

「捕らえて、と言っても…」

 戸惑うメイドに、部屋の扉に身を預けて無言で腕組みをしていた少年がここで口をさしはさんだ。彼は人魚に手を触れていなかったが、話の流れをおおよそ察していたものらしかった。

「説得力が必要なら、俺をナイフか何かで脅したことにすればいいよ。何なら腹でも刺してくれればいい。そこまですれば、あの男もあんたを疑わないだろ」


 そういう訳で、メイドは包丁を片手に薬品庫へ押し入ったのだ。状況を察してか、レドが無言で前に出る。

 彼は面白くもなさそうな表情で、メイドの手を取ると、

「…一応は、痛いんだけどな」

 ぼやきつつ、その手を引き寄せ――酷く無造作に、自分の腹に包丁を突き立てた。

「……っ」

 人の肉を抉る感触が、メイドの手にも伝わる。人間に何の思い入れもないとはいえ、その感触は決して心地良いものではなかった。

<…返り血を浴びておけば説得力としては十分かしら。…行きましょう>

 その様子を、矢張り静かな表情で見ていた人魚姫がメイドの、血にまみれた手を取って告げる。

 彼女達の背後には、腹から血を流す少年が残された。人魚姫は、振り返ることさえ、しなかった。




**


 屋敷の主の前に連れてこられた黒い髪の女――メイドの言を信じるなら人魚であるというその女は、酷く冷めた目で彼を見据えていた。一方のラクリは爪の先を噛みながら、彼女を睨みやる。

「お前、カリーシャの手の者か。あいつは確か、人魚の血肉を回収しているとか聞いた」

 女は答えない。代わりにメイドが囁くような声で告げた。

「ご主人様、この娘は喋れないようです」

「…何」

「理由は定かではないですが。耳は聞こえているようですよ」

 そうか、と主は息を吐きだす。――人間であろうが人魚であろうが、これから殺すものの怨嗟を聴かずに済むならそれに越したことは無いと彼は内心で安堵していたのだ。しかし、困ったことが出てくる。

 この娘から情報を引き出せない、というのもそうだが。

(――人魚はただ殺しただけでは、血肉にならない)

 恨み、憎悪、あるいは強烈な心残り。そうしたものが無い限り、人魚はどんなに嬲って殺したところで泡になって消えてしまうのだ。そのことをラクリは良く知っていた。

 彼は戦争中は後方支援を勤めた男である。医療と薬品の知識を買われ、野戦病院への薬品補給を担っていた。だから直に人魚を殺す機会は無かったが、しかし。

 捕らえた人魚達を、研究のために「解体」する場に立ち会うことは何度もあった。

 殆どの場合、彼女らは生命活動の停止後、腐敗せず、その肉体は泡になっていく。逆に言うと生命活動さえ維持されていれば、「解体」した身体は泡にもならず残るのだが。

(…喰らって効果があるものは、やはり死体だ)

 それも、何度かの実験で判明したことだった。生きた人魚の血肉を喰らうと、どうやら人間の方には強烈な拒絶反応が起きるらしく、脳に致命的な損傷を受けて廃人になってしまう。そのため使い物にはならない。

 だが何らかの理由で人魚に死体が残った場合。その死体の血肉を喰らった人間は、治癒能力の増強や、身体能力の強化といった効果を得ることが出来る。――あるいは、病すらも克服できることが分かっていた。

 問題はその後だ。

 人魚達が「悪食」と呼ぶ、人魚の死体を食った人間は、次第に脳を侵食されて心を喪う。臓腑を、血を、筋肉を。じわじわと人魚の血肉はどうやら侵食していくらしい。最終的には脳を侵され、人間とは呼べないモノに成り果て――更に時間が経過すると、泡になって消滅する。

 ――そうならないためには、人魚の死体を新たに得て食べ続けるしかない。

(キーラの時は失敗した。リエラでは絶対に失敗は出来ない…)

 目の前の、新月の日の夜の海のような真っ黒な瞳を見据えて、男はそう内心に誓う。そのためには。

(人魚を殺し続けるしかない)

 幸いにして、町には困窮する人魚が多く隠れ住んでいた。親切な顔をして雇い入れるか、薬で釣るか。人間に対する警戒心がいかに強いとはいえ、彼女達とて生活の糧が必要なことに変わりはないから、方法は幾らでもある。

 前回彼が殺した人魚もそうだった。人魚であっても構わないと甘言を尽くして雇い入れ、親切に接し続けて警戒心を緩めていき、それから嬲り殺しにする。

 拷問は駄目だ。「死んだ方がマシだ」等と思わせてしまったなら、彼女たちは死亡時に泡になる。適度にこちらを憎む余裕を与えて、それから殺さなければならない。幸いにして、彼女は自分の死後の家族のことを酷く気に病んでいたから、簡単に死体は残すことが出来た。

 とはいえ、それから既に3か月は経過している。死体の一部は娘のために取り置き、他の部位はいつも通りにそれを必要としている者たちへ流したが、そろそろ「在庫」が尽きてしまう。

 今目の前にいるこの黒い少女が人魚だというのなら、こんな好都合なことはなかった。

 問題は彼女の憎悪を、あるいは心残りを、どうやって引き出すか。声が出せないとなると、その辺りを探ることも難しくなる。

 ひとまずは彼女を拘束してしまう方が先だろう。ラクリはそう判断し、娘に声をかけた。

「リエラ」

「なぁに、パパ」

 幼い娘は薄い緑の瞳を丸く開き、彼の背後から顔を出す。それから黒髪の女を見て、ふわりと微笑んだ。

「その人、人魚なの?」

「そうだよ。ママとお前に食べさせるんだ。…分かるね」

「うん!」

 リエラは満面の笑みを浮かべる。子供らしい無邪気な微笑みを浮かべたまま、彼女はスキップして人魚へ近づく。

 人魚の方は警戒する様子も、怯える様子もなかった。ただ夜闇の海のような真っ黒で静かな目で、幼子を睥睨するばかりだ。

 やがてリエラが人魚の手を取る。

「じゃあ、わたしと一緒に行こう?」

 笑み含んで告げられる言葉と同時に、その小さな手がどろり、と溶ける。肘の辺りまでが人の輪郭を喪い、黒いタール状の物質になって人魚の腕を覆っていく。さすがにぎょっとしたのか身を引こうとする人魚だが、既に遅い。腕の半ばを黒い泥に覆われ、彼女は身動きが取れなくなっていた。

「…っ」

 声の出ない咽喉で悲鳴でも出そうとしたのか。口をぱくぱくと喘がせる彼女ががくりと力を失い、その場に崩れ落ちる。リエラに水分を奪われたことによる脱水症状だ。

 背後に居たメイドもまた、顔色を失っていた――こちらも口封じをした方がいいだろうが、それは今優先すべきことではないだろう。

「リエラ、彼女をママのところへ」

 告げれば、リエラは素直に頷き、笑みのまま、人魚から腕――腕だったもの、を引きはがす。黒い泥のようなそれは、すぐさま幼い子供の腕の形を取り戻し、何事もなかったかのように彼女はその手で人魚の長い黒髪を掴んだ。そのまま、本当に無造作に、玩具でも扱うような気軽さで廊下を歩いていく。明らかに自分より遥かに体重のあるであろう人魚を引きずりながら。幼いころ、母に聞かされた歌をハミングしながら。

 その異様な景色を見送り、ラクリは顔色を失い固まっているメイドへ向き直った。

 足止めを、と命じはしたが彼女は何をしたのか、お仕着せのメイド服には返り血が散っている。ここに来るまでにあの人魚の連れであった少年が姿を見せていないところを見れば、彼女が何をしたのかは想像に難くなかった。

 もし彼女があの少年を殺したのであればカリーシャは怪しむだろうし、そうなればこの街で商売を続けることは難しくなる。人魚の血肉を横流ししている「得意先」を思い浮かべ、ラクリは嘆息した。得意先の人物もまた街の権力者ではあるが、「長」の権限を保有するカリーシャ相手に隠蔽工作をするのは恐らくは骨が折れるだろう。そうなればやはり、この街を去ることを視野に入れた方がいいのかもしれない。

(…面倒なことになった)

 海が汚染によって失われたこの街からの脱出は陸路のみだ。外れにある山は妖精族の縄張りだし、そこに至る前には広大な「汚染地帯」がある。人間側の化学兵器と、妖精や人魚の呪詛によって穢され、人間も人魚も妖精も誰も立ち入れなくなってしまった、かつては森があった場所だ。

 そこを回避して、山を越え、隣の町へ向かうのは容易なことではない。

 となれば、矢張りこの場でこのメイドの口を封じようが封じまいが、あまり差異は無いだろう。殺そうが、殺すまいが、この街を去るのならば後始末はどちらにしても不要だ。

 ラクリは億劫さに嘆息し、メイドへ命じた。

「今日はもう帰っていい。…後始末は私の方でしておく」

「…です、が」

「ああ、そうだ。その状態では帰れないだろう、客間のシャワーを使うと良い」

 そこまで言い置いてラクリは踵を返す。もう、このメイドに興味はなかった。それよりも、あの黒髪の人魚をどうやって「殺す」か。まずは私室の金庫に隠している武器を持ち出さなければ。それから、と、彼の頭は目の前のことでいっぱいになってしまっていたのだ。

 だから彼は、自分が立ち去った後、メイドがリエラの去っていった廊下の先を睨むように見据えたことも知らなかったし、彼女が廊下を駆け出したことも、知りようがなかった。






 酷い夢を見たような気がして目を覚ました。

 のそり、と起き上がった姫はその場で嘔吐き、胃の腑の中身をびしゃりと床に零す。朝食べた加工肉と卵と、少しの野菜が、まったく消化されないまま、床にぶちまけられた。

 強い苦みが舌を刺すようだ。涎と胃液と、少々の食べ物の残滓を口の端から拭って、彼女はゆらりと立ち上がる。

 暗く、おまけに辺りは異常なほどの冷気に覆われている。

(ここ…冷蔵室?)

 鈍いモーターの音が聞こえ、姫はそう判断して周囲を見渡した。

 人魚族は人間族に比べると冷気には強い。人間ならば震えが止まらなくなるかもしれない気温の中を、黒いワンピース一枚の彼女は悠々と歩いていく。

 気絶している間に拘束でもされたら少し厄介かな、と思っていたが、どうやらあの「悪食」と、その父親である人間は、脱水症状で昏倒させた人魚が易々と立ち上がることは想定していなかったのであろう。

 姫が「普通の人魚ではない」ということなど、彼らには知りようがないから致し方ないのだろうが。

(普通の人魚なら、水分を奪われたら、しばらくは起き上がれないものね)

 下手をすれば死ぬ。そこは人間も変わりはないだろうが。

 しかしこれではっきりした。あの悪食は、触れた部分から相手の水分を奪う、というスキルまで身に着けていることになる。――相当に「悪食」としての進化が進んでしまっている個体ということだ。

(……あの様子じゃ、食べた人魚は、一人や二人じゃ、ない)

 陰鬱な気分でそれを認めて、姫はそれを振り払うように首を横に振った。今すべきことは、殺され、死体を残すという辱めを受け、それを喰らわれてしまった同族たちを悼むことでも、それを成したあの人間への怒りを募らせることでもない。

 ぐるりと辺りを見渡し、室内を確認していく。整頓されたその場所はどうやら一部の、温度変化に弱い薬品を管理するための場所であるらしかった。最初に案内された薬品庫とは、明らかに別の場所だ。壁一面に配置された棚にはラベルの貼られたガラス瓶が並べられ、地下なのだろうか、窓は無く暗い。それでも辺りを見渡すことが出来たのは、何のことは無い、部屋の中央にカンテラを下げた少女が居たからだった。

「なんだ、もう目が覚めたの?」

 不思議そうに首を傾げているその顔がどろり、と一瞬だけ崩れて戻る。

 ――もう「悪食」として相当に浸食が進んでいるのであろう。何も対処しなければすぐにでも泡になっておかしくないような状態だが、曲りなりにも人の形を保てているのは、未だに人魚の血肉を継続的に摂取しているからか。

 その証拠に、彼女の後ろには大きな水槽があった。その中には。

 ゆらゆらと揺れる、最早人の形を成していない肉塊があった。

 頭部は眼球が片方だけ取り出されていて、空の眼窩が虚空を睨んでいる。そこから首、肩、鎖骨。乳房の部分は既に削り落とされている。

 残っているのは、そこまでだ。肩から先は切り落とされ、胸より下も何もない。切断された背骨が僅かに覗いているばかりだ。

 ゆらゆらと繋がれて揺れる片目だけを残した頭部は、頭蓋が半ば砕かれ、亜麻色の髪の毛が残滓のようにこびりついている。

 腐敗を防ぐために保存液につけているのかと、姫の理解は早かった。それから、酷く冷めた思考で、こうも思う。

 ――可食部が随分とそぎ落とされているから、この死体はもう、廃棄目前であるに違いない。新しい人魚の死体を求めているような発言があったのは、これが原因かと姫が得心した時だ。背後で、重たいドアが開く気配があった。

 少女の父親がもう来たのだろうか、そう思って姫はゆるりと振り返り、からん、と何かが落ちた音に僅かに眉根を寄せた。

「――――――ッ!!!!」

 血で汚れた包丁を取り落とし、声にならぬ悲鳴をあげたのは彼女の予想とは異なる人物だった。例のメイドが、返り血を浴びた格好のままで、そして真っ青な顔をしてそこに立っていたのだ。

「あれ、パパは?」

 不思議そうに首を傾げる少女を突き飛ばすように、彼女は水槽へと転びそうになりながら駆け寄っていった。息も絶え絶えに、その水槽に浮かぶ殆ど損壊しきった死体を前に、一度、二度と強く拳を打ち付ける。

「あ、あ、あああああああ」

 慟哭、としか呼びようがない声をあげて、彼女がそのまま崩れ落ちるのを姫はただ、見ていることしかできない。

 その様子を他所に、突き飛ばされた小さな影がのそりとその場で起き上がっていた。痛い、と口にしてはいるが、悪食に痛覚は無いはずだから、単にそれは彼女の「人間としての記憶」に基づいた行動に過ぎないのだろう。

「酷いじゃないの、突き飛ばすなんて――」

 起き上がった拍子にその足がどろり、と崩れる。あらいけない、と、ハンカチを落としたような気軽さで幼い少女はその足を元の形へと戻すのを見て、弾かれたようにメイドが彼女に掴みかかる――

 のを、姫は直前で制した。メイドの手を捻り上げ、それでももがこうとする彼女に語り掛ける。

<落ち着きなさい>

「フィアが…っ、フィアがあんな姿にっ…されて…! 落ち着いてっ…いられる訳…!!!」

 手で触れた相手からは、時に、強すぎる感情も流れ込んでくることがあった。目の前がちかちかと点滅するほどの強烈な怒りの奔流に押し流されまいと強く瞬いて、姫は再度メイドの手首を捻り上げる。これ以上捩じったら骨が折れる、という程に。それでもなお足掻くのだから、彼女の執念たるやすさまじいものがある。

<…落ち着いて。『悪食』は、そう簡単には、殺せない>

 そんなことは分かっているのだと、彼女が口を開かずともそう、心が叫んでいるのが知れた。

 そんなことは分かっている。それでも。

 それでも。

 血を吐くような叫びは口に出したものだったのか、胸の内だけのものだったのか。あまりに強烈な感情を叩きつけられて、もはや姫には判然としない。

「…ねぇ、ティーナ」

 だが、そこでかけられた肉声に彼女は我に返った。見遣る先、悪食の少女が無表情に首を傾げている。ティーナ、と呼んだのはメイドの名前だろうか。呼ばれた彼女は憎悪、と呼んでもまだ足りないほどの暗い熱量の籠る瞳を悪食へ向ける。その視線を受けて、悪食はゆるり、と口をゆがめた。

「もしかして、あなたも、人魚なの?」

 ――まずい。ぞわりと背筋を這い上がる悪寒に、咄嗟に姫はティーナを庇うようにその手を引いて背後に回す。そこへ、小柄な悪食の両腕がばくり、と割けて、黒い泥が弾丸のように飛来した。

 姫が腕を振るうと、彼女の目の前に透明な水が壁のように出現し、その弾丸を受け止める。そのまま水の中で泥が溶け消えると同時、風船のように弾けた。否、炸裂した。

 飛び散った水滴はまるで針のような形状に転じて、幼い形の悪食へと襲いかかる。

「もう、邪魔しないで」

 正面からその針を浴びた悪食だったが、苛立ちを帯びた表情はそのままだ。針で開いた穴は、ぐじゅり、という音と共に元の形へと戻る。

 その僅かな間に、姫はその細腕で軽々とティーナを抱えあげ、部屋の出口へ向けて走りだしていた。肩に担ぐようにして駆ける先は、部屋にたった一つのドア。

「な、にを…!」

<あなたがいては、足手まとい>

「っ」

 姫の言に、おそらく反論が浮かばなかったのだろうティーナは沈黙する。だが、ドアを開ける直前で姫は眉根を寄せてその場から飛びずさった。

 その後を追うように黒い触手が這い寄ってくるが、これは彼女の腕の一振りで水の針に縫い留められてティーナには届かない。背後を一瞥もしない姫が警戒していたのはそちらではなく、扉の方だ。強く彼女が視線を向けた先、針よりも大きな塊になった水が扉へぶつかり、破裂する。

 破砕された扉の向こう側にいたのは、人間だった。屋敷の主。悪食となった娘の父親が、黒い鉄の塊を構えている。拳銃。

(まずい)

 姫が硬直した。抱え上げたティーナを庇おうにも、背後からも黒い泥の触手が迫っているから選択肢はそう多くはない。どうすれば。

 瞬間の躊躇は、あっという間に命取りになる。

 拳銃が閃いて、真っすぐに鉛の塊が姫の脳天を抉る――

 ――ということには、ならなかった。

「姉さん、何してるんだよ」

 ぴしゃり、という、銃声と呼ぶには酷く軽くて薄い水音と同時、ラクリの手にあった拳銃が何かに弾き飛ばされたのだ。

 現れたのは、赤毛の少年だ。年の割には細い手にあるのは、安物の黄色い水鉄砲だった。彼の腹部には血が滲んでいたものの、平然としたその姿に負傷しているような様子は見られない。

「お、前…!」

 手を押さえたラクリはよろめきながらも、懐からもう一丁、拳銃を取り出す。用意周到なことだ、と少年――レドは口の端をぐっと歪めて、水鉄砲の引き金を引いた。ぴしゃり、とまた冗談のように軽い水音がラクリの二の腕あたりで弾けて、男は声にならない呻きをあげてその場に蹲った。

 じわじわと濡れた二の腕部分に血が染み出しているのを、冷ややかにレドは見下ろす。水鉄砲の銃口をひた、と彼に据えたまま。

「な、なに、何だ貴様――その水は――」

 説明してやる義理が無いので、レドは答えない。玩具の水鉄砲から放たれる水が脅威になりうるのだと、男に痛感させることさえできれば十分だ。

 ラクリの動きをレドが封じたことを確認して、姫が動いた。抱えたティーナを荷物か何かのように破壊したドアから廊下へと放り投げ、背後に迫っていた黒い触手に相対する。彼女が手を動かすだけで、辺りに飛び散っていた水が再度集まり、無数の針となって触手を穿つ。

「何でっ、何で!」

 癇癪を起した子供そのものの声と仕草で、黒い泥の真ん中にいる少女が――悪食が――地団太を踏めば、飛び散った水に黒い泥が混ざり、弾丸のような姿へ転じた。

「邪魔しないでったら…! あんたはもう要らないっ!」

 弾丸が放たれる。一直線にではなく不規則な曲線を描いて襲い掛かるそれを、姫一人で全ては捌ききれないだろうと悪食の口の端が歪む。ラクリを水鉄砲で脅しているレドが微かに舌打ちして、もう片方の手にもう一丁の水鉄砲を構えようとしたが、姫は視線ひとつでそれを拒んだ。

 まるで踊るように。彼女の手がしなやかに動く。

 その動きに応えるように、空中で、水を含んでいた黒い泥は全て停止した。

「なんで…!!! だって、さっきは!」

 姫がくるりとその場で回る。水が破裂し、泥を床へ叩きつけた。びしゃり、と粘性の高い液体の音が辺りに響く。それから彼女は流れるような動きで悪食に肉薄した。肩に触れる。

 触れた先からぐにゃりと粘つく泥へと姿を変えて、それは姫の腕を飲み込もうとしたが、

<無駄よ>

 優しい、とさえ言える穏やかな声は、悪食の脳裏にしか響かない。

<さっきはこの場所が知りたかったから、抵抗しなかっただけ>

「うそよ、そんなの、だって、わたし、5人も食べたのに」

<そうね。――そんなに食べてしまったら、並みの人魚なら力比べでは勝てないわね>

 純粋に、悪食の力量は食べた人魚の数に比例するのだ。

 でも、と姫は微笑む。ひそりと。穏やかに。その笑顔はあまりにも静かで、空っぽで、欲求だけを抱えて蠢く悪食ですら言葉を呑むほどの表情だった。


 彼女の言葉は。

 今は触れている、悪食にしか届かない。


<たった5人食べたくらいじゃ、私には、届かない>


 怯えたように悪食が目を剥いた。同様に、破壊された扉の傍に蹲るラクリもだ。彼の唇が戦慄く。彼も悟ったのだ。あの黒い人魚には、娘――あるいは娘であったもの――の力が届かないのだと。そして同時に、それが意味することにも気付いてしまった。

「な…何人喰らった、貴様」

 ラクリの震える声に、姫は答えない。答えられない。彼女の咽喉にかけられた幾重もの呪詛は、彼女から奪ったからだ。

 声を。

 ――声以外のものも。

「化け物…!!!」

 それを理解してしまったラクリの恐慌は、目の前にある水鉄砲の銃口への恐怖を完全に上回った。彼は震える手で拳銃を姫へ向け、レドが反応するよりも早く引き金を引く。

 恐慌のまま盲撃ちに撃たれた数発の弾丸は、棚の薬瓶を破壊し、姫をかすめ、悪食の頭上をすり抜け――水槽に穴を開けた。人魚の躯の入った、保存液に満たされたあの水槽だ。鉛玉に亀裂の入った硝子が砕け、ばしゃりと液体が辺りにぶちまけられる。管に繋がれていた、もう殆ど中身も残っていない小さくなった肉塊が床に落ちる。

 一瞬落ちた沈黙を破り、まず動いたのは姫だった。床に手をついてぶちまけられた保存液に触れる。水を操る彼女に呼応して、保存液はそのまま床から浮き上がり、巨大な釘のような形になると、真っすぐに悪食へと飛んだ。

「う、ぐ」

 壁に縫い留められた格好になる悪食は、刺さった部分を泥化して逃げようと足掻く。だがそこに無数の針が次から次へと突き刺さり、悪食は次第にその肉体を削られ動きを弱くしていった。

「放してよぉ…パパぁ…痛いよぉ…」

 泣き喚く顔も半ば水で抉られ、黒い泥で輪郭が崩れている。それでも声が出せているのが奇妙で、滑稽ですらあった。

「やめてくれ! やめてくれ…! 娘を殺さないでくれ…!」

 ラクリの慟哭も、姫には届かない。彼女は眉ひとつ動かさなかった。

 が、次の瞬間、その感情の薄い目が瞠られることになる。

 ――ラクリの背中に、先ほど廊下の奥へと放り投げたはずのティーナが体当たりをしたのだ。

 そう、体当たりに見えた。

「……っは、…え?」

 ラクリは何が起きたのか分からない様子で背後を見遣り、自分に身体をぶつけてきたのが、つい先ほど人魚であると知れたメイドであることに気付いて、反射的にだろう。彼女を突き飛ばす。

 その彼女、ティーナは、突き飛ばされ尻もちをつきながら──笑っていた。

 目だけが爛爛と輝いて、その口元の笑みは次第に高らかな笑いへと変わっていく。

「死ね、死ね、お前がまずは死ね!」

 怨嗟の声が、笑いの合間に差し込まれる。彼女が哄笑と共に虚空に掲げたその手には、血で濡れた包丁があった。さっきレドの腹に突き立てたそれを、廊下に取り落としていたものを、彼女はいつの間にか拾い上げていたらしかった。

 ラクリの近くに居たレドが、まずティーナの方を痛ましいものを見るようにして眉根を寄せた。それからラクリを見遣り、嘆息する。この人間に同情する余地はひとつもないが――死なれると、若干だが、困る。報告が面倒になるなと、彼はそんなことを思っている。

「は?」

 ただ一人、ラクリだけは訳が分からない様子でよろめき、それから急激に脱力した様子でその場に崩れ落ちた。最期の最期まで、彼は状況を把握していないまま、そのままぽかんとしたままで、何度か浅い息を吐きだし、ぱたりと倒れる。

 それはあまりに、呆気なさすぎるほどだった。

 廊下に、血だまりがゆるゆると、音もなく広がっていく。

「パパ」

 悪食の――娘と呼んだそれの声にも、男はもはや答えない。

 事切れていた。

 倒れたその背中、腰より少し上あたりからはまだ生暖かい血が溢れている。ティーナに刺されたその傷が、あまりにも簡単に致命傷になったのだ。

「うそ」

 悪食の呆然とした呟きを塗り潰すように、哄笑が続く。包丁を手にしたティーナが狂ったように笑っている。彼女は部屋の奥、水槽から放り出され、床の上で無残な姿をさらす人魚へと顔を向けた。

「フィア、聞こえる? 殺してやったわよ! あんたを殺してそんな姿にしたこの男を、殺してやったわ…!!」

 高らかな哄笑に、しばし誰もが動けなくなっていた。悪食は呆然と――尤も、姫の拘束によって動けない状態にされているのだが――、姫とレドは痛ましいものを見るような表情で、それぞれに動けずにいた。



「次は、」

 誰もが沈黙する中で最初にそれを破ったのもまた、ティーナだった。血で濡れた包丁を、同じくらい血に塗れた手で握り直しながら、その首がぐるりと巡り部屋の奥、水の棘で壁に縫い留められ、四肢の殆どが欠損した状態の娘へと。

「お前だ」

「やめろ!」

 慌てて、レドが制止しようと駆け出すが間に合わない。姫の方も止めようとしているのだろうが、こちらも一瞬だけ出遅れた格好になった。

 悪食化した人間はただの包丁などでは決して殺すことが出来ない。二人ともそれを知っていたからこそ、理性を失い衝動に突き動かされているティーナが、まさか、真っすぐに悪食の娘に向かうなどとは考えもしなかったのだ。

 そう、彼女は真っすぐ、包丁を突き出すようにしてリエラへと向かっていた。四肢を縫い留められた悪食の娘は、しかしその状態でなお、本能的に身を守ろうとしたのだろう。大きく身体をよじらせ、娘の形でどこから出ているかも分からない低い唸り声をあげた。その声に応じるように、床にぶちまけられていた悪食だったものの一部――黒いタール状の液体が、ぐにゃり、と鎌首をもたげる蛇のように蠢く。

 姫が再び水の釘を打ち付けてそれを縫い留めたが、彼女の方はそれで手一杯だ。さすがに何か所もを同時に食い止め続けるのは、いかに彼女と雖も無理がある。だから次に動いたのはレドだった。一拍だけ遅れて駆けだした彼は低い位置からティーナに体当たりを仕掛けると、勢いそのままに床を転がっていく。途中、包丁が落ちて、床の上にぶちまけられた水と悪食だったものが交じり合った液体の上でべちゃりと音を立てた。

「何やってんだ、あんた!?」

 見目の細さと幼さに不似合いな膂力を発揮したレドがティーナを床に押さえつけ、叫ぶ。

「放せ…!」

「ここで人魚の死体を増やすような真似が出来るか、馬鹿!」

 腕力こそ上回ってはいても、ウェイトの軽いレドの身体は容易に死に物狂いの女に蹴り上げられ、二人は床を文字通り転がり、揉みあうことになった。びしゃり、と床の上の液体が髪に服に絡みつくのも厭わず、そのまま二人は上下を入れ替えつつも壁際へと転がり、やがて止まる。

 事態が動いたのはその一体どのタイミングだろう。

 床に渦巻いていた黒い液体――悪食の一部であるそれらがじわり、と床の上で面積を増していたことに、最初に気が付いたのが誰だったか。

 どのみち、それにレドが気付いた時には疾うに手遅れだった。

「ぐ、うぁあああっ…!!」

 レドが組み敷いていたティーナが突然、呻く。跳ねるように飛び退いたレドの前で、床を這う黒いタールーー「悪食」が首をもたげるようにのそりと蠢いた。その先端には、白く細い何かがあるのをレドは見てとり、思わずティーナを見遣った。未だ呻いてのたうつ彼女の右の手からは血が溢れ、

「…わ、わたしの、わたしのゆびっ…!?」

 混乱する彼女の悲鳴に、ようやく――彼女の右手の指が唐突に表れた第二の「悪食」に千切られたのだと、悟る。

 場違いに嬉しそうな明るい声が、混乱するレドを打ち据えるように響き渡った。


「ママ!」


 床の上を這う黒い液体は、ぐちゃり、と輪郭を取ろうとしては崩れ、また形を取ろうとしては溶け崩れるという動きを繰り返している。

 それは人の形など、最早維持が出来なくなっているらしかったが。

 のたうつように動き回るそれはまず、廊下側で倒れ伏して最早冷たくなっている男性の躯に触れ、それからざわりと蠢くと、次いで、床に体の体積の殆どをぶちまけた悪食の娘に、リエラに触れようと触手めいたものを伸ばした。それを見たリエラの、矢張りこちらも時折輪郭が崩れて溶けながらかろうじて形を保っている顔に、笑みが浮かぶ。

「ママ! 助けて!」

 娘の声に呼応するかのように。

 床一面に広がっていた黒い液体は、一塊になっていく。

 息を詰めてそれを見ていたレドだったが、やがて「ママ」と娘が呼んだ「塊」が棘のようなものを形作り始めたのを見るなり動いた。痛みに気絶していたティーナを担ぎあげながら、

「姉さん!」

 未だ攻撃を続けようとしている姉を鋭く呼ばう。彼女は一瞬だけレドを見、彼の意図を察したのだろう、こくりと頷いて手首を翻した。

 その動きに合わせて、彼女の制御下にあった水が一息に文字通り、「霧散」する。地下室に充満した霧は視界を奪い去り、徐々にそれが晴れる頃には――部屋に残されていたのは男の死体と、それから、人魚の女が落とした指だけになっていた。






 霧に紛れて地下室のひとつに飛び込んでから、息を整えつつレドは辺りを見渡した。距離は稼いでいないから、恐らくそれほど時間はかけられない。

 床に下ろしたティーナの身体は、先ほどまでの激情と打って変わって、青白い顔色で息を喘がせるばかりになっていた。指を千切られたショックからかと思っていたが、どうやらそれだけではないとすぐに知れる。下ろした場所からじわりと染み出すように、彼女の腹部から真っ赤な血が漏れていた。

「…あの『悪食』の仕業か…クソ」

 吐き捨てるレドを嗜めるように、姫がその頬に指先で触れた。

<あまり…長くは持たないけれど>

 呟きと同時、血液がゆっくりと、その場に留まる。

 息遣いは荒いままではあったが、やがてゆっくり、ティーナが目を開いた。

「…あ、…わたし」

<動かないで。…私にできるのは一時的に血を止めておくだけ。損傷までは、戻せない>

 その語調に何を感じたのか。

 ティーナは一度目を閉じ、それから、開く。鳶色の特徴の薄い瞳に先ほどまでのギラギラとした光は失われていたが、狂おしい感情が渦巻いていることはそれでも知れた。

「…しにたくない」

 血が滲むほどに食いしばった唇から零れたのは、ただただ端的な一言。

 レドは姫を見――視線の先、姫はそっと首を横に振る。その言葉がもう叶わぬ願いになってしまったことを、彼も悟らずにはいられなかった。

「いやだ、しにたくない。こんなに悔しいのに、悔しいから、今しんだら、わたしは、泡になれない!」

 指が残る手が近くに居たレドの二の腕を掴む。それは命が燃え尽きようとしているモノとは思えぬ強さで、レドは痛みに顔を顰めたが、勿論彼女がそんなことを頓着するはずもなかった。

 文字通り、必死の形相だった。

<…せめて>

 ぽつりと、その彼女の頬に触れたまま、姫が告げるのがレドにも聞こえた。

<せめて、あなたの妹だけでも泡にしてあげることはできる。…と思う>

 最後にやや自信のなさそうな一語がついたのが情けないところではあったが、死を前にしたティーナがそこを逐一気に留める余裕は無かったはずだ。

「…できる、の?」

<できるわ。私は『黒色』だもの。そのために生まれたんだもの。…でも、彼女の『心残り』を取り除いてあげなきゃいけないから。あなたにはもう少しだけ頑張ってもらわないと>

 無理をさせることになる、と、淡々と姫が告げるのを聞いていたティーナの目にようよう、光が戻ったのをレドは確かに見た。

<それに彼女を『泡化』させれば、上手くすればまとめて周りの『悪食』も巻き込めるかもしれない。…本音を言えば回収したいけれど、あの状態じゃそうも言っていられないもの>

 ママ、と呼ばれていたもう一体の「悪食」の存在はさすがにレドにも姫にも想定外だったのだ。

「…あれはきっと…あの男の妻、ね…。死んだと聞いていたのだけど…」

<殆ど死んでいるようなものよ。あれでは、元の自我なんて、欠片も残っていないでしょう。…なのに泡にもなっていない、ということは…>

 つまりあんな姿になった妻にさえ、定期的に人魚の死体を摂取させていた、ということだ――どれだけこの屋敷の主は人魚を犠牲にしたのだろう。

 瞬間、その悍ましさにその場の人魚と人間は並んで沈黙する。

 しばし続いたその沈黙を破るように、口を切ったのは、ティーナだった。

「あんたに協力する代わり…頼みがあるの。人魚姫」

 苦しげに一度歯を食いしばり、それから彼女は、レドから手を放し、すぐそばで彼女に触れている姫の手首を掴んだ。

「私が死んで、肉が、遺ったら」

<……ええ>


「わたしを、たべて」


 囁くような声が何を意味するのか、傍らのレドにだけは分からない。

 ただ痛ましいものを見るように顔を顰めた姫が、触れた手から彼女に何かを伝えたのは確かだった。何事か頷いて、ゆっくりとティーナが起き上がろうとするのを姫が横抱きに抱き上げる。もう動くだけの体力は残されていないのに違いなかった。

 それから姫が視線を向けてきたので、意を得たレドは、ティーナを抱き上げている彼女の腕に触れる。すぐに思念の声がその手から伝わってきた。

<レド>

「なぁに、姉さん」

<──お願いが、あるの>

 しずかにレドは微笑んだ。

「分かってる。…任せて」

 地下室の霧は、その頃にはもう晴れつつあった。





 霧の消えた地下室で、少女の形を最早留めることも難しくなった「悪食」は、ぴくりとも動かない「父親」だったものを見下ろしていた。その後ろには「母親」だったもの、形を維持することも出来ずに蠢く黒い塊がある。

「ねぇパパ! 早く起きて!」

 揺さぶったところで男はぴくりともしない。

 まるで昔のママみたいだ。そう判断して、「彼女」は思案する。確か昔、ママがこんな風になってしまって、それで、私はママと一緒に居たいって泣いて、パパは。どうしたんだったっけ。

 そこまで思い返して彼女は辺りを見渡した。割れた水槽からは、管に繋がれていた人魚の死体が零れて床に落ちていた。食べるところは随分と減ってしまっていたが、まだ削れば肉の少しくらいはあるだろうか。

 そうだ。ママが倒れて、もう起き上がれないって聞いて。泣いて縋った時。パパは、ママの口に。その時はまだほんの僅か、息をしていたママの、その口に。

 人魚の肉を、押し込んだんだった。

 そのことを思いだして、「彼女」は顔を──もう自分の顔の場所も曖昧になっていたが──上げた。上げた積りになった。

 パパは息をしていないけど、同じようなものだ。彼女は幼いままの思考回路でそう結論づける。さっきの黒い人魚の攻撃で欠けて歪になった足を無理やり動かし、引き摺り、彼女は人魚の死体へとじりじりと近寄っていった。まだかろうじて形を残した片手を持ち上げると、その指先でぞろりと爪が伸びる。

 そうして転がる死体の肉を削ごうと指を伸ばした、そこへ。

 ぱしゃりと軽い音をたてて水が弾けた。一度だけではない。すぐに二度目──今度は「悪食」の脳天をめがけて真っすぐに。ぱしゃり。「悪食」は咄嗟に、人間ではあり得ない角度に首をぐにゃりと曲げて回避するが、微かに飛んだ飛沫がその頬に当たった。

 途端、その頬がぐじゅり、と黒く崩れる。輪郭を保てなくなり、「悪食」は顔の半分をどろどろと崩したままで振り返った。その先には赤毛の少年が一人立っていた。その手には安っぽいプラスチックの、玩具の水鉄砲が片手ずつ二丁。水はそこから発射されたものらしい。

 じゃまだなぁ、と彼女は、次第に散逸し始めている思考の中でそんなようなことを考える。

 それが伝わったかのように、床にべったりと広がっていた「ママ」がぞろり、と蠢いた。少年の足元を掬うように、揺れる。だがそれを察していた様子で少年は大きく床を蹴り、自分が今まで居た場所に水鉄砲の水を撃ち込んだ。大した量の水ではないのに、ぴしゃり、と軽い音と同時に「ママ」がごそりと「欠けた」。水が蒸発するような音を立て、明らかに、黒い粘液が体積を減らしている。

 それは。

 何だ。

 本能的に身を引いて、「悪食」は既に半ば崩壊した顔面を彼へと向ける。

「どうせ聞こえて居ないだろうけど」

 「ママ」が退き、敷石の覗くようになった床に着地した彼は淡々と呟く。両手の水鉄砲の銃口は、油断なく、彼女と「ママ」の双方へ向けられていた。

「俺の血が混ざってるんだよ、その水。……俺は自分の血を混ぜた水であれば操れる、そんで俺の血は人魚姫の血だから、大抵の相手にとっちゃ猛毒だ」

 お前ら「悪食」が相手でも。人間が相手であったとしても。

 彼は本当に感情のうかがい知れない口調で、そう続けた。

 その彼の後ろに、ゆらりと黒い影が立つ。新月の夜の海の如く、光を吸い込むような漆黒の姿は、その両腕に顔色をすっかり失い土気色になりつつあるメイドを抱えていた。彼女は何かを口にすることはなかったが、背後を振り返りもせず、二丁の水鉄砲を手にしたまま、「弟」の彼はその気配だけを察してか、頷いた。

「姉さんは、早く彼女を」

 レドの視界の外で彼女は静かに頷き、最早原型を留めない状態になりつつある人魚の躯を前に膝をついた。

 そしてそれまで、ひとつの単語も発せられなかったその口から、か細く、音が漏れる。言葉、ではなかった。風切り音のような、微かな音。

 あるいは歌、のような。

 その音が重なるにつれ、辺りが暗くなっていく。否、霧が立ち込めていく。皮膚に触れるその闇の冷たさに包まれるような心地になり、レドは知らず口元を緩めながらも水鉄砲の軽すぎる引き金を引いた。血の混ざった水が、のたうつように蠢く足元の黒い「悪食」を穿ち、削る。

「お前らなんかに、姉さんの邪魔はさせない」

 指先に霧が絡むのを彼は感じた。冷やりとした闇の欠片が、間違いなく、彼に寄り添っている。その限りにおいて、彼は自分の後ろへ悪食たちを一歩たりとて通すつもりはない。



 薄く白い闇に似た中で、肉塊となった人魚の頬を黒い人魚姫はひと撫でした。

 咽喉の奥から歌うような、風の音のような声を漏らしながら、そうして彼女は指先で霧の中をなぞって行く。その指先に応じるように、霧が僅かな輪郭を象り、やがてひとつの像を結ぶ。現れたのは、小柄な女の姿だった──霧で構成されたそれは白く揺らめき、酷く儚いものではあったが。

 それでも姉妹であると語ったティーナの目には十二分に、それが誰なのかは伝わったようだった。人魚姫に抱えられた格好のまま、掠れた声が、フィア、とかろうじて名を紡ぐ。それに応じたように、輪郭の甘い姿が顔をあげた。長い前髪を結わえて後ろに纏め、額を露わにする彼女の顔は、今そこにある肉塊と同一人物ではあるはずだが似ても似つかない。

 白い霧で構成されたその姿に色は無かったが、それでも、ティーナには、彼女の灰色がかった薄茶の瞳が柔らかく微笑んだのが確かに伝わった。

『ああ、良かった』

 人魚姫の唇から、初めて「声」が漏れた。彼女の声ではない。ティーナはもはや焦点を失いつつある瞳を、それでも精一杯に瞠った。

 耳に慣れた、それは。

 間違いなく、妹の、フィアの声だったのだ。

「フィア」

 擦れた声が、名を呼ぶ。黒い人魚の口を介して、彼女の妹の声が応じた。

『ティーナに、せめてもう一度だけ会いたかったの。それだけが、私の心残りだった』

 切々と、人魚姫の口から零れるフィアの声は告げる。白い霧の輪郭が、手を伸ばす。指を失った手を、それでもティーナは触れようと差し伸べた。霧は当然ながら触れることは叶わずすり抜けてしまうが、それでもなお。だが、白い霧の幻はそんな接触とも呼べない一瞬で、そこに居る姉の存在を感じ取ったらしかった。次いで人魚姫の口を介して漏れた声には、隠しようもない程の安堵が滲んでいた。

『ああ。良かった。ティーナ、そこに居るのね。どうか、元気で……幸せになってね』

 ティーナは声も無く、ただ口を覆う。

 多分そこには無数の感情が滲んでいた。最早生き延びることも叶わない己の不甲斐なさへの悔しさ、あるいは、最愛の妹抜きで幸せになんてなれやしないという嘆き、それ以上に、もう二度と聞けないと諦めきっていた妹の声を再度聞くことの出来た喜び。それらがぶつかりあって、命を削るような嗚咽だけが、彼女のかろうじて示すことの出来た感情表現であった。

 だがそんなティーナの様子を、既に白い幻影は知ることは叶わない。

 満足げな笑みをひとつだけ残して、霧の象った幻の輪郭が崩れて消えていく。あっさりと。

 それと同時に霧がゆっくりと晴れ始めた。人魚姫はそっと、抱えていたティーナをその場に下ろし、その手を取って伝えた。

 最早その口からは声は零れず、フィアの声は、どこにも残ってはいなかった。

<ここから動かないで>

 どのみち、命が零れ落ちるばかりの身体は指先ひとつ動かすことすら叶わなくなりつつある。だがそのことを指摘する余力さえなく、力なくティーナはただ小さく頷くにとどめた。人魚姫は彼女に頷きを返すと、先ほどまでティーナを抱いていたその腕に、今度はフィアの空っぽの亡骸を抱きかかえ、踵を返す。

 霧の向こう側で「悪食」を押し留めていた少年が、その姿を肩越しに振り返って微かに笑った。

「姉さん、終わったの?」

 その頬や腕には、無数の傷が穿たれている。振り返る間にも「悪食」が黒い礫を放って、彼の足を掠めた──が、そこから零れた血を受けると、黒い礫はまるで水が蒸発するように、煙を上げて消えていく。

「……無駄だってのに」

 頬から垂れる血を指でぬぐい取ると、彼はそんなことを呟いて、とん、と床を蹴った。少女の──否、少女の形を維持できなくなっている黒い塊が、その指先を嫌うように身を捩るが、彼は躊躇なくその塊を手で掴んだ。指先についた彼自身の血が触れた先から、じゅう、と水が蒸発するような音と、肉の焦げるような異様な匂いをあげて、「悪食」の身から煙があがる。

「ヒあ、あああいやイやダやめ、やメて、こわい、イヤダ!」

 あがる悲鳴も子供の声、にはもう聞こえなかった。潰れて濁った音が悲鳴を真似ているだけのように聞こえる。

 それでもその悲鳴に応じるように、もう一体の「悪食」が、こちらも半ば以上の体積を失っていたが、床からじわりと盛り上がろうとする。だがそちらには、水の矢がいくつも放たれ、その身を穿った。人魚姫が、亡骸を抱えた格好のまま床の「悪食」を睨み据えている。彼女の放ったものであることは明白だった。

 その人魚姫の抱いた亡骸に、変化が始まっていた。淡く輪郭が揺らぎ、地下の薄暗い中で微かに光っているようにも見える。

 悪食達は、ただ本能のままに身を引いた。

 あれは良くない。自分達にとっての猛毒である血を纏う少年よりもなお悪い。

 逃げよう、と、二つの「悪食」は思考とも呼べない思考の中でそう判断したらしい。地下室の出入り口の方へと身を縮めてするすると這い進むそれ、を、矢張り透明な水が静かに穿った。水鉄砲の水と、そして人魚姫の操る水だった。

(逃げらレなイ、逃ゲタイ、死にたくない、死にたくない死にたくない死にたくない)

<いいえ>

 床に零れ落ちた黒い塊を踏みつけた踵越しに。

 人魚姫の、凪いだ夜の海のような声が、悪食を震わせた。

<……あなた達は、とっくに死んでいる>

 だから泡になるのよ、と告げる声は、優しげですらあった。あまりにも静謐で、慈悲すらあった。

 そして彼女の声ならぬ声にまるで呼応するかのように。

 その両腕の中から、泡が零れ落ち始めた。



**



 丘の上の住宅街は廃墟ばかりのこの街にあっては、珍しく、瀟洒な屋敷の並ぶ一角だ。かつては高級住宅街であったそこは戦禍を免れ、今なお、高い塀の中にひっそりと「館」と呼べる広さの建物が幾つも立ち並んでいる。

 ──その日、その中の屋敷のひとつが、文字通り「消失」した。

 車寄せのある玄関から、左右対称に広がる両翼のすべて。殆ど使われていなかったとはいえ、かつては客人を多く迎えたエントランスも、サンルームも。2階に幾つもあった客間も。

 全てが、泡に呑まれていく。

 後に残るのは、かつての海を髣髴とさせる潮の香りと、かつては屋敷の地下があった部分の巨大な空洞。そこには澄んだ水があふれるほどに湛えられて、まるで。

 小さな海が、現出したかのように見えた。



**



 屋敷が「あった」場所を振り返り、姫は一度、大きく髪を振るった。それだけで彼女の身体に纏わりついていた余分な水分は飛び去り、濡れそぼっていた服も肌も、何もかもが元通りになる。

 彼女の視線の先、塀と門は「泡」になりそこねたようで、そこだけ取り残されているのが異様ですらあった。一歩内側へ入れば、そこはもう小さな「海」だ。──とはいえ、こんな丘の上の、ただ巨大なだけの水たまりだ、時間と共に消えていくのかもしれないが。

「姉さん、大丈夫?」

<ええ。レドこそ、無事?>

 問う先、赤毛の瘦身の少年は、こちらはすっかり濡れ鼠だった。濡れて額に張り付く髪の毛を鬱陶しそうに手で持ち上げながら、彼は苦笑する。

「……姉さんが助けてくれなかったら、俺も泡になってたところだ」

 姫はただ、小さく肩を竦めただけだった。泡もまた「水」で構成されているものだから、彼女の人魚としての異能であれば制御することは可能だ。とはいえ。

 「悪食」の喰らった人魚の血肉の分も一斉に「泡化」したのだ。一人の人魚の「泡」であればそれはせいぜい、死んだ当人の両手を広げた程度の範囲しか「泡」にはならないのだが。

<放っておいたら、この辺りの屋敷が何件か巻き込まれたかも>

 「食べられる」ことで、一人の身体に集まってしまった人魚の血肉は、まるで連鎖爆発でも起こすように異常な範囲の「泡化」を起こしてしまう。

 咄嗟に自らの異能、水を操る力の殆どを「泡化」を地下方向へ誘導することに割いた姫は、この規模で納まって良かった、と胸を撫でおろすが、それを他所にレドは冷ややかだ。

「別に良かったんじゃないの。この辺の人間連中なんて知ったこっちゃ無いし」

<ティーナのように、身を隠して働いている人魚や森妖精が居るかもしれないのよ>

 窘める姫の声にも、レドは悪びれる風はなかった。

「俺は姉さんさえ無事なら、どうでもいいよ、人魚も、人間も」

 抑揚の薄い声で吐き捨てる彼に、人魚姫はただ、深く陰鬱に表情を曇らせるばかりだった。それから彼女は、両腕で抱きかかえていたモノをそっと、乾いた地面へと下ろす。「それ」は彼女自身の身体とは異なり濡れそぼって、横たえられた地面を濡らしていた。もう、あれほど流れていた血は殆ど零れることはない。

「姉さん、その人魚、どうするの?」

 レドの問いに、彼女は何も答えなかった。首を横に振り、それからレドに触れた手からこう伝える。

<カリーシャへ先に連絡に行ってくれるかしら。この屋敷が消えたのは他の人間も目撃していたかもしれない。騒ぎになると面倒だわ>

「まぁ、それはそうだね。……姉さんはどうするの」

<後片付けがあるの>

 彼女は横たえたモノ──ティーナ、と名乗っていた人魚の、遺されてしまった死体の瞼をそっと下ろしてやると、頬を愛おしげに指先で撫でる。その様子に声をかけることを躊躇われ、仕方なく、レドは肩を竦めると、街の中心へと踵を返していった。




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