人魚姫の弟
夜狐
1-1
星も月も、もう、どこにも見えない。
街灯がちかちかと何度も点滅を繰り返した。その明りのかろうじて届く範囲から外は夜の帳に包まれている。闇は手で触れられそうな程に深く、吐瀉物と汚物の薄汚い臭いを漂わせて、ぬたりと重たい。
息を切らせて走る影が、点滅する街灯に不意に影を落とし、伸びて、また消えた。一瞬だけ浮かび上がったのはこの辺りでは珍しくもない娼婦の姿だ。裾の擦り切れたワンピースが足に纏わりつくのを煩わしげに持ち上げて、女が逃げ惑う。
その後を、影が追っていた。ひとつ、ふたつと、影は増える。街灯の灯りの端に浮かび上がる伸びた影から姿を見定めることは困難だが、それが元は男であったことを、この光景を眺めている人物は知っていた。元は男だったはずだ――今はもう、肉塊に成り果ててしまっているが。
(見つけた。『悪食』で間違いないわ)
2階建ての、既に廃墟となった建物の上。夜の闇に沈んで壁も壁の穴も区別のつかない程深い闇の中で、しかし真っ直ぐに眼下の裏路地を見下ろす女が居た。
そして彼女の内心の呟きに、横で彼女の手を握りしめていた少年が頷いた。
「みたいだな。どんなエゴ抱えてたんだか」
<……ろくなものではないわ>
脳裏を過った記憶は、手を繋いだ少年にも共有される。闇の中、彼は一瞬だけ鼻の頭に皺をよせ、ひたすらに不愉快であることを表明した。
「成程。それであんな姿になっても未だ女を求めて、ああして夜な夜な娼婦を追い回す訳か」
忌々しげに呟く少年が前に出ようとするのを、女はただ黙って、手を放すことで無言の肯定と成した。手綱を解かれた馬のように直線に、少年が裏路地へと飛び降りる。
最早悲鳴もあげられなくなったか。街灯の届かぬ闇の中、先程まで走っていた女が倒れ、影にのしかかられていた。
闇深と雖も、少年の眼にはそれが見えていた。
――正確に言うと彼は暗視ゴーグルをしていたのだが。
輪郭は既に人の体を成していない。解け崩れた肉は、しかし生前の記憶を求めてか、腕をふたつ、足をふたつ、頭と思しき箇所を形成している。その、頭、と思われる箇所がぐるりと巡って彼を見た。
「よう『悪食』。人魚は旨かったか」
睨み据え、彼は告げる。あの肉塊に、人の言語を解する脳が残っているとも思えなかったが。しかし告げた。それは自分自身へ告げる為の宣言でもあるからだ。
「お前に喰われた人魚の恨みを、晴らしに来たぜ」
意味は解さずとも、敵意は伝わったのだろう。娼婦にのしかかり、今しも彼女の股座に肉塊を突き入れようとしていたそれの動きが変わった。腕が伸び、足が伸びて、少年に巻き付こうとする。彼は吐息のように笑うと、軽い足取りで後方へ宙返りしてそれを避けた。そのまま放置されたゴミ箱の上に軽く身を乗せて、懐から無数の、カラフルな物体を取り出す。丁度街灯が点滅し、倒れ伏していた娼婦にもそれの正体は見えただろう。
安っぽい玩具の、水鉄砲。黄色に橙、緑に青。派手なそれらが彼の手の中で踊る。両手で彼は懐にあった内の二丁を構えた。
追撃として伸ばされた「腕」へ向けて、彼はその軽すぎる引き金を引いた。何ら劇的な音もなく、当たり前に水が飛ぶだけだ。だが。
その水を浴びた腕には、大穴が穿たれる。
二丁の水鉄砲の水を吐き出す勢いで連射をすると、少年は次いで懐にあった二丁を投げ上げた。ゴミ箱を蹴倒し、宙に放りだした二丁を拾い上げ、そちらも一息に水をまき散らす。一部、建物の壁に散った飛沫は、コンクリートを削って欠片を散らした。
四丁分。
水鉄砲の水を余さず浴びた肉塊は、腐臭をさせながら輪郭を崩し、粘着質な音を立てながらその場でもがき始めた。
「さっさと逃げなよ」
呆然自失の体でへたり込んでいた娼婦に少年はそう声を投げて、空になった水鉄砲を投げ捨てる。軽いプラスチックの地面に落ちる軽薄な音で我に返ったか、足元が覚束ない様子で娼婦は立ち上がり、駆けだそうとする。だが、その足がもつれて彼女は倒れ込んだ。
崩れかけていた肉塊がその様子にぐらりと鎌首をもたげる。今わの際まで、その記憶と怨嗟に呪われたか。弱々しく倒れた女にまたしても覆い被さろうと這い蹲って蠢くさまは醜悪以外の何物でもない。
既に水鉄砲の水は尽きていた。充填が出来ない訳でもないが、少年は暗視ゴーグルを介さずとも理解できる程、闇の中にあって尚黒い気配に、その手を止め、微笑んだ。
「姉さん」
少年にそう呼ばれたのは、闇の中にあってまだ深い黒を纏うモノだった。
夜の海の底のように黒い長い髪、衣服も黒一色、瞳も黒く感情を浮かべない。白い肌だけが冗談のように、闇をくりぬいている。彼女はただ何も言わず、黒く塗られた爪の先、手指を持ち上げた。
肉塊の動きが、それだけで止まった。
「今度こそちゃんと逃げなよ」
少年の声に背を押されるように、娼婦が転びそうになりながら駆け去って行く。足音さえもが闇に呑まれて消えていくのを見送り、少年は放り捨てた水鉄砲を拾い上げた。腰に下げた水筒から水を補給しながら、横目に黒い女の、彼が「姉」と呼んだその姿を観察する。ありとあらゆる水に愛される、真っ黒な彼の姉は、意思持たぬ肉塊の体内の水分すらも自在とする。――尤も、相手が意思持つ存在であれば、彼女のその力は直接身体には及ぶことが無いが。
その薄い唇、黒いルージュの塗られたそれが、微かに開く。
少年はそっと、慎ましやかに耳を塞ぎ、目を閉じた。それが礼儀だった。
声を紡げぬ彼女の唇からは、人の声帯では発せぬ音が漏れる。
歌うように不可聴域の音を繋ぎ合わせ、祈る様に、黒い女は肉塊に触れた。優しく。愛おしむ所作に、肉塊が震え、崩れていく。崩壊していく。
――やがてその場には、青とも黒ともつかぬ色の僅かな塊だけが残された。崩壊した組織がぐちゃぐちゃと足元で音を立てるのを気にせず――こうなってしまうとこの裏路地にありふれた吐瀉物と大差ない――少年は近寄り、女の掌に納まるその塊を覗く。
近付けば微かに鉄錆と、そして。
――「かつての世界」の人間であれば「潮の匂い」と表現するであろうものが混ざり合っていた。
尤も、少年はその匂いを知らない。生まれてこの方、目の前にある海は汚染され尽くして、最早、何物も存在しえない死の果てだ。
「姉さん、これだけ?」
彼は問い、問いながら女の肩に触れる。触れた箇所から、彼女の思念が伝わってきた。
<そうみたい。でも良かった。少しでも、『泡化』する前に、見つけられて>
「他の個体は『泡化』済みだったよね…」
彼はうんざりしたように呟いて、暗視ゴーグルをつけ直した。
彼の姉は、手の中の「それ」を小瓶に詰め込み、愛おしむようにそれを撫で、口付けをする。
今は触れずとも、彼女の心の声は明らかだった。
――さぁ。行きましょう。
あなたの恨みも、心残りも、私が連れて行くわ。
この街からは、海が失われて随分と久しかった。
先の戦争で、人間達と敵対した人魚の棲家は徹底して蹂躙され、結果として、この町の周辺の海は死の領域と化した。近付けば刺激臭が漂い、足を踏み入れることもままならない。
古い古い、遠い時代は、港を中心としていたというその町は、海を失い、戦争の傷跡から立ち直ることも無く、澱んだ臭気を晒していた。それでも、そこには人が集い、生きている。今もなお。
かろうじて壁も屋根も無事な建物の一つで、歪んだシャッター越しに朝日が差し込んでくる。
こんな町でも、まだ尚、太陽だけは全てに平等だった。部屋の中の水槽に丸くなっていた女はそんなことを思いながら水中にぐるりと弧を描く。彼女の肢体がすっぽりと収まる、天井近くまでの高さと、部屋の半ばを占有する奥行のある水槽。
酸素濃度を維持するためのエアと、温度維持のヒーターと、更には水の清潔さを保つための循環装置までつけられて、巨大な水槽はこの町では貴重な電力を存分に喰らっていた。その電気の大本を辿れば、あの太陽のもたらす光発電である。目を覚ました彼女はシャッター越しに太陽に感謝を手向ける。海は人に蹂躙された。大気汚染で夜空から星や月も失われた。それでも太陽だけは、かつての姿と同様に、ヒトにも、それ以外にも、平等に恵みをもたらしてくれる。
また、水槽の中でぐるりと宙返りをする。
彼女の腰から下、人間であればふたつの足が生えているであろう箇所は、黒い鱗に覆われた魚の形になっていた。
その姿はかつてヒトと戦争を繰り返し、結果として、ヒトの手によって棲家である海を奪われ、陸地へと逃げた種族の。人魚のものに、違いなかった。
「姉さん」
その部屋へ、建てつけの悪いドアをがたがた揺らして開きつつ、少年がやってくる。水槽の中の彼女と目が合うなり、くすんだ赤毛の少年は微笑んだ。
「おはよう姉さん」
人魚の女は喋れない。視線だけを、彼へと向けた。
ぼさぼさのくすんだ赤毛、澱んだ緑の瞳はまだ幾らかの幼さを残す。10代も半ばを過ぎたくらいの見目だが、口調と表情には子供のそれが滲んでいた。この町の子供には珍しくもないが、手足は痩せて細い。
「珍しいね、姉さんが先に起きてるなんて」
そうかしら、と、人魚の女は思うが、口は開かない。ただ、言いたいところは伝わったのか。少年は苦笑した。
「そうだよ。いつも俺が起こすまでそこで夢見心地じゃないか。…朝御飯出来てるよ。早く支度して、下においで。あ、今日の朝食当番は俺だから」
階下からは、そこに重なる様に「早くー」という甲高い子供の声が混ざった。水槽の中の人魚はほんの僅か口元を綻ばせ、水槽の縁に手をかけた。ざばりと水を蹴立てて水槽から転がり出て、床に降りる時は既にその下半身は人のそれだ。少年が目を逸らしている間に水槽の傍に置かれた下着とスカートを手早く身に着ける。肌の表面の水分は彼女が少し「お願い」をするだけで離れていくから、服が濡れることを煩わしく思う必要はない。
剥き出しの、そして生まれたての素足で床を踏んで、彼女は階下へと向かった。
コンクリートが打ちっぱなしで壁紙もない階段を下りてすぐの場所にある小さな居間には既に人が揃っている。くすんだ赤毛の少年と、その隣で足を揺らすのは幼い少女だ。10歳程だろうか、この町では珍しいことに栄養が行き届いているらしく、ふっくらとした頬をして、柔らかそうな手足が服からは覗いていた。艶めいた髪の色は緑金(ジェイドブロンド)、朝日を浴びると金に輝く緑の巻き毛が顔の両端を覆っている。髪の色で分かる通り、黒髪の彼女と同じく、その幼い娘も人ならぬものであった。少し尖った耳の形が特徴的な妖精族だ。「海」を失った人魚と同様、彼らもまた、「森」という棲家を大きく失い、種族の殆どは人間の町か、残された僅かな森の中に密かに隠れ住んでいる。
「遅いわね、ご飯が冷めちゃうじゃないのよ」
きんきんと甲高い声で不服そうにその妖精の彼女は口を尖らせ、手にしたフォークを行儀悪く皿に叩きつけて音を鳴らした。その皿に乗るのは、卵と加工肉、それに小さなトマトを混ぜた炒め物。横には黒いパンがある。
「レドはいつも同じメニューしか作らないんだから。つまんないわ」
むすりと不機嫌そうに唇を引き結んだ娘に、レド、と呼ばれた少年は対面で頬杖をついて彼女を睨んだ。
「アンバーは我儘だな。いいだろ、別に。姉さんはこれが好きなんだから」
その言葉に一瞬、妖精の少女――アンバーは眉根を寄せて人魚の女の方へ目線を寄せる。いいの、と問うような視線に、人魚はただ首を横に振った。いいの、と。そして無言のまま席に座り、用意されたフォークを手に取る。
食前の祈りは三者三様だ。妖精族の幼女は地の恵みに――尤も、目の前の食材は殆どが人工合成されたものだが――人魚の女は既に亡くなった、海の恵みに。人間である少年だけが簡素な挨拶だけで皿に手を付ける。そうして三者の食事がめいめい始まるのが、ここしばらくの彼らの日常の始まりと決まっていた。
「レド、あんた、今日の予定は?」
ささやかな食事も終わる頃、小さな二つの手で合成素材でそれらしく成形された「黒パン」を抱えて頬張りながら、常のようにアンバーが問いかける。炒め物の残りをパンに乗せていたレドは見向きもせずに応じた。
「なんか、カリーシャがまた用事だっつってたから顔出してくる」
「あんたも行くの、姫?」
問われた視線の先、姫と呼ばれた黒髪の少女は炒め物を突いていた手を止め、頷いて返す。ふぅん、とアンバーは面白くもなさそうに鼻を鳴らして頷くと、机に肘を突いてフォークを振った。
「じゃあ後片づけあたしやっとくから。早く行ってきなよ。カリーシャの用件ってことは、どうせ面倒事でしょうし」
「頼める?」
悪ィな、とレドは早々に席を立ち、自分の使った食器類だけ抱えて台所へと歩き去る。
後に残された「姫」が、いいの?と問うように小首を傾げたが、アンバーはただ、うんざりとしたため息を零しただけだった。台所の方をうかがようにみやり、レドががちゃがちゃと食器を重ねる音を立てていることを確認してから、小さく告げる。
「──姫、いつまでこんなこと続ける気?」
姫と呼ばれた少女は──
今度は俯き、僅かに口元に笑みを浮かべただけだった。その口元が僅かに動き、言葉を象る。アンバーはそれを読み取り、言葉が終わったのを見て取ると、今度は目を反らした。
「さっさと行きなよ。準備もあるでしょ。カリーシャのお声がけってことはどうせ『悪食』絡みでしょうし。…人間が死ぬのなんて、自業自得なんだからほっときゃいいのに」
最後の言葉については、人魚は何も応じなかった。自身も食器を抱えて立ち上がる。
その背中を見送り、妖精の少女は、酷くうんざりとした表情を浮かべてフォークを皿へ落とした。
「死ぬまで、ねぇ――」
小さく口に乗せたのは、誰の言葉であったのか。
◆
街の中心区画は、レド達の住む一角から比べるとかなり賑やかになる。それを見下ろす窓辺に座っていたのは、一人の中年の女だった。
「来たわね」
窓の外へ向けた視線は逸らすことなく、部屋の主たる女が言う。勧められるのを待つでもなく、レドは早々にソファに腰を落ち着けた。その横には「姫」がこれまた勧められるのを待たずに腰を下ろす。
「昨日の今日で悪いわね。また『悪食』よ、頼めるかしら」
そんなレドたちを咎めることもなく、窓辺から離れつつ女――カリーシャが問いかけた先は、「姫」の方だった。彼女は真っ黒な瞳をカリーシャにひたと向けたまま、手だけをレドに重ねる。レドの脳裏に、「姫」の声が響いた。
<それが私の使命だもの。…でも数が多いわ。そんなに頻繁に現れるなんておかしいんじゃないかしら>
「だってさ、カリーシャ」
「……それを指摘されると、『人間側』の代表としては何も言えないわね」
カリーシャは苦々しく息を吐き出し、レド達の対面に腰を下ろす。
「どうも『人魚の血』をばら撒いている何者かが居るようなのよ…参ったわ。これ以上『人魚』を悪用されると、この街の人魚たちと人間の均衡はただでさえ危ういのに、また争いになりかねない…」
その言葉に、ぴくりと姫が顔を上げた。真っ黒な感情を窺わせない瞳が微かに揺れる。
<ばらまいて、る?>
怯えたような、竦んだような感情の籠った言葉に首を傾げつつレドはカリーシャへ視線を向ける。
「ほんとか、それ」
「恐らくね。まだはっきりとはしていないの。それもあってあなた達を呼んだ訳」
「まさか調査か? 調べもんはそっちの仕事だろ。俺と姉さんは実働だけ。そういう約束だろ」
カリーシャが苦い顔をする。
「とはいってもね。それは私とあなた達の間の約束に過ぎないから。…人魚の不始末は人魚につけさせろと、そう喚きたてる人間は少なくは無いのよ」
「そもそも人間の不始末じゃねぇか。人魚は本来、血も肉も残さず死ぬんだ。それが血肉を残して死ぬのは――」
<恨みを残した時だけ。人魚は本来、死ぬときは『泡化』して周りを浄化して死ぬの。腐乱する死体を残すなんて、私達にとっては不名誉なことよ>
強張った表情で姫が、レドに触れた手を強く握りしめながらそんなことを伝えて来る。彼女の言う通り、人魚種族は死体を残さない。厳密に言うと、死ぬと肉体が分解され、その際同時に海の汚れを浄化していく――見た目には泡となって消えていくように見えることから、「泡化」と呼称される現象だ。
声に出しては一人分だが、二人からの非難の視線を受けてカリーシャは顔を覆った。深々と嘆息する。
「ええ、いえ、理解は出来ていないとは思うけど、あなた達にとって死体を残すのが厭わしいことだというのは、ましてその死体を人間に利用されるなんてのが屈辱だということは、知ってはいる積りよ。でも、人間種族みんながそこを理解している訳ではないの」
分かって頂戴――苦悩の滲む言葉に、それ以上言い募ることも出来ず、レドは沈黙して前のめりになっていた身体をソファの背に深々と預けた。
「…それで、俺達何したらいいの」
カリーシャが無言で、すい、とソファーテーブルの上に紙を滑らせる。最初にそれを受け取って中身を検めたのは姫で、形の良い眉を僅かに顰めてからその紙切れをカリーシャへと戻した。彼女はちらりとレドを「いいの?」と問うように見るが、レドは肩を竦めただけだ。
「俺はいいよ、姉さんに『見せて』もらうから」
「そう。…お願いするわね」
その言葉に特に応じる訳でもなく、無言で姫が席を立ち、レドはその後に追随する。背後でカリーシャが何を思おうと彼らの知ったことではない。
姉弟が退室したカリーシャの執務室では、客人が去ったことを確認するかのようにおずおずと、秘書が顔を出していた。カリーシャが一人でいることを確認して安堵したように息をつき、書類を抱えて執務室の机へ歩み寄る。その様子にカリーシャは僅かに苦笑した。
「そんなにあの二人が怖い?」
ぎくりとしたように秘書は足を止めたが、それはまぁ、と口の中でもごもごと肯定の言葉を口にしたようだった。それから、
「私の母は、人魚に殺されましたから」
ぽつりと零す言葉は硬い。
「……私の夫もね。そういう時代だったわ」
「どうして、カリーシャ様はあの人魚を前にして平気なんですか…? 怖くないんですか」
「そりゃあ怖いか怖くないかで言えば、怖いわよ」
特にあの「人魚姫」は格別に怖い。あの真っ黒い瞳は、言葉を閉ざされてしまった姿は、人魚の中でも明らかな「異形」だ。
そんな異形をわざわざこの街へ使者として送り込んできた、人魚たちの目論見こそが、カリーシャにとっては恐ろしい。
(彼女達はまだ、海を汚染して奪い尽し、今なお同胞の死体を汚す人間種族を恨み続けている)
人魚の遺骸は、その血肉は、恨みが続く限りは決して朽ちることは無いという。恨みが晴らされて初めて、彼女達の肉体は泡となり、海へ帰っていくのだと。カリーシャはそう伝え聞いているし、それを信じるに足るだけの経験を積み重ねてきた。
(交渉の場を維持するためにも、こちらの誠意は示し続けておかないといけない)
だからこそ、カリーシャはここ一年、人魚種族が使者である「人魚姫」に与えた任務である「遺骸の収集」に、街の代表として時間と労力を大きく割いてきたのだ。
窓から外を見遣ると、丁度姉弟が屋敷を後にするところだ。手を繋いでいるのは、もしかすると先程姫に見せた情報を共有しているのだろうか。カリーシャは嘆息して、室内へ視線を戻した。
◆◆
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