Beit2:スイートハウス
列車の個室のソファーに座り、後ろへと過ぎていく車窓の景色を眺める。紅いベルベットのソファーに木のタイルで構成された空間は、落ち着いていてとても居心地が良い。車内には優雅なジャズが流れており、コーヒーがいつもより美味しく感じられる。
しかし、そのコーヒーの香りはプシュッという軽快な音と共に一瞬で人工的なフルーツの匂いに掻き消された。
「なんだよ? いいだろポップくらい。俺だってゆっくりしたいんだ」
「まだ何も言っていないですよ」
「いやそうだけどさあ」
この男を雇ってから早いものでもう三ヶ月。
生憎目立ったバイターの被害も無く、私達はかなり平和な日々を過ごしていた。モーガンは思ったより何倍も飲み込みが早い。今はもうその辺のもぐりより余程実力がある。やはり私の見立ては間違っていなかったようだ。
「ただ私はさっきのワゴンで買うより、二車両先の売店で買った方が五テーセ分安かったのにな、と思っただけですよ」
「えっ、ガチで!? うわあ損した。てか、それなら買う時言ってくれよ!」
「ふふ。往復約四車両分の距離を五テーセで買ったと思えば、案外安いものかもしれませんよ」
「そういう考えも確かにありか。ん? 何か上手くごまかされただけな気が……」
頭に疑問符を浮かべながらも、モーガンは炭酸飲料を半分程一気に喉へ流し込む。あまり炭酸系が得意では無い私には理解し難い行動だ。
「テルへはソーセージとビールが有名だったよな。どっちも好物の俺にとっては天国だぜ」
「楽しむのはいいですが、仕事の時はしっかりしないと本当に天国行きですよ」
「分かってるって。相変わらず真面目だなあ」
今回私たちがこの列車に乗っているのは、私のメモ帳にナンバー六十五という項目が追加されたことに起因する。追加といっても、まだあくまで『(仮)』状態ではあるが。全ての始まりは平和な田舎町ゼグレルの森にてある日児童が行方不明になったこと。確かに地形的にあの森は深い割に侵入しやすく子供が遭難しやすいだろう。だがいくらなんでも三ヶ月に連続十件というハイペース、それに加え森に入ったいくつもの警察の捜索隊がいまだ手がかり一つ見つけられていないという状況。このせいで巷では犯人について様々な憶測が飛び交い、オカルトマニアやSFマニア達までもがそれぞれの分野で持論を展開したりと異様な広がりを見せている。バイターである確証はいまだ無いものの、土地柄や内容的にも可能性が高いので調査をすることにしたのだ。
コーヒーを飲みながらスマートフォンで現地の天気を調べる。正直言って今はバイターの詳細よりこちらの方が私には気がかりだった。天気というのは自分ではどうしようも無い要素だし、何より場合よってはどうしてもスーツを脱がなくてはいけなくなるのが煩わしい。今回は故郷の夏より過ごしやすそうで安心した。
「リンデンバウム? 聞いてたか?」
ふと気がつくと目の前でモーガンの白い手がひらひらと舞っていた。手首に付けているのか、ほんのりと甘い香水の匂いがする。
「ああ、すみません」
「いっつもどこかへ行く前はスマホを見てしかめ面だな。嫁さんに浮気でも疑われてんのか?」
「私が妻帯者でないことは知っているでしょう。ただの調べものですよ」
長いため息を吐きながら背もたれに思い切りもたれると、モーガンはいつの間にか手にしていた私の手帳を机に放った。
「調べものねえ…… にしても、俺の国での事件と一緒でひでえ事件だぜ。森で消える子供に? しかも場所はゼグレル。なあリンデンバウム、今回のやつってもしかしなくても」
「ヘンゼルとグレーテルでしょうね」
モーガンの言葉を引き取る。
「あそこでバイターとなるとそれ以外の素は有り得ない。しかしその場合厄介なのは、性質上子供達の前にしか現れないだろうということです」
「そこで疑問なんだけどよ。生存者がいない場合ってどうやって聞き込みとか調査とかするんだ? 大分ハードモードじゃねえか? 俺達じゃあ、ほら、囮も無理だし」
「前回はたまたま上手くいったからよかったものの、私は元々囮捜査のようなことはしない主義なんです。舐めてかかって下手な呪いでも受けたら洒落になりませんしね」
バイターの呪いについては大変なレアケースのため発生条件がまだ分かっていない。それは同時に解き方も分かっていないという意味だ。いくら一緒に仕事をするようになって日が浅いとはいえ、同僚に呪いの苦しみを背負わせるなど御免だった。
列車を降りるとホームには沢山の人。いつもは観光客で溢れるであろうこの場も、今だけは違った。誰も彼もがカメラやマイクなどの機材を抱えているのだ。ただでさえ人込みは嫌いなのに、マスコミだなんて本当に最悪だ。
「おーい、リンデンバウム! 思ったより早かったじゃないか」
出し抜けに声をかけられ、条件反射的に二人とも振り返る。笑顔で駆け寄ってくる声の主は遠くからでも分かるほどの酷いクマがあり、その勤勉さが伺えた。
「お久しぶりです、スティーブン警部」
「いやあー、元気そうでなによりだよ! こちらがチャットで言っていた助手くんか」
「よ、よろしくお願いします。タリス・モーガンです」
握手を求められ、警部は慌ててよれたシャツで手を拭く。
「連邦警察のスティーブンだ。それにしてもあの一匹狼が助手とはねえ」
「一言余計ですよ」
「ははっ、すまんすまん」
今回の件は個人で秘密裏に調べるには警察が介入しすぎている。大量のマスコミも嗅ぎ回る中では尚更動きづらい。それならいっそのことツテを利用して、警察と共に動けばいいじゃないかと考えたのだ。バイターは時と共に力を増してしまう。既に十件も事件が起きている以上、足踏みなどしていられない。今まで大分無茶をさせられているのだから、警察にはこういう時くらい素直に利用されてもらおう。
「おい、おいってば」
「なんです? そんな小声で」
つられてつい私の声まで小声になる。
「どういう知り合いだよ。まさか過去にお世話になったとかじゃないよな?」
「なったんじゃなくてしたんですよ。度々警察に捜査協力をしているんです」
お世話になるようなヘマはしたことがない、というのは言わなかった。三か月じゃまだそこまで業務を教えていない。
「お前一体いくつ仕事してんだ」
「それについてはおいおいね」
「仲良しはいいが、もう表に車まわしてるから早く。駐禁切られちまう」
駅から現地への移動で使うのは、警部の知り合いなら誰もが音を聞いただけで分かる、マフラーがたまにくしゃみをするユニークな車だ。まず車内では情報交換が行われたのだが、警察の情報は残念ながらこちらが持っているものと大差無かった。元から期待していなかったとはいえ、もう少し使える情報があっても良さそうなものを。警部のせいでは無いことが分かってはいるが、これでは独自取材しているマスコミの方が情報を持っている可能性すらある。
「頼むから今回は穏便に頼むよ? 出入り許可得るのに苦労したんだから。世話になってるし、俺もある程度は庇うつもりだけどあくまで警部だからね。警部。度が過ぎると俺じゃ難しい」
「ふふ、私が度が過ぎたことありました?」
警部は何か言いたげな顔をしたが、少し間を置いて「無いと思うよ」とだけ答えた。
以前一緒に解決した事件では二人共ボロボロになって警部にかなり迷惑をかけたし、私としても穏便にことを済ませたい。目をつけられて核が証拠品として抑えられたら苦労が水の泡だ。
「そんで何でこの事件なんだ? 注目度が高いとはいえ、リンデンバウムの場合売名ってのもないし、別に関係者というわけでもない。他国までわざわざ足を運ぶ目的が不明だよ」
「個人的に気になるところがあって、という回答では駄目ですかね」
「ちょうど捜査もどん詰まりだし、とりあえずwin-winってことにしておくよ」
「ご理解感謝します」
車が進むにつれ窓の外に徐々にマスコミが増えていく。その代わりに生活感はどんどんと消えていった。
「窓を開けても?」
「かまわないが、あと十分もせずに着くぞ」
半分ほど開けた窓からぬるい風が車内に雪崩込む。詳しい場所を知らずともその風の匂いで森に近づいていることが分かった。背筋に走るか細い悪寒を見失わないよう慎重に繋ぎ止める。
「モーガン。カッコ仮、取れました」
「え? 今の話で!?」
話で確定したわけでは無いのだが、警部の前でその話をすると面倒なので触れないことにした。
「前回のように簡単にはいかないでしょうから、そのつもりで」
「リンデンバウムにとっては簡単だったかもだけど、俺は別に簡単じゃなかったよ色々と」
その言葉でモーガンの女装姿を思い出した。バックミラーの中のモーガンの表情から察するに、同じことを思い出しているのだろう。
「何の話をしてるんだ? 前もどこかで似たような誘拐事件が?」
「んー、誘拐ではないけど似たジャンルのがね。……っと、お口チャック」
私の視線気づいたモーガンが慌てて口をつぐむ。
「相変わらず謎が多いな君は」
「探偵ですから」
すると身体が衝撃で座席に軽く叩きつけられる。急ブレーキなどではなく、警部の車ではこれが普通だから困るのだ。
本来静かなはずの森はぐるりと取り囲むように張られた規制線で酷く仰々しい。厳戒態勢の中十件目を許したことで、捜査員がみな一様に殺気立っているせいでもあるだろう。だが奇妙なのは森自体からは何の匂いもしないことだった。バイターの出る場所は、本来ほんの微かにバニラに似た甘い匂いがするものだ。森に近づいてくる時もそれを確かめた。しかし今ここに漂う匂いは森から直接漏れているものではない。これはまるで―――
「森の"影"」
「影? そりゃ日が出てるんだから影だって出るだろ」
思わず漏れた言葉に空を指差しながらモーガンが反応する。二人は事態を全く呑み込めません、という顔をしていた。
「そういう意味じゃありません。この森とは違う森があるんです」
これでこの規制線の中子供が消えたことにも説明がつく。この森の影自体が、その細部にいたるまで全てバイターなのだ。その結論に至った瞬間、すかさず「違う」と自分の直感が告げる。その結論にしては何か言語化できない違和感がある。ならばその違和感の原因は何だ。その結論を出す前に、私の思考は突如発生したざわめきに掻き消された。
「警部殿、十一件目です!」
走ってきた新人警官と思しき男が青い顔で息を切らしながら叫ぶ。近づいてくるサイレンの音が妙に耳障りだった。
***
女性は泣き腫らした目から生気のない視線を机に落とす。仮設テントの中は臨時捜査本部になっており、中央の会議用と思しきテーブルで我々は向かい合って座っていた。私の隣にはモーガン。向かいに警部と女性という席順だ。
「では奥さん、こういうことですか? お使いを頼んだけど帰りが遅いから探しに行ったが、店にお子さんは立ち寄っておらずそのまま行方不明になってしまったと」
「そうです! うちのシュネーはどこかに勝手に行くような不良じゃありません! ですからきっと最近噂の誘拐犯に連れ去られたんですわ!」
今にも雫が滴り落ちそうなハンカチを握りしめ女性はヒステリックに叫ぶ。憔悴しきっている、としか言いようの無い様子だった。
彼女の名前はミシェル・ロッテンマイヤー。この街で一番大きな屋敷に住む地主の奥方で、つい先程発生した十一件目と思われる児童行方不明事件の被害者の親である。事前に街を調べた時の情報によると、彼女は人当たりがよいうえに街のボランティアにも積極的で人気者らしい。とてもそうは思えないが。
「先程も申しましたが、お子さんの件を含めてまだ誘拐事件と決まった訳でもないんですよ。お子さんが家出だとかするような心当たりませんかね?」
「うちの息子が家出するとでも!?」
「いえっ、決してそういうわけじゃ……」
夫人の圧にたじたじの警部に失笑しそうになったのを誤魔化すため、さり気なくモーガンの方に目をやる。テントに入ってからというもの一言も喋らないのだ。夫人が特段必要ないところまで話している間、ただ眉間に皺を寄せて聞いているだけ。普段私と一緒に依頼人の話を聞いている時は逐一何かしらの言葉を挟んでくるというのに。
「僕ちょっと」
やっと喋ったかと思うと、モーガンは申し訳なさそうに喫煙のジェスチャーをした。夫人が怒るのではないかと思ったが、幸い目に入っていなかったらしい。軽く警部に会釈をしてテントから出ていったモーガンの後を追う。行かないでくれ、という顔をされたがモーガンが気になるし、残って相手をさせられたら面倒だ。
「あなた吸わないじゃないですか」
「外の空気吸いたかったんだよ。何を吸うかなんて言ってないだろ?」
振り向いたモーガンはいたずらっぽく言う。
「嘘はついていませんね、確かに」
「リンデンバウムだって吸わないじゃねぇか。なんでついてきたよ」
「さっきから黙りこくっている誰かさんが気になったんです」
「別になんでもないさ。やな話ばっかりで息苦しかっただけ」
モーガンはテントの脇の切り株に腰を下ろした。本部の入口のちょうど真裏なので、ここだけは人通りがなく静かだ。
「夫人の、というかシュネー君の家庭環境のせいですか?」
その返答が意外だったのか、モーガンが目を丸くする。だがすぐに表情はニヒルな笑みに変わった。
「……お前、ほんっといい奴だな」
溜息をつきうつむいたかと思うと「なんでそう思った?」とやけに冷たい声で言葉が続く。
「なんとなくです」
「なんとなく、ねぇ」
職業柄こういったケースには度々遭遇してしまうが、モーガンは以前からこの手の話に反応が悪かった。自身がそうだったのか、単にそういった話題が嫌いなのか分からなかったが、今回の反応を見る限り恐らく前者だ。
短い沈黙によりお互いがそれ以上踏み込まないことを察知し、言葉を続ける。
「夫人がシュネー君に直接的に何かしたから行方不明になった、とは考えられないと思います」
「だろうな。あれは依存してるタイプだから、自分の手から遠ざけるのは避けるだろ」
「しかし気になることがあるんです」
モーガンが私の言葉に反応して視線をよこした。
「ヘンゼルとグレーテルの物語は親が森に子供を捨てたところから始まります。子供だけじゃなく、もしかしたら親との関係性もバイターの発生条件になっているのではないでしょうか。今回の件だけでは判断できないので、あくまでまだ憶測にすぎませんが」
「でもそれ大事な憶測だぜ? だってそれなら被害者に話を聞けなくても―――」
『親から事件を辿れる』
期せずして声が揃い、私達は思わず顔を見合せた。この状況ですることは一つしかない。
「警部さん!」
モーガンが勢いよくテントに入ったことで、中の人全員の視線が一気に集まる。
「ちょっと気になることがあって、これから俺達少し別行動になります」
「あなたが言うんですね、それ」
「善は急げだろ?」
何か違う気がするが、面倒なのでつっこまないことにした。
「えっ、お、おう。かまわないが」
「あなた達私を見捨てるっていうの!?」
「これも捜査のためなんですよ。必ず俺とこのリンデンバウムで解決するので。ね?」
「そうよ、捜査のためにって色々お答えしたのよ!? 警察もこんな無責任なマフィアみたいな人達出入りさせるなんて何を考えてるのよ!」
「彼らの手腕を見込んで我々も頼んだ訳でして……」
「大体、あなた方捜査協力のプロフェッショナルなんでしょ!? こんな時に別行動だなんて一体何をっ」
「プロフェッショナルだから別行動なんですよ、ロッテンマイヤー夫人。ご理解いただけると嬉しいです」
収集がつかなくなってきたので、夫人の言葉を遮りにこっと笑いかけると、夫人は急にしおらしくなり「いや、まあ…… そう? あなたがそう言うならいいけど」とそっぽを向いた。警部はほっとした様子だったが、モーガンは白けた目でムッとしていた。
「不公平だ! やってらんねっ」
「信頼度の差です。そう言うならスーツとか着てください」
「そういう人を見た目で判断するの俺どうかと思うなあ」
「今はそういう話してる場合じゃないんですよ」
モーガンを無理やりテントから押し出しつつ、警部に向かって電話のジェスチャーをする。
「そういうことなので。進展あれば報告いたしますね」
「俺じゃなくてリンデンバウムがな!」
「拗ねるのはやめてください。初対面なのだからどうしても服装は信頼度に直結してきますよ」
「俺は多様性を大事にしてるってのにさ、頭のおかたいやつはこれだからさ」
「そういうの余計に信頼されませんよ?」
あの警部に1人夫人を任せるのは酷だが、本部に入れば最悪他の捜査員が助けてくれるだろう。 捜査のための別行動といっても、流石にこの時間(ロッテンマイヤー夫人の話が酷く長く、聞いていたらすっかり夜になってしまっていたのだ)から被害者家族の話を聞きに行くわけにもいかない。
古風なガス灯の明かりで照らされた、ほんのり甘い匂いが漂う道を宿に向かって歩く―――つもりだった。
「……なんで街から匂いが」
「ん、どした? 何かあったか?」
急に立ち止まった私へモーガンが不思議そうに問いかける。しかし私は答えるより先に、ゆっくりと足元に目を向けた。
街ではない、そこらじゅうの”影”から匂いがしているのだ。額に冷や汗が流れるのがわかる。馬鹿な、ここは森からそこそこ離れていたはずだ。ここでしかも私達の前に現れるだなんて、予想より力の増大のスピードが速すぎる。
「モーガン。この街の街灯って、ガス灯でしたっけ」
その質問の意味を理解したモーガンが、ひきつった笑いを見せる。
「いや、環境にやさしい優秀なLEDだったはずだぜ」
私が黒手袋をはめ拳銃を用意したのを見て、モーガンも左脇から拳銃を抜く。
「探す手間が省けていいが、俺達は子供じゃないぜ? なのになんで」
「力が強くなるにしたがって、影響範囲が広がるんです。今回は子供のみだった対象が大人まで広がったんでしょう」
「なんだそれ厄介過ぎるだろ!」
「対象が変わろうとも、基本ルールを遵守するのは同じです」
「じゃあ、次はお菓子の家か魔女かが出てくるってわけか」
「ええ。素と同じようにそんなメルヘンな存在だといいんですがね」
ガス灯が照らす道の先、ぼんやりとした光によって闇から建物が浮かび上がる。
「家の方…… らしいな」
「何もわかっていない以上、間違っても家を食べないでくださいよ」
「安心しろって。かぼちゃ菓子は絶対に食べないから」
近づくにつれ、その建物が思ったより大きいことが分かる。戸口でさえ屈まなくても二人とも難なく入れるだろう。
壁はクッキー、窓はキャンディー、屋根板はチョコスティックで、鍵の無いドアノブはマシュマロ。家の中の明かりが点いているようで、ステンドグラスのように透ける窓がキラキラと輝いている。
「入りますよ」
「ドア開けた瞬間ペロっと食われたりしない?」
「それは開けてからのお楽しみですね」
ドアノブなのにむにゅっとする気味の悪い感触。表面の薄い粉砂糖の膜が手袋を汚す。無言のまま視線で送った合図にモーガンが頷いた。一気にドアを開け、すかさず二人で室内に銃口を向ける。
「拍子抜けですね」
中はお菓子で出来ていること以外いたって普通のシンプルな部屋だった。中央にシナモンロールのテーブルが置いてあり、それを四脚のゼリーの椅子が囲っている。天井からはゼリービーンズのシャンデリアがぶら下がっていた。フロランタンの床が靴底にペタペタとひっつく。
ここで何人もの子供が消えたとは思えないほど、室内は不気味な静けさで満ちていた。
「どこもかしこも美味そうなだけで、何が原因で子供が消えたのか分かんねえな」
するとふと暖炉に目が留まった。板チョコで形作られた四角い箱の中に、無造作にパイの薪が置かれている。
「……?」
何故これが目に留まったかはすぐに分かった。僅かに箱全体がもぞもぞと動いているのだ。脳裏に魔女をグレーテルが竈に蹴り入れて退治するシーンがよぎる。魔女が二人を煮込んで食べようとしたのも竈だった。
「モーガン、こっちに来てください」
これが何を条件として子供に危害を加えてきたのかも重要だが、何より問題なのは核の位置だ。
「あー、ちょおっと無理そうかも」
モーガンの声で振り向くと、驚きのあまり目を見開いた。
入ってきたドアがいつの間にか閉まっており、ドアの周りからリコリスキャンディーがこれでもかと大量に、うねうねと触手のように生えてきていたのだ。
「けっこーまずくない? これ」
二人でキャンディーに照準を合わせる。
「味の話ですか? それとも状況の話ですか?」
「どっちも」
咆哮が聞こえたかと思うと、暖炉もどきが勢いよく我々を呑み込めそうなほどその口を大きく広げた。それに気を取られた一瞬で足首にリコリスキャンディーが巻き付く。私達はそのまま軽々と持ち上げられ、足首だけ支えられた逆さ吊り状態となった。
「くっそ、まじか!」
お互いに当てないよう必死に発砲し、何とか足首のキャンディーを断ち切る。床に叩きつけられたことで自然と天井が目に入った。そして天井から生えているナニカに気づき、それを注視して背筋が凍った。
ヒトだ。子供ほどのサイズのヒト型キャンディーが下半身をうずめる形で生えているのだ。
「見ました?」
「ああ、ばっちりとな。とんだサイコホラーだぜ」
二本も切られると多少は堪えるらしく、リコリスキャンディー達はうねうねとこちらの様子を伺っているような動きをみせている。
「数を数えましたが全部で十体でした。シュネー君はまだ助けられるかもしれません」
「どこにいるか見当は」
「天井が外観と比べてやや低いんです。屋根裏部分がある可能性があります」
「なら早く片付けないとだな」
一本のリコリスキャンディーがこちらに目掛けて飛んできたのを、モーガンがすかさず撃ち落とした。
「やれ!」
モーガンと背中合わせとなり、天井板と屋根板との接着部分目掛けて発砲した。後ろではモーガンがリコリスキャンディー相手に攻防を繰り広げているのが分かる。
幸いにも天井板のクッキーはそこまで強靭ではなく、切り取り線のように穴を開けることで銃声を搔き消すように一気に崩れ落ちた。
「―――大丈夫、ですか?」
のしかかる重さを押しのけ体を起こす。天井板の崩落で核が損傷したらしく、外壁にもどんどんヒビが広がっていた。
私の下のモーガンがずれたサングラスを掛けなおし舞い上がる粉砂糖にむせる。
「お陰様でなんとかな。お前こそ大丈夫かよそれ」
ハンカチで自分の頭から垂れた血を拭う。
「この程度問題ありません」
「ならいいけどよ」
私達以外のものがクッキーの瓦礫の中で動く。反射的に銃を構えるが、出てきたのはリコリスキャンディーではなく子供だった。
「ううっ…… おじさん達誰?」
「シュネー君ですね。私達はお母様に依頼された捜索班です」
「助けに来てくれたの!?」
「ええ。怪我は無いですか」
瓦礫の中をなんとか進みシュネー君を助け起こすが、彼は表情を曇らせ俯いている。
「これはっ……」
それもそのはずだ。彼の右足は、膝から下が宝石のように輝く緑色のキャンディーになっていた。左足も右足に接している面が所々キャンディーになっている。
「僕、この家に入ってリコリスキャンディーにつかまってそれで…… 気づいたらどんどん足が」
話しながらシュネー君の青い目にみるみる涙が溜まっていく。
外からは煙突のようなものは見えなかった。暖炉の排気管が繋がっていた先は恐らく屋根裏だ。子供達はリコリスキャンディーで縛られた後、暖炉に喰われて屋根裏へと運ばれていたのだろう。
「よく頑張りましたね」
口や手首にはリコリスキャンディー特有のねじり跡。今回巻き込まれたのは生まれた家のせいであって彼に非は無いからこそ、何と言葉をかけていいか分からなかった。
「僕、もうこのままキャンディーになっちゃうのかと! ほんとに、本当にありがとう」
目からぼろぼろとこぼれ落ちる涙が、キャンディーの足を伝って砂糖水になる。その涙の甘い香りは苦い感情を加速させた。
「なあ坊主。ちょっといいか」
モーガンは目線を合わせるようにしゃがむと、手ごろな大きさの天井板のクッキーをシュネー君の口に突っ込んだ。シュネー君が驚きながらもクッキーを飲み込んだのを見て、ニカっと笑う。
「くそみてえな理不尽も、そうやって食って腹に入れちまえばみんな一緒だ。だからきっと大丈夫!」
「なんですか、その雑なうえにふんわりしたアドバイス」
頭の切ったところが余計に痛む気がする。急にクッキーを食べさせるものだから心臓が止まるかと思った。まあ、お菓子の家を食べるシーンが素にある以上呪いが起こることはないはずだ。
方法は常識の斜め上だが、これがモーガンなりの精一杯の励ましなのだろう。
「はは、ありがとうおじさん達」
「おじさんじゃなくてお兄さんな。そんで俺はモーガン。こっちはリンデンバウム」
「遅れてしまいましたが、よろしくお願いします」
「改めてありがとう。モーガンさん。リンデンバウムさん」
全体に広がったヒビで外壁がもう崩壊しそうだ。今もぱらぱらとクッキーの欠片が雨のように降り始めている。
「モーガン、シュネー君を頼みます。私は後処理を」
「了解。んじゃ外で」
モーガンがシュネー君を抱えて家から出るのを確認し、鞄に銃をしまう。そして瓦礫を掻き分け、無事にシャンデリアの残骸の中に核を見つけた。
家の中はシナモンや砂糖、独特なリコリスの匂いが全部混じって、砂糖漬けにされている気分だ。私は自然と子供の頃に食べた誕生日ケーキのことを思い出していた。
「チッ、いいもの思い出しちまった」
うかうかしていては家の再生が始まってしまう。大きな亀裂部分から、半ば八つ当たりのように力任せに手で核を真っ二つに割った。
黒い液体に変わったお菓子の家が頭上から降り注ぎ体を濡らしていく。 目に強く焼き付いたのはシュネー君の足。そして天井に生えていた子供達の変わり果てた姿。もっと私が早く来ていれば、せめてシュネー君だけでも救えたかもしれないのに。足元の黒い水たまりにあの子供達も溶けているのかと思うと、名状しがたい感情に心が覆われそうになった。
「俺も…… 理不尽を食っちまえれば楽なんだけどな」
白っぽく手袋を汚していた粉砂糖が、黒い水滴となって水たまりに落ちた。
外にいたモーガンとシュネー君はいつの間にか意気投合しており、楽しそうに雑談をしていた。これが例え取り繕っているとしても、モーガンの言う通り本当にシュネー君は強い子らしい。
「お待たせしました。あと、シュネー君にはこれを渡しておきますね」
鞄から小瓶を取り出して手渡す。
「クリーム?」
「症状を緩和させる塗り薬です。キャンディーの部分と生身の部分の境目を中心に、膝下に毎晩塗りこんでください。事件前に戻ることは難しいですが、多少なら足を動かせるようになるかもしれません」
水晶を浸けた聖水をベースに作ったペースト薬である。どこまで回復するかは分からないが、何もないよりは遥かに回復の希望がある。
「僕頑張ってみる。せっかくモーガンさんとリンデンバウムさんが助けてくれたんだもん」
「ふふ、いい心がけです。ですがくれぐれも無理はしないように。足のことだけじゃなくてね」
「そうだぞ。親は気にせず、自分の信じたペースでいいからさ」
なんともぎこちない歩みだったが、私もモーガンも歩く速度を合わせるだけで、決してシュネー君に手を貸さなかった。
「うん!」
警部へのマスコミ対策の念押しの連絡をし、シュネー君自身には夫人含め全員に「何も覚えていない」という証言をしてもらうことにした。あらぬストレスによって症状が悪化しないようにするためだ。私達ができるのはせいぜいこのくらい。むしろこれ以上はやってはいけない。ロッテンマイヤー家のことも、足のことも、最終的にどうにかするのはシュネー君だ。
「あの状況と時間でどういう会話をすれば仲良くなれるんです」
「なに、リンデンバウムも仲よくしたかった?」
帰りの列車の中、今度はちゃんと売店で買った炭酸飲料を片手にモーガンがにやつく。
「単純に気になっただけですよ」
「ま、内緒」
「なんですかそれ」
「俺もちょっとはリンデンバウムにできない仕事ができるようになったってことだよ」
「そういうのはバレずに私を尾行できるようになってから言ってください」
「はーい」
ナンバー六十五の横の『(仮)』の表記を消し、代わりにスイートハウスという名前を書き込む。名前の割に酷く苦く、いつも以上に「早くバイターを消し去らなければ」という決意を強く意識させられる事件だった。
シュネー君に、あのクッキーの味を聞いておけば良かった。
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