第8話

 男はモグラと名乗った。


「このリュクス皇国の貴族社会が陽の当たる地上の世界だとしたら、俺たちが暮らすのは闇の中の地下世界ってところか。モグラのように地面の中を縦横無尽に駆け回って汚れ仕事を引き受けるのが、俺たちの役目だ。気まぐれにひょっこり地上に顔を出せば、世界の眩しさに自滅するのがオチだな。俺みたいにな」

「貴族社会だって同じよ。太陽けんりょくに近づきすぎたら、イカロスのように翼を焼かれるわ」

「お前、貴族に詳しいな。どこぞのお姫様なのか?」

「さあ、どうかしら」

「ここは地下牢。貴族でも平民でも関係ないな。脱獄を防ぐために親族の面会すら許されない。出られるとしたら、行く先は絞首台だ。皆最初は暴れていても、精神を病んで勝手に静かになっていく。ま、寝心地は多少悪いものの、三食昼寝付きの安宿だと思えば悪くないがな」

「変な人」

「お前もな」


 モグラとの会話は楽しかった。モグラは博識で、色んな場所を旅して歩くことが多かったらしく、ヴィクトリアの知らない話をたくさんしてくれた。砂漠で遭難しかけた話や、大海原を航海した話、いい宿の見つけ方やウサギの狩り方……。

 どれくらい話していたのか。会話が途切れた時、モグラがふいに口笛を吹いた。どことなく物悲しく、切ない音色の曲だった。


「いい曲ね。なんていう曲なの?」

「さあな。俺の故郷に伝わる曲だ。馴染みすぎて曲名なんて気にしたこともねえな」

「ねえ、もう一度吹いて」


 ヴィクトリアがそうねだり、モグラが再び口笛を吹きかけた時、ゆらりと遠くで燭台の明かりが揺れた。明かりは次第に近づくと、ヴィクトリアの独房の前で止まった。


「出ろ」


 看守に促され、ヴィクトリアはおとなしく従った。そして、先ほどのモグラの言葉を思い出す。『出られるとしたら行き先は絞首台』だと。扉を出て歩き始めると、モグラの口笛が聞こえてきた。それは建物内の分厚い壁に反響し、ずいぶん長い間聞こえていたが、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなっていった。


 細長い階段をのぼりながら、ヴィクトリアは看守に尋ねた。


「絞首台に行くの?」

「そうだ」

「罪状を聞いても?」

「自分で分かっているのではないか? エザベラ様の夫を寝取ったのだからな。立派な罪だろう? どうせ世間じゃお前は死んだことになっているんだ。名もなき娼婦として絞首刑にかける」

「あなたは私の素性を知っているの?」

「さあな。俺たちは命令に従うだけだ」


 絞首台の上からは、青く澄んだ空が見えた。

 首に縄をかけられても泣きわめくことをしなかったのは、令嬢としてのせめてもの矜持を保っていたかったから。それに、父母のところに行けると思えば、少しだけ心穏やかでいられた。


「お父様、お母様。今からそっちへ行くわ。こんな私を許してくれる?」


 ヴィクトリアは空に向かってつぶやいた。


「最後に言いたいことは?」


 看守が尋ねる。


「……ありません」


 こんな風に私がいなくなることで、あの人が苦しまなければいいのだけれど。


「踏み台をを外せ!」


 看守の叫ぶ声が聞こえた。

 ヴィクトリアの身体が重力に従って落ちていく。

 

 いったいなぜ、こんなことになってしまったのだろう。

 どこで選択を間違えてしまったのか。それともあの火事のとき? レティスの本当の家族が亡くなったとき? いや、それよりずっと前だ。

 戻りたい。あの頃に。何気ないあの穏やかな日常に。そうしたら、もう間違えない、絶対に。


「ヴィクトリア!」


 最期に聞こえたのは、自分の名を呼ぶレティスの声だった。

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