第5話 父親の反対
少女の名は、アクアといった。
母親と父親の3人暮らしで、両親はこの街で料理屋を営んでいた。
父親のマルクの作る料理が絶品で、もちろんそれも売りの1つだが、明るく社交的な母親のカンナが毎日お客さんと一緒にお酒を飲んで豪快に笑う姿もこの店の名物だった。
娘のアクアもよくお店のお手伝いをしていたが、そんな時は決まって「アクアがいると、お客さんの気前が良くなるね」と言って、父親に内緒でカンナはよくご褒美をくれた。
そんな仲睦まじい家族もこの店の名物だった。
イシスは、店内の打ち合わせ用のソファに少女を座らせると、一つ一つ丁寧に彼女の話に耳を傾ける。
「素敵なお母さんね」
イシスが時折相槌を打つと、アクアは嬉しそうに沢山話してくれた。
「じまんのおかあさんなの!」
アクアは無邪気に「ふへへっ」と笑って見せる。
3人はその様子を微笑ましく眺めていたが、ふと何かを思い出したのか、少女は突然顔を曇らせた。
「でもね おかあさん おみせで きゅうに たおれたの」
少女は先程までのあどけない表情から一転、何かを堪えるような複雑な表情を浮かべていた。
カンナは、その日もいつものようにお客さんとお酒を飲んで笑い合っていた。大きなジョッキを片手に何度も乾杯を交わすその様は、いつもと変わらないほんの日常の一コマだった。
ところが、彼女がおかわりを取りに行こうと立ち上がった瞬間、突然苦しそうに胸を押さえ、カンナは床に倒れ込んだ。娘のアクアの目の前で。
アクアは何が起こったのか状況が飲み込めず、時が止まったかのように体が硬直した。
その場にいた大人達ですら、すぐには反応出来なかった。
マルクの「カンナ!!!」と叫ぶ声にハッとし、ようやく「おかみさん!! 大丈夫か、おかみさん!!」と必死に呼び掛けた。
ある者は医者を呼びに、ある者は水を汲みに、マルクは何度もカンナの肩を揺らし、大声で彼女の名を叫び続けた。
だが、彼らの思いも虚しく、彼女はそのまま一度も目を覚ます事なく、この世を去った。
「辛かったわね」
イシスが少女の肩を抱き寄せ、優しく撫でてやると、少女は口を固く結んで、暫くの間じっと何かを堪えていた。
そこへ、珍しく1日に2度目の玄関ベルが鳴った。
ドアの前に立っていたのは、30前の若い大柄の男性だった。
「おとうさん!」
彼を見るなりそう叫んだのを聞き、目の前の男性がこの子の父親のマルクだと知った。
マルクはアクアに気付くと、ズカズカと娘の元に近付いていき、娘の頬をピシャリと叩いた。
「1人で出歩いたら危ないだろ!! どれだけ心配したと思ってるんだ!!」
アクアは頬を押さえ、驚いたように父親を見ると、外は少し肌寒い季節なのに、彼は息を切らし、額には汗が滲んでいた。
「…………ごめんなさい」
アクアは唇を噛み締め、甚く反省した様子で俯いた。
マルクはアクアの頭を撫でてやると、優しく諭すように声を掛けた。
「わかってくれればいいんだ。アクア、一緒に帰ろう」
マルクはそう言って、頭に置いていた手をそっと彼女の前に差し出すが、アクアはその手を取らず、訴えるような目で首を横に振った。
「まだ かえらない。おかあさんの ソウギを するの」
「ソウギ?」
マルクは初めて耳にする単語に懐疑的な目を向ける。
イシスは、アクアの代わりに努めて穏やかに説明した。
「葬儀とは、亡くなられた方を弔う儀式です。生前親しかった方に見守られながら、故人を天国へお見送りするお手伝いをさせていただいております。私どもはアクアさんのご依頼で、奥様の葬儀を執り行う事になりました」
「カンナの? うちにそんなお金はないぞ」
混乱するマルクに、「ご安心ください」とイシスは続ける。
「お代は、娘さんからいただいております」
イシスの言葉に、マルクは咄嗟にカッとなって声を荒らげた。
「アクアっ! そんなお金どこからっ!」
「そんなことより おかあさんのソウギしよ? おかあさん きっとよろこぶよ」
アクアはマルクの服の袖を掴み、必死に訴えたが、マルクは聞く耳を持たず、頑なにそれを拒否した。
「ダメだ! 故人を弔う儀式? カンナを晒し者にする気か? カンナだって、こんな姿誰にも見られたくないだろう!」
「でもっ」
「でもじゃない! これは絶対だ! 絶対に葬儀はやらないからな!!」
マルクはアクアの腕を掴むと、後ろ髪引かれる彼女を連れて店を出て行ってしまった。
「あーあ、2ヶ月半ぶりのお客さん、帰っちゃいましたね」
「俺はこうなるだろうと思ってましたけどね。そもそも子どもの意思だけで勝手に話を進めるから、こういう事になるんです。最初から父親に話して」
「ごめん、ちょっと出掛けてくる」
イシスは徐に立ち上がると、他に目もくれず、1人でどこかへ行ってしまった。
「あーあ、ラピさんがくどくど言い過ぎたからじゃないですか?」
「おっ、俺がいつくどくど言ったよ。そもそも俺は間違った事言ってない!」
「そういうとこだと思いますけどね〜」
「あ?」
「いえいえ、なんでもないでーす」
ラピスの八つ当たり被害を受ける前に、ルビーは足早に自席に逃げ込んだ。
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