第2話 ロックンロール
それはいつの事だっただろうか。
まだ幼かった杏介は、土砂降りの雨の中を走っていた。
今思い返してみると、近所の何の変哲もないコンクリートの道路。
家を飛び出したきっかけが何だったのかすらも、もう憶えていない。
とにかく憶えているのは、降り注ぐ雨の勢い。
その雨が冷たくはなかった事。
時々思い出したかのように光る空と、湿った土と葉の匂い。
そんな中を何かに突き動かされるようにひた走る自分の脚と肺が限界を告げてくるが、そんなことはお構いなしに目的もなく走り続けた。
気づくと杏介は、街の高台に辿り着いていた。
特別ここに来たかったわけではない。
というより、どこにも行った事はないのだ。
目的地などあるわけがない。
しかし先ほどまではブレーキの壊れたギアのように駆動していた脚は、自然とその動きを緩めていた。
「ハァ…ハァ…」
運命の因果か、はたまた偶然か。
杏介の移動速度の低下に比例するかのように、降り注ぐ雨が勢いを無くしていった。
ゆっくりと高台の小階段を登り終え、近所で最も高い場所に杏介が足を踏み入れる。
いよいよ雨もやみ、杏介がびしょ濡れになった前髪をうっとうしそうに掻き上げたその時。
この時すでに、彼の未来は決まっていたのだろう。
誰にでも訪れる、しかし彼にとっては唯一無二のこの場面。
開けた彼の視界には。
雲一つない青空と、その青空に架かる七色の虹。
先ほどまでの雨に濡れた街は太陽の光を浴びてキラキラと輝き、優しい風が頬を撫でる。
杏介は生まれて初めて見るその自然の作り出した圧倒的な美しさに、虹が薄くなり見えなくなるまで呆然と立ち尽くしていたのであった。
***
(あん時は確か、帰り道分かんなくなって捜索願出されるわ、家着いたら着いたで説教受ける前に熱出してぶっ倒れるわでえらい事になったんだよな…)
自室で一人過去を思い返していた杏介だが、ブルっと体を震わせるとベッドに体を投げ出した。
【心拍上昇を感知しました。照明の明るさ調整とBGMによるリラクゼーションを開始します。】
杏介しかいないはずの室内に突如女性の声がしたかと思うと、室内のシーリングライト、スタンドライトが白色からオレンジ色の優しい色に変化した。
何やら水の流れる音と鳥のさえずりも聞こえてくる。
スパやマッサージルームのような様相を呈し始めた自室で杏介は瞑目していたが、眉間に皺を寄せたかと思うと、
「だあああ!!!!どこの男子高校生がヒーリングミュージックで過去の傷癒すんだよ!アホかあああ!!!!」
掛け布団を跳ね上げたかと思うと照明を改めて点け直し、BGMのボリュームを上げて曲を変更した。
腹に響くような重低音と共に男性ボーカルの叫びにも似た、何かを必死に訴え掛けるような歌声が室内に響き、ここでようやく杏介は口端を上げた。
「俺はロックしか聞かねえんだよ。ロックンロールにいこうぜ。」
誰かに語り掛けるような杏介のその言葉は、しかし誰に届く事もなく、大音量のBGMにかき消されるのであった。
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