第8話 アムリタ

 フミハウと李詠春、蕭芙蓉、ベヤーズ、旧明芳館学生会の冒険者4人はウェルスの【神域】の霊峰を訪れていた。世界から神力や女神の加護と言ったものが失われたいま、数少ない生き残りの竜ならずとも小型の野獣ですら致命的な敵となりうるが、彼女らにはここを訪れる理由がある。


 皇帝・新羅辰馬の身をむしばむ熱病を祓いうる、唯一の妙薬「命の秘薬」。古代、女神が自分を奉じる巫女の一族に製法を伝え、その秘薬は竜種の至宝として伝わるという。竜の巫女イナンナに聞いたところ秘薬の製法を知るのは女神の守護者イシュハラただひとりであり、女神の依り代として「喰われた」イシュハラが存在を保っているかどうか、それすらも定かではなかったが訪れないことにはどうしようもない。


「ぁ…」

「見つけた? フミちゃん?」

 小さく声を上げたフミハウに、詠春が訊く。明芳館時代、3年で学生会長であった詠春から見ると当時1年のフミハウは可愛い後輩の「フミちゃん」であり、それは20年近くが経ったいまも変わらない。


「足音…、人間の」

「…聞こえますか、ベヤーズ先輩?」

「いえ。わたしの耳にはなにも。でも、気のせいではなさそうね。さすが歌姫の聴覚」


 フミハウの言葉に、4人は身構える。詠春と芙蓉は背中をあわせて拳法の構え、ベヤーズは大弓に矢をつがえ、フミハウ自身も手の中に短刀を握りしめる。


「なるほど、殺気が迫ってくる…油断はできないわね…」

 詠春が、緑の紙をかきあげて言うと同時、がさりとはっきりわかる物音を立てて、近くの物陰から人影が飛び出した。


「っ! 追ってくるか!?」

 振り返りざまそう叫ぶのは人間…角と縦割れの光彩が入った瞳、そして背中の翼と鱗に覆われた尻尾から明らかに竜種であるとわかるが…の壮漢だった。全身に小さな傷を負い、なにか敵に追われているのであろうことは容易に推察できる。


「ゥガァァァァァァァァァァァァァァァァァ~ッ!!」

 その男を追うように、草叢から飛び出したのは体長3メートルはあろうかという巨大な豹。体躯にふさわしくその牙の大きさ鋭さも長大であり、みごなし俊敏で殺傷力の高さを物語る。


「く…!?」

「そこの人! 助太刀は必要!?」

 大弓を手にベヤーズが叫ぶ。ベヤーズは狩猟国家テルケの民、その弓の技量は正規軍の弓兵10人前に匹敵する。豹に自分の存在を気取られようとなんだろうと、ベヤーズにとってそれは問題にすらならない。


「助かる! 助勢お頼みする!」

「では。…シッ!」

 呼気とともに放たれる一矢。弓弦がキィン、という清澄な音を立て、放たれた矢は風に乗り、風を裂いて飛ぶ。豹は脅威を悟って身を躍らせ、回避を試みるが、遠距離にもかかわらずの超精密射撃にとって巨豹の動きは鈍重に過ぎる。ベヤーズの矢は容易に後ろ脚を射貫き、そこに白と黒の人影、すなわち純白のコタンヌ装束をまとった黒髪のフミハウが身を躍らせる。あっという間に巨豹に肉薄し、手にした鋭利な短刀で切りつける。あたえた傷の上からさらに傷を重ね、ダメージを深く押し込むやりようはこちらも狩猟民族、コタンヌの民有数の戦士の技量だ。フミハウは決して歌の力だけで冒険者をやっているわけではない。


 豹はそれでも巨躯に恥じないタフネス。喉を唸らせ目の前のフミハウに躍りかかるが、そこに割って入るのが詠春と芙蓉。黒髪に赤いチャイナドレス、芙蓉の鉄拳が痛烈に豹の頭を殴打し頸椎をグキリと言わせると、反対側から漢服の詠春が必殺の靠法を叩きつける。地面が擦過で煙を上げるほどの強烈な纏糸勁から繰り出される、岩をも砕く鉄山靠の一撃。巨豹は目と鼻と口から鮮血をぶちまけて倒れた。


「ふう…少し、やりすぎたかしら?」

 敵が完全に沈黙したことを確認した詠春は、そう言って構えを解く。ベヤーズ、フミハウ、芙蓉もそれに倣った。


………………

…………

……

「いや、本当に助かった。礼を言わせてもらう」

 竜種の壮漢は感心しきりといったふうで頭を下げる。それはそうだろう、神力が失われた世界で、純然たる自身の身体能力だけでこれだけ洗練された戦闘力をもつ一団はそうそういない。帝国皇帝・新羅辰馬とその三傑、朝比奈大輔、出水秀規、上杉慎太郎であっても、今の世界でここまで鮮やかに戦えるかどうかわからない。


「こちらにも、用事があるから…」

「用事? 俺にわかることならなんでも答えるが…?」

「あなた、イシュハラ、知ってる?」

「イシュハラさま…? …アンタら、守護者様になんの用だ?」

 豪放に快活に、友好的だった男の態度が、急速に硬化する。だがこの態度で分かったことが一つ、イシュハラは死んではいない。


「聞きたい、ことがある。会わせて」

 フミハウの、歌姫とは思えない訥々とした言葉に男は気勢をそがれるものの、一度展開された警戒という障壁は簡単には消えない。なにせ近年この【神域】には新羅辰馬という史上最悪の魔王がやってきて、彼ら竜種が崇敬する女神グロリア・ファル・イーリスを弑すという死戎空前の悪業をなした記憶が新しい。その縁者かもしれない連中に、残された唯一といっていい指導者、イシュハラを合わせることは危険であった。


「こうて…」

「フミちゃんストップ。…わたしたちは竜種の里というものに興味がある冒険者でね、その指導者であるイシュハラ様にお話がきければ、と思ったのだけれど」

「もちろん、取材費を支払わせていただきます。とりあえず、こちらを…」

 皇帝、と言いかけたフミハウを詠春が制し、そして芙蓉が金子を握らせる。男はふむ、とわずかに態度を軟化させた。


「まあ…アンタらは信じてもいいか。ただ、守護者様が会われるかどうかは保証できんぞ?」

「十分よ。ありがとうございます」


………………

…………

……

 竜種の隠れ里は質素な場所だった。文明や文化が劣っているわけではないが、彼ら竜種は可能なだけそうしたものに毒されることを避けて生活する。今の時代にガスも電気も水道にも頼らず、明かりは太陽、火が欲しければ木をすり合わせ、水は井戸を掘る。石炭や石油すら彼らはほとんど使わない。高度な魔力を誇っていた数か月前までならそれでも十分な生活が可能だったろうが、魔王に女神を弑されたことで彼らの生活基盤は根こそぎに粉砕されていた。このためただでさえ絶対数の少ない竜種の若者は【神域】を去って山を下り、残された力の弱い年寄り竜種はこれまで脅威でなかった野獣たちに怯える日々を送る。この男が巨豹に襲われていたのも郷を襲った豹をどうにかひとりでひきつけて逃げていた結果であり…そうしたことを考えると新羅辰馬という英雄の為したことが、全世界的に絶対の正義とは言えないということもわかってしまう。それは有史以来どんな英雄の所業も、やはり裏を返せば徳業でなくなってしまうことと同じなのだが。


「皇帝の走狗、よく来ました」

 あっさり会うと言った守護者イシュハラは、郷で一番大きな建物…族長邸というより、公民館とかそういった公共施設という風が強い…で4人を迎えるなり、開口一番そう言った。皇帝、といえば赤竜帝新羅辰馬のことであり、辰馬を仇敵と信じる竜種たちは当然のごとくどよめく。が、それを制したのはイシュハラ自身であった。


「鎮まりなさい…彼は彼の正義を成しただけのこと」

「しかし…っ!」

「…わたしがここに生きてあるのはかの皇帝のおかげなのですよ」

 いきり立ちおさまらない同族に、イシュハラはそういう。さきの新羅辰馬と女神イーリスの対決において、イシュハラは眠りから復活した女神グロリアの依り代とされ、魂を破裂させられた。正しくは破裂されられかけた。


 その、塵芥のように粉砕されかかったイシュハラの魂をとどめて、グロリア消滅後に残った肉体に還したのが新羅辰馬である。辰馬に確認を取ったわけではないが、女神の奇跡が起こるはずもなくなった世界で、一度死んで魂まで破壊されたイシュハラを再生させうる存在は地上唯一の盈力使い、新羅辰馬を置いてほかにありえない。


 これを話すことで、竜種の男たちは怒りを鎮静させる。むしろ必要に駆られて話した女神の残忍な部分、人間をもてあそぶ部分に関してのに話が及ぶと、それまで信じてきた女神崇拝もが揺らぎ始める。


「皇帝に恩義を感じているなら話は早いです、【命の秘薬】をお渡し願えますか?」

 詠春が一気に核心に迫る。しかしイシュハラはかぶりを振った。


「それだけで我らの至宝を渡すことはできません。そもそも彼が挑んでこなければ、われら竜種の平穏は揺るがなかったのですから」

「では、どうすれば?」

「…あなたがたは皇帝に遠深いわけではないのでしょう? にもかかわらずなぜ彼のためにこの【神域】までやってきました? 皇帝のために命を懸ける理由は?」

「それなら…」

 イシュハラの問いに、ためらうことなく口を開いたのはフミハウ。大きな瞳をわずかに伏せ、訥々と、短いリズムを刻むように朱唇を躍らせる。


 赤竜帝国の全身、アカツキ皇国。その北方には宗教特区ヒノミヤがあった。いわゆる白雲連峰であるが、フミハウの故郷であるコタンヌとベヤーズの故郷であるテルケはさらにその北、白雲連峰からラース・イラとの国境地帯である北嶺山脈の間の峻険な土地にある。ここから東に進むとラース・イラ宰相であったハジルの故地テンゲリであって、この三小邦とも狩猟民族国家であり、狼を祖霊とすることで共通する。三国ともアカツキという大国からは認可を受けていなかったが、赤竜帝国に代わってテルケもコタンヌも正式の国家として認められ、いちど滅ぼされたテンゲリは復興された。国、というものへの帰属意識においてこの時代のフミハウやベヤーズのそれは後世から推し量ることができないほどに強い。民族の誇りは個人の誇りであり、それを認めくれた赤竜帝への恩義は海ほどにも深い。詠春や芙蓉にしても、いちど滅びた桃華帝国の民である。支配者として入ってきたのがほかの元帥ではなく辰馬であったことに救われた点、多きにわたる。彼女らが辰馬のために命を擲つ理由はそれで十分だった。


………………

「……………わかりました。かの帝の徳を信じましょう」

 フミハウの言葉が終わり、しばらくの沈黙があって。イシュハラは負けを認めるように言った。


………………

…………

……

「【アムリタ】はもともと女神グロリア様が力を保つために地上で作らせた神酒。ありとあらゆる病を駆逐し、生命力を賦活し、人が飲めば神にも匹敵する力を、神が飲めば造物主に並ぶ力を与えます。けれどこの聖酒はきわめて傷みやすく、この【神域】を離れて長くその効力を保つことはできません。日光、乾気、湿気、どれも致命的であり、そしてなにより遺物が入ってはたちまち聖なる力を失います」

「わかった。気を付ける…これで、瑞穂が喜ぶ…」

 瑞穂の笑顔を想像して、フミハウは表情をほころばせる。そしてその日のうちに、彼女らは竜の里を辞した。


「さぁ、急ぎましょう! アカツキへ!」


………………

…………

……

 トゥアハーの海戦、大勝の知らせを受けたその翌日。

「ふあぁ…なんか、甕ひっくり返す夢見た…足が濡れた…」

「んん? 甕?」

「いや、夢の話。ん…今日はなかなかいー感じだな。悪くない。しず姉、ちょっとデートするか?」

「え? うれしーけど…たぁくんだいじょーぶ?」

「だいじょーぶ大丈夫。危なかったらしず姉が守ってくれ」

「…ん、うん。そんじゃ、行こぉ♪」

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