第3話 皇妃の涙

 牢城雫は神楽坂派にもエーリカ派にも属さず、両派閥に自由に出入りする。それは彼女がほかの皇妃たちにとって教師であり姉であるという立場ゆえに許されることであり、瑞穂がエーリカとの電話会談でシドゥリの媚毒、ラユェタンスを譲り受けるという約束をかわすと、磐座穣の請願を受けて太宰の京城柱天に向かった。瑞穂が出向いたならおそらく、エーリカは瑞穂を幽閉するかあるいは殺すだろう。それを避けるための措置であり、雫の戦闘力ならとらわれる気づかいもなく、申し分がない。


 そうして少弐から太宰に出向いた雫はシドゥリの媚毒をエーリカに渡し、その場で捕らわれる。この事実にはエーリカや、その側近である出水が驚いた。


「んー? どしたの? 驚いてないでちゃーんと牢屋に入れないと」

「あ…うん…連れて行きなさい!」


 エーリカの号令で、雫が連行される。この事態を密偵皇妃・晦日美咲の報告で耳に入れた磐座穣は雫の身を案じ自分の早計を呪ったが、当然、雫としては成算なく捕まったわけではない。エーリカと話をするにはこうして捕まるよりほかにないとの判断だった。


 その夜。牢獄でリラックスして眠る雫の前に、単身、エーリカが立つ。そばには腹心たる出水すらつれておらず、そのことが腹を割って話したいという彼女の想いを如実に示す。


「牢城センセ、なんでわざとつかまったの? アタシ、こんなやつよ? センセのだって処刑しろとか言っちゃったかもしんないのよ?」

「んー…それはないと思ったから。エーリカちゃんはたぁくんの国を守ろうと必死なんだよね。それで余裕がなくなってひとにも自分にも厳しくなっちゃってるだけなの、わかるから」

「……………」

 優しい瞳で言われて、エーリカの鼻腔がスンとなった。エーリカの周囲の誰一人として理解してくれず、エーリカ自身言語化することのできなかった自縄自縛の痛み。紅蓮の皇妃などといわれ苛烈を憎まれたエーリカの原因をあっさりと言い当てられて、エーリカはうっかり泣きそうになる。


「でもねー、エーリカちゃんはたぁくんの「秩序」を守りたいんだけど、みずほちゃんはたぁくんの「自由」を守りたいんだよー。お互いにわかり合って昔みたいに仲よくするって、できないかなー?」

「ありがたいけど…できない。アタシはたつまの一番になりたいから! なにもしなくてもその立場に居られる牢城センセやみずほには負けらんない!」

「一番、かぁ。たぁくんは女の子に順番なんかつけないと思うよ?」

「わかってるわよ! アイツは差別も区別もしない、でもやっぱり無意識の優先順位があって、その一位はアタシじゃないのよ!」

 それはエーリカのポジションだからこそ感じることだ。常に一番大事に扱われる瑞穂や雫では、自分でそのことに気づくことはできまい。おろそかにされたわけではなくともそれこそ無意識的な格差をつきつけられ、自分が瑞穂や雫に負けてしまっていることを思い知らされたことがエーリカをゆがめた。10年前、シェティという息子を得てそこのところのコンプレックスをわずかに解消されたエーリカであり、子のない雫には多少の寛容をもって接することもできるが獅廉という息子を持つ(乕の存在はこの時点で、エーリカには隠蔽されている)瑞穂にはやはり優しくなれない。要するにエーリカの苛烈はコンプレックスの裏返しだった。


「………………」

 雫は立ち上がると、格子越しにエーリカの腕を掴む。「…っ!?」害するつもりか、とエーリカが身を引こうとするのを、ものすごい馬鹿力の膂力が引いた。


「よーし、よーし…」

「へ…?」

「つらかったねー、エーリカちゃん。あたしが味方して上げられればよかったんだけど、あたしはどっちにも味方はしないって決めてるんだよね。これから先、戦うとしたらたぁくんのためだけ。でも、つらくて苦しいエーリカちゃんを甘やかすくらいはしてあげられるからさー。はい、いーこいーこ」

「ぁ…う…そんな、優しくされると…ぐすっ…」

 雫に優しくなでられて、エーリカはついに涙を流す。蒼月館体育講師から幼年学校教諭と教職を遍歴してきた雫の包容力は、イキがって冷酷ぶるだけのエーリカに太刀打ちできるものではなかった。


 翌朝、雫は牢を出され、賓客の待遇で太宰から解放される。少弐に返った雫を瑞穂、穣、美咲以下の面々は顔色を変えて迎えたが、雫はニコニコ笑うばかりでなにがあったかを語ることはなかった。


……‥………

 太宰・少弐の2都市から霊峰へ出向く精鋭は10000と決められた。太宰からはエーリカ・リスティ・ヴェスローディア、北嶺院文、出水秀規、朝比奈大輔、長船言継、覇城瀬名。これに旧エッダの大公領から明染焔とニヌルタ、イナンナが加わる。焔を全面的に信頼しているわけではないエーリカが、自分が太宰を開けているときに焔をフリーにするわけがなかった。


 少弐から神楽坂瑞穂、牢城雫、磐座穣、晦日美咲、上杉慎太郎、塚原繭、フミハウ、李詠春、蕭芙蓉、ベヤーズ、武蔵野伊織、源初音。太宰側より部隊長格の人数で言えば3人多いが、そのぶん兵数は太宰側7000、少弐側3000とされた。皇帝・新羅辰馬にラユェタンスを渡す大任は雫からこれを受け取ったエーリカが担い、遠征の帰還は半年と定めてその間の政治は信頼のおける文武の官が任官された。


 そして1836年6月19日、新羅辰馬と神楽坂瑞穂にとって大きな意味を持つこの日に、10000の軍は遠征に出た。


「姫サマぁ、荷物、重くねぇですかぃ? オレが持ちますぜぇ」

 太宰側と少弐側は明確に分けられて進軍開始したのだが、すぐに秩序を乱すバカが現れた。長船言継は以前通りの脂下がった笑みで瑞穂に近寄り、言い寄るが、にべもなく無視される。


「長船、邪魔です」

「邪魔をするならその腕、斬り落としますよ」

 後続の穣、美咲がそう言って長船を追い越す。美咲の鋼糸がわずかに光を反射してきらめくと、長船は「っ!?」と腕を抱えて飛び退る。


「あんまりそいつをいじめないで。戦術指揮官としては瑞穂に匹敵するんだから。やる気をなくされると戦力が大きく落ち込むわ」


 エーリカが珍しく、少弐派の面々に冗談めかした口を利く。少弐派の面々は顔を見合わせたが、ひとまず冷酷な威圧感が薄まっているのをみてエーリカを微笑で迎えた。雫がうんうんと笑っているのを見て穣が「牢城先生の感化ですか?」と聞くが、雫はかるくかぶりを振る。


…………………

ウェルス共和国、神域霊峰。


「なかなかに…しぶといですね…」

 守護者イシュハラはいささか辟易した顔で呟いた。今日一日で何百回相手を雷霆に打ち倒したかわからないが、その都度に立ち上がる相手のタフネスと、タフネス以上に致命傷を避ける格闘センスには驚嘆せざるを得ない。


「そら、何年もお前の相手してっからなぁ…それでも一歩及ばなかったが、そろそろ追いつけてきた気がするぜ?」

 全身雷撃で煤だらけにして、それでもなお美しい銀髪の青年。腕ですすを掃うと下の肌は透けるように白い。体躯は華奢で細いが虚弱さは微塵もなく、雄々しさすら感じさせる。端正な美貌の中で精彩を放つ大きなアーモンド形の瞳は深い血の赤であり、彼が魔族の血を引くことを如実に語る。背に生える36枚、燃える金銀黒白の翼は青年の出力の全開、メタトロン・モード。


 青年、赤竜帝国初代皇帝にして魔王継嗣・新羅辰馬は自己の全力全開を存分に発揮して、それでもなおイシュハラの身体に一撃すら当てることができていなかった。正確には辰馬の相手をしているのはイシュハラであってイシュハラではなく、女神イーリスから「代行権限」を譲り受け、行使しているイーリスの分霊としてのイシュハラだが。ゆえにかつて辰馬が使った瞳術による力の封印も通用しない。イーリスは10年前の辞典では寝ぼけた巨竜モードの自分で辰馬に対していたが、それはすぐに辰馬に通用しなくなった。そこで本気のイーリスが出る…ほどにグロリア・ファル・イーリスという創世女神は勤勉ではなく、代理として立つことになったのがイシュハラである。イーリスの力のほとんどすべてを使いこなせるイシュハラはまさに過去最強の相手であり、これまでの旅と冒険で比類なく実力を高めた辰馬ですら即死を免れるような戦いに気を付けるのが精いっぱいであった。


「この雷に追いつけるというなら…見せてもらいましょう!」

腕を薙ぎ払うイシュハラ。爆ぜて跳ねる爆雷が竜洞を震撼させる。数万年、イーリスを守護してきたこの場所がこの程度の衝撃で壊れるはずがない、イシュハラは安心して全力だった。

「っし!」

 対の魔剣、紅羿と蒼海を両手に、まず蒼海から凍気を迸らせて雷撃を一瞬、止める。次の瞬間氷壁はあえなく粉砕されるが、その時すでに辰馬は跳躍してイシュハラの間合いに入っている。紅羿をふるい焦熱波を放つ。魔皇女クズノハの必殺、那由他無限之黒炎燐火にも匹敵するほどの熱量を、しかしイシュハラは腕を旋回させて生じた電磁波で容易くかき消した。そして空中で無防備になった辰馬に目掛け跳躍し、飛び膝、回し蹴り、後ろ回し、かかと落としの連続蹴り。


「かっ!?」

「所詮はその程度ですね。あなたではグロリア様に敵いません」


 そしてここからが地獄である。追撃の雷撃と強烈な薄打が間断なく打ち込まれ、かわし損ねたら辰馬と言えども即死。


「ち、この…今日はしつこいなぁ! さっさといつもみたいに寝ろよ!」

「今日のグロリア様は調子がいいようで。この機にあなたを殺して、憂いを断つとしましょうか」

「ふざけんなばかたれ!」


 辰馬の調子がぐん、と一段あがる。創世女神を殺せる自分が死ぬわけにいかないという使命感か、それともひさしく忘れていた「ばかたれ」という口癖を口にのぼせたからか、突然に調子を上げた辰馬はイシュハラと互角以上に渡り合う。


 それでも…地力で負けてるか…。


「たつま、これ受け取って!」

「!?」

「っ!?」

 懐かしい声。辰馬が投げ込まれたものを手にした瞬間、イシュハラの目つきが如実に変わる。


「シドゥリの媚毒…ラユェタンスよ! やっちゃえー!」

 駆けつけたエーリカの声に応、と答え、辰馬は紅羿の柄のスロットにラユェタンスを挿入、刹那、辰馬の戦意に応じて剣が唸りを放つ。それは敵を喰い殺すことを喜ぶ野獣の咆哮にも似る。


 瑞穂以下の面々も、兵たちを洞窟の入り口において駆けつける。イシュハラが絶無の神力を使うとはいえ辰馬がついに創世の神殺す刃を手に入れ、ほかの皆は神力魔力を使えないものの戦い慣れした21人。いまや戦況は逆転した。

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