9 Invisible Person 3

 ミツルカズと一緒にアイ探偵事務所を出たのは、午後三時をすこし過ぎた頃のことだった。

 強い陽射しを浴びたアスファルトには熱が籠もっており、うだるような暑さは衰えることを知らないようだ。


「アイに頼まれていることがあるんだ」


 軽快な足取りでビルの階段を駆け下りながら一哉が説明する。


「ひとつ目は、10008ヨロズヤイワリクを殺すように依頼した人の特定。候補は二人いるんだけど、アイはその二人のどちらが依頼人なのか絞り込めないって言うんだ。多分、どちらも条件が五分五分ってところらしい」

「そもそも、AIってのはどうやってその犯罪組織とコンタクトを取った相手を特定するんだ?」


 探偵の助手をすると口約束をしたものの、果たしてなにをすれば良いのかよくわからないまま満は事務所を出た状態だ。


「10008はいつもSNSで依頼人を選んでいるんだ。だから、アイは複数のSNSサービスのテキストと画像をすべて分析して、その中から10008へのメッセージだと判断できるものを選び出す。そしてさらに発生した転落事故や事件から10008が関係すると判断できるものをピックアップして、どのSNSアカウントが依頼人なのかを絞り込むんだ」

「毎日世界中で膨大な数のメッセージがSNSに投稿されているのに、特定できるのか?」

「AIだからね。それに10008が利用しているSNSサービスは三つに限られているし、依頼人が鍵アカにしていると10008からコンタクトはないんだ。鍵アカでもアイの分析の障害にはならないけど、10008は鍵アカは無視するってスタンスらしい。で、10008は自分たちが選んだ依頼人にダイレクトメッセージを送るわけだけど、その際の10008のアカウントはいつもバラバラだし、ユーザー名は乱数だし、10008が公開しているユーザー名やメアドはないから、依頼人は基本的に10008から選ばれるのを待つしかないんだ」

「でも、それだと10008の偽物が現れたりしないのか?」

「しているよ。でも、10008の偽アカはすぐに消える。多分、10008が自分たちで偽アカを潰してるんだ。偽アカっていうのは営業妨害以外のなにものでもないからね」


 一哉の口ぶりからは、10008に対する負の感情は感じられない。


「10008はどうやって世界中から発信されるメッセージを自分たち宛てのものだと判別しているんだ?」


 SNS上のメッセージは日本語だけではない。

 SNSサービスはどの言語でも利用できるものが多いだけではなく、さきほど事務所内で聞いた話によれば画像で10008へメッセージを送るアカウントもあるという。


「それはもちろん、10008だってAIでSNSのメッセージを解析してるんだよ。特定のアカウントを持たない以上、人力で10008宛てのメッセージを探し出すのはかなり大変だろうからね。10008は基本的には日本在住の人からしか依頼を受けない。また、殺害依頼の場合は標的が日本在住であることも条件だ。標的が離島に住んでいる場合は断るらしい。怨霊や透明人間がわざわざ離島まで人を殺しに行くなんて面倒なことはしないってことだね」

「人里離れた山小屋で殺人事件とか」

「マンガやミステリ小説じゃないからさ。あと、転落事故って言っても、サスペンスドラマみたいに断崖絶壁からも突き落としたことはないみたいだよ」


 一哉は丁寧に説明をしてくれるが、すでに満は情報過多で理解力が追いつかなくなっていた。


「で、その依頼人を特定してどうするんだ?」


 細かいことを知るのはひとまずやめておくことにして、満は話を元に戻した。


「依頼人に揺さぶりをかける。10008に岩田陸殺害を依頼した奴は、四ツ坂マンションの事件をいまでも気にしているはずだからね。警察はタカハシロウを犯人として逮捕したけれど、高橋は10008なんだろうかとか、高橋が10008じゃないなら自分は10008に依頼料を払わなくて良いんじゃないかとか、他にもいろいろなことを考えているはずだよ」

「それは、アイが依頼人の心情を推理したのか?」

「違うよ。僕の考え。アイは人の心なんて推理しないし考慮もしない。人間の心理ってのはアイにとってはさっきの『例外処理』ってやつだよ。それにアイはAIだから感情はなくて、僕が指示されたことを達成できなかったとしても怒らないし、罵ることもない。僕が指示を達成するまで待ってくれるし、もし期限まで待っても達成できないなら他の方法を模索する。それがAIだよ。職場の上司の機嫌を伺う必要はないし、忖度することもないんだ」


 うだるような熱気であふれ出した汗を手の甲で拭いながら、一哉は楽しそうに告げる。


「……なんで君は探偵の助手をしてるんだ?」


 聞いて良いものか一瞬だけ迷った満が尋ねると、一哉は首を傾げた。


「なんでかな。最初は大学中退してすることがなくて引き籠もってたときに、大学の先輩がアイ探偵事務所を紹介してくれたんだ。そこで助手の真似事をしていたらこの仕事が結構自分に向いてるなって思うようになって、いまも続けてるって感じ」

「大学中退?」

「僕、中学から陸上をやってて、大学はスポーツ推薦でD大に入って陸上部で長距離選手として全国大会でも入賞したりしていたんだ。でも、事故で大怪我をして、前みたいに走れなくなったら陸上部は辞めるしかなくなって、大学も通う意味がないって思うようになって退学した」


 あっけらかんと過去を話す一哉は、だからといって過去と決別できているようには見えない。


「スポーツ推薦で入ったからって大学まで辞める必要はないって友達は言ってくれたけど、なんか人間関係がわずらわしくなったんだ。走れなくなった僕を見て『可哀想』って憐れむ同級生や後輩、『調子に乗ってたからだ』って嘲笑う先輩、選手として活躍できなくなった僕に失望した顔をするコーチに会いたくないってのもあるし、それまでの陸上部でのコーチの怒号や部員たちの嫉妬にも疲れていたのかな。だから、感情を持たないアイと仕事をしているとほっとするんだ」


 淡々と『例外処理発生』と告げたアイの声音が満の脳裏に甦った。

 人の感情を理解しないAIに、人間の感情が大いに絡む事件を解決できるものかと懐疑的な気持ちはある。

 ただ、『例外処理』として感情をすべて排除する存在を欲する人もいるのだ。

 殺人事件の動機のほとんどは、人の感情に因るものなのだから。

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