◆覚え書き◆ 「蛍火論」あれこれ
前回まで連載していた短編「
拙作『陳思王軼事』にはできるだけ曹植の作品を絡めてゆきたいと思っておりますが、「熠燿宵行」は、彼の「
現在我々が「蛍火論」として読む文章は、論説として一応まとまった内容をもっているものの、本当はもっと長大な作品の一部だったかもしれません。
というか、「蛍火論」というタイトル自体が、現存の限られた内容にもとづいて後人が付けたものである可能性が高い気もします。
しかし、曹植のオリジナル文集(に近いもの)が唐宋間で散逸したことによりその全体像は分からなくなり、現在確認できる「蛍火論」の出所としては、唐代の
引用されている文章は以下のとおりです。
(訓読文と現代語訳はあまり信用しないでいただければ幸いです。もし既刊の論文や研究書に訳文が載っていたらぜひご教示ください……)
原文:
陳思王「螢火論」曰、『詩』云、熠燿宵行。章句以為鬼火、或謂之燐。未為得也。天陰沈數、雨在於秋日。螢火夜飛之時也。故云宵行。然腐草木、得溼而光、亦有明驗。眾說竝為螢火、近得實矣。
訓読文:
陳思王「螢火論」に曰く、“『詩』に云へらく、熠燿宵行と。章句 以て鬼火と為し、或ひは之を燐と謂ふ。未だ得るを為さざるなり。天 陰沈すること
現代語訳:
陳思王「蛍火論」はこのように述べる。『詩経』[の「東山」]に「熠燿宵行」という句があり、薛漢の『韓詩章句』はこれを「鬼火」(別称:燐)と解するが、妥当ではない。秋の日には空が暗く曇りがちで雨が降りやすい。蛍が夜に飛ぶのはこの時期である。ゆえに[「東山」の詩では]「宵行」という。ところで腐った草木は潤いを得れば光ることもまた明白な証拠がある。[この句については、韓詩以外の]諸説がいうように「蛍火」と解するのが、実態に近いであろう。
曹植は(現存する限りの)彼の作品全体からみると、『詩経』諸学派のなかでも韓詩のテキスト・解釈に立脚した上で『詩経』の要素を自分の作品に取り込んでいる、ということがしばしば指摘されています。
それでありながら、この「蛍火論」という文章においては、韓詩学派の解釈を退けているのがわりと珍しい感じです。
一方、『十三経注疏』に校勘記を付した清代の学者
その段玉裁の文章の出典はおそらく、同氏撰の『毛詩故訓傳定本』巻15毛詩国風なのですが、段玉裁は同巻において、毛伝を「熠燿、燐也。燐、熒火也」(版本によっては「燐」を「㷠」に作る。意味は同じ)と引用しています。
つまり前提として、この毛伝テキストの後半は「燐、
そしてその毛伝とリンクさせて、段玉裁は以下のように論じています。
熒火與『列子』天瑞・『淮南』汜論・『說林』二訓・『說文』・『博物志』所說皆合。謂鬼火熒熒然者也。淺人誤以「釋蟲」之「熒火卽炤」當之、又改其字从虫。其誤蓋始於陳思王也。思王引『韓詩章句』鬼火或謂之燐、然則毛韓無異。又毛多云行道也。宵行正謂夜閒之道、由室戶而場而行由近及遠也。
冒頭で挙げられている諸書が「說く所」というのは、おおよそ以下の記述を指しているものとみられます。
『列子』天瑞:馬血之為轉燐也、人血之為野火也。
『淮南子』汜論訓:老槐生火、久血為燐、人弗怪也。
『説文解字』炎部・㷠:兵死及牛馬之血為㷠。㷠、鬼火也。从炎、舛。
(上記のとおり、㷠は燐に同じ)
『博物志』:鬪戰死亡之處、其人馬血積年化為燐。燐著地及草木、如霜露。
段玉裁はこれらを念頭に置いた上で、
「毛伝以外の諸書も、“熒火=鬼火”としている。思慮の浅い者が、『
その誤りはおそらく曹植に始まるものだ。曹植は[後漢末期にはまだ伝存していた]『韓詩章句』の記述を引いて“鬼火”の異称は“燐”であるとするが、そうであるならば、[わたしの解釈によれば毛伝は“燐=熒火=鬼火”とする立場なので]毛詩と韓詩はこの箇所においては解釈を同じくするのだ。
“宵行”とはまさしく夜半の道行きであり、部屋の戸口から[鹿が憩う]畑へと、近くから遠くへと及ぶのである」
という主旨で批判していると思われます。
ガチの考証学者はほんとにガチ詰めするよな……という感じですが、ただ、曹植のオリジナル文集が散逸して久しい清代では、曹植本人が書いた原文が本当に「熒火」でなく「螢火」だったかどうかも突き止められないわけなので、あまりこの点を批判するのもどうかなという気もします(前掲のとおり、趙幼文『曹植集校注』は、文末のほうの「螢火」を「熒火」に作っています)。
実際のところ、それらの議論は拙作の筋とはあまり関係ないのですが、ともかくはっきりしているのは、(『毛詩正義』が「蛍火論」を正確に引用しているとすれば)曹植は「蛍火論」において、「東山」という詩の「熠燿宵行」という句は鬼火ではなくホタルが宵闇に飛ぶさまを指すのだ、と主張しているということです。
もう一点留意すべきとして、「蛍火論」の文面によれば、曹植はホタルの明かりは秋に目にするものだと考えていたらしいことです。
ただし、当時の秋すなわち旧暦7・8・9月はおおよそ新暦8月半ばから11月半ばにかけてなので、彼のいう「秋日」が孟秋(旧暦7月)であれば、いまの8月にホタル狩りをするようなものなので、それほど違和感はなさそうです。
とはいえ、通行本の『
これら2種の礼書(後者は『礼記』の異本?)いずれにも出てくる「腐草為螢」は文字通り、「草の葉が腐敗するとホタルになる」という意味かと思います。
曹植が「螢火論」のなかで「雨在於秋日。螢火夜飛之時也。故云宵行。然腐草木、得溼而光、亦有明驗」と述べているのもやはり、「腐草為螢」という『礼記』等の記述をふまえたものと考えられます。
しかし古代の中国でも「いや、植物が腐って虫になるとか無理じゃね?」と懐疑した人はおそらく一定数いたと思われ、曹植も、『礼記』をそのまま受け入れるのではなく、「草木が腐るというのは水分を多く含んだ状態である。だから(夜には)光るのだ」というロジックで、上記のような書き方をしているのだと思われます。拙作でもその解釈を反映させました。
一方で三礼研究の泰斗である
「皆記時侯也。鷹學習、謂攫搏也。夏小正曰、六月鷹始摯。螢飛蟲、螢火也。……或作腐草化為螢者、非也。……」
と注しています。おおよその意味としては、
「この箇所はいずれも時候を記したものである。鷹が学ぶとは、爪や翼によって獲物をとらえることを言うのである。[『
という感じでしょうか。
つまり、鄭玄は「腐草」と「螢」の間は「為」1文字か「化為」2文字かを問題にしているのであって、腐った草はホタルになる、のが本当かどうかは論じていないようです。
この鄭注に対し孔穎達は、
「“腐草為螢”者、腐草此時得暑濕之氣、故為螢。不云“化”者、蔡氏云、鳩化為鷹、鷹還化為鳩。故稱“化”。今“腐草為螢”、螢不復為腐草、故不稱“化”」
という疏を付しています。おおよその意味としては、こんな感じでしょうか。
「“腐草為螢”というのは、腐敗した草はこの時期(旧暦六月)、暑気と湿度にさらされるので、ホタルになることをいう。(ただ「
なるほど……!ってまったく納得できませんが、とにかく孔穎達は、「ホタル→腐った草」という変化は否定するものの、「腐った草→ホタル」という変化は否定していないことだけは確認できました。
そもそも、鄭注・孔疏とも、経伝の伝えんとすることを正確に解釈することを目指しているのであって、その内容の科学的真偽を検証することを目的として書かれているわけではないので、必然的にこういう記述になるのだと思われます。
話がどんどん曹植から逸れていっている気がしますが、要点としては、曹植は「熠燿宵行」の句を「鬼火」ではなく「螢火」と解しており、かつおそらく『礼記』をふまえて「ホタル」と「腐った草」を並べて論じているが、「腐った草がホタルになる」とは明言していない、ということになります。
曹植ファン以外にとってはほんとどうでもいい結論だな!すみません!!
最後にもう一点、ホタルつながりで申し上げると、中国の古典詩で「夏の夜(あるいは秋の夜)のホタルとは鑑賞すべきもの」という美意識のもとで書かれた作品は、古い時期にはあまりないようです。
きちんと調べると大変なので超ざっくりなやりかたですが、「中国哲学書電子化計画」様(https://ctext.org/zh)にて、現存する類書のなかでは初期のものである、唐初に成立した『
他方、同じく初期類書である隋の『
『類聚』は南朝文人の作品を好んで採る、という傾向もあるかもしれませんが、それでも漢代や先秦期の人の詩文作品も採録対象としているので、上記の結果をみるかぎり、中国文学史においてホタルが詩材として扱われるようになった、つまり詩に詠むべきほど風情のあるものだと位置づけられるようになったのは、おおよそ南朝梁以降ということになりそうです。
「寒泉」様(http://skqs.lib.ntnu.edu.tw/dragon/)の『全唐詩』などで検索してみると、ホタルを詩に詠みこむことは唐代にはすっかり定着したらしいということが分かりました。
(中国古典詩におけるホタルの扱いについては、既にちゃんとした論文がどこかで書かれているだろうという気がしますので、この駄文は超ざっくり省エネ無気力調査ということで、くれぐれも眉唾物としてお読みください)
また、詩とは無関係ですが、『隋書』巻4煬帝紀下の大業12年5月の条に「壬午、上於景華宮徵求螢火、得數斛、夜出遊山、放之、光徧巖谷」とあるのによれば、隋の
これは皇帝にしかできないダイナミックな例ではありますが、煬帝がそういう発想に至ったのも、本来は北朝系の王朝である隋において既に、おそらく南朝由来の「夏(秋)の夜のホタル=風情があるもの、詩情をそそるもの」という感性が根づいていたからではないかと思われます。
洗練を極めた南朝の詩文が北朝系の王朝では長らく愛好されていた、という背景も関係しているのかもしれません。
つまるところ、何が言いたいかというと、拙作「熠燿宵行」の終盤は「夏(秋)の夜のホタルは風情があり、観賞して楽しむべきもの」という前提で話が進んでいますが、曹植ふくめ実際の漢魏期の人々は、必ずしもそのように認識していなかったであろう、ということになります。
でも、その可能性がないわけではないですよね……?
曹植も、兄弟や友人たちとはしゃぎながら玄武池のあたりでホタル狩りを楽しんでいたかもしれないですよね……?(願望)
今回はとりわけ作者自身のための覚え書きという性格が強いのですが、ここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。
「蛍火論」あれこれ・了
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次から「清河篇 余話(二)」に入ります。
曹植の弟のなかで曹植ととくに仲が良かったとされる
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